2-37.闇の覚醒はすぐそこに
大騒ぎになってしまったとはいえ、彼女を探したであろう人々が王の客人を見つけられなかったのは、アレッシアが屋根に逃げたからだ。王城で二番目に高い位置に存在する屋根に敷物を持ち込んだ彼女は、人の営みを眺めたり、ぼうっと空を見つめたりして数時間になる。
あまりに動かないものだから、わざわざ水分を差し入れたのは姿を隠していた人狼だ。人が来ないのを良いことに座禅を組んでいたカリトンが瞼を持ち上げたのと、アレッシアが口を開いたのは同時だった。
「私、どのくらいまでここにいればいいのかなぁ」
「知らん。こればかりは女神のご意思とお前次第だろう」
「その試練の中身がよくわからないんですってぇ。てっきりなになにをクリアしてきなさいって言ってくれるのかと思ったら、そういうお告げとか何もないんですもんあの人」
「人ではない、神だ」
「見た目が人だからそう言っただけですぅー」
何もわからずに放り出されて、何を努力すれば良いのかわからないから、指針がまるで定まらない。女神への愚痴は信仰心への問いと、下手を打てば侮辱の表れなのだが、慣れてしまったのか二人は不問としてくれるようだ。
ただ、彼女の問いにルドは答えた。
「その割に、何をしたら良いのかをお前はお前自身で気付いているように見える」
「テミスのことでしょ。それはわかってるよ」
ぶう、と頬を膨らまして大の字で転がると、じたばたと両手を動かす。或いは幼い子供のような駄々にカリトンがしかめっ面になるが、アレッシアは無視して続けた。
「でもなんとなく“そんな気”がするだけで、言ってもらったわけじゃないもん。これを試練の答えとか言われても、そもそも説明責任の放棄をしてる時点で納得なんかできませーーーーん」
「愚痴を吐くな。みっともない」
「やだやだやだやだやーーーだーーーー」
大声でまくしたてる姿は酷くみっともなく、いっそうカリトンの眉間に皺が寄って行く。これまで愚痴を控えていた分だけ鬱憤が溜まっていたのか、もうしばらくはわめき立てるつもりのアレッシアだったが、ふと動きを止めた。
「その“そんな気”がするなんですけど」
真顔になって空を仰いでいる。一瞬の変化は二人に別の意味で緊張させるのには充分なまでの真摯さが含まれていた。
「あとちょっと、私はなにかしなきゃいけない気がしています」
先ほど改めて王と王妃に拝謁して確信した。アレッシアはテミスやニキフォロスのことは好きだが、この王城という場所は嫌いだ。彼らの目にはアレッシア達を利用してやろうという野心に溢れており、その姿には軽蔑を感じ、王妃の言葉には呆れさえ抱いた。ルドとカリトンさえいればミノアニアという国を出ることさえ考えたが、それらを留めているのはひとえにテミスの存在だ。
だけど、とアレッシアは自分自身に不信を抱くようにきゅっと唇を結ぶ。
「なにかを考えるたびに私はそれを見たくない気もしてて、すごく嫌な気持ちになります」
ストラトス家に帰りたい気持ちは、ヴァンゲリス達が彼女に郷愁を抱かせるのに成功した証だ。あの情けない当主とその婚約者問題が残っているから、アレッシアが仲を取り持って問題に取り組んでやらねばならない。執事パパリズの茶を飲んでゆっくり一息吐いて、孤児院にいる友エレンシアや院長に手紙を書く。早くこの日常を取り戻したいと思うから、この先待ち受けている何かを待ち遠しく感じるのだが、それと同時にこの先を見たくないとも強く感じている。
押し黙るアレッシアの耳に届いたのは、カリトンの呟きだった。
「……そう思うのも無理はないか」
少年の声音には、明らかに“何か”を知っている趣があった。彼女に待ち受けているものを彼は知っている――身を起こしたアレッシアを止めたのは、彼女と同い年ほどの少年だ。
「アレッシア」
ケルテラ、レア、オミロスを引き連れたテミスだ。
屋根に繋がる尖塔の窓から顔を出した少年達は、屋根の傾斜に驚きながら、自身も屋根伝いにアレッシアの元へやってくる。途中、バランスを崩したオミロスの手を掴んだのはルドで、ひいひい言いながらも諦めない姿にアレッシアは物申した。
「怖がるくらいならそこで待っとけばいいのに」
「ここはずっと来たいと思ってたんだ。王城の屋根に俺が来るなんて、普通だったら首を斬られても仕方のないことだ。あんたやテミスが一緒だからこそ絶好の機会なんだよ」
「言っとくけど、別に奴隷じゃなくても不敬罪で処されるよ」
レアも面白がっているので、この二人は好奇心に長けているのかもしれない。
及び腰になりながら、遙か遠くに見える街並みに夢中になる中年は若人のように瞳を輝かせており、その姿に始めは下がってほしそうだったルドは諦めた様子だ。
ケルテラはちょこんと腰掛けながら、アレッシアの隣に移動したテミスの言葉に耳を傾けている。
「ルド様はやっぱりアレッシアの傍にいたんだね」
「うん。どこにいるかはわかんないけどねー」
「それでいい。王も王妃もよからぬことを企んでいるから、あまり協力的な姿勢は見せないほうがいいからね」
「ニキフォロスは?」
「王妃を落ち着かせてる。君を探しに行けって俺に託したのもあいつだ」
「ニキフォロス、貧乏くじ引いてない?」
「あいつは王妃のお気に入りだから、宥められるのは自分しかいないとわかってるんだ。俺が残っても、王妃は癇癪を起こすだけだし……」
少年の語り口で、王妃はやはりテミスを好いていないのだと知れる。
ニキフォロスを語る姿は、すっかり主人と奴隷のそれではなく、親しい兄弟を語るものだ。観察するように少年を見つめていたアレッシアは、体育座りになった膝裏に両腕を差し入れる。
「テミスは王子様になりたかったの?」
「……君はいきなり核心を突いてくるね」
少年は一瞬本音を隠そうとして、諦めて苦笑いを零した。オミロス達に視線を向けながら頷く姿は自然体であり、人を惹きつける不思議な魅力に満ちている。
「うん、実はそう。王の子だとは昔から聞いていたから、俺は功を立てて彼らに認めてほしかった」
「…………そっかぁ」
アレッシアの返事はすこし間を置いた。その声にやや力がなかったことに気付いたのは人狼やカリトンだが、口を挟むつもりはないようだ。
「あのさ、王妃様が言ってた神託の娘ってなに? ルドも知らなかったみたいなんだけど……」
まるで聞き覚えのない言葉だったから耳に残っていた。アレッシアの問いにテミスは思いだしたかのように「ああ」と呟く。
「俺も最近ニキフォロスから聞いたばかりなんだけど、かつて神殿からミノアニア王族に下されたお告げらしい」
「どんなお告げ?」
「ミノアニアの危機に神の国から遣わされた巫女が偉大な王を選出する」
テミス自身は信じていない様子で、肩をすくめながら話半分に続ける。
「……らしいけど、気にしない方がいい」
「なんで?」
「この手の託宣はどんな国にも存在するんだ。ミノアニアだって、このお告げの前には王が息吹を失うとか、国が禍つ事に見舞われるとか、不吉な託宣が目白押しだ。だから王妃は君を警戒してるんだろうけど……」
その微笑は、いままで少年がみせたことのない感情だ。王や王妃をわずかに嘲笑するような嘲りが含まれていたのは、アレッシアの目の錯覚か。
「そんなものに振り回されるから、彼らは国を駄目にして行くんだよ。本当に必要なのは強い意思をもった王と軍勢だって気付かないから、この国は腐敗に塗れてしまったんだ」
託宣にはテミスが話していない一説があると知ったのは後日のことだ。




