08. 真夜中の月は雲隠れ
梵能寺の庫裏、リビングももう何度か立ち寄っていて、慣れた席だった。
しかし、本日はドっキドキしてしまう新要素が二つも追加されている。
一つ目、陽子も制服にエプロン姿でばっちゃに並んで台所に立っていた。
少々不器用そうな陽子にしては意外な一面である。
それでもまだ、陽子はまだ右往左往していて、ばっちゃが口うるさく指導しているあたり、大人の女性としての云々を厳しく仕込まれているのだろうけれど。
二つ目、俺の横では諦淨和尚が熱い茶を啜っている。
……精神攻撃タイプのババアに、物理攻撃タイプのジジイときた。
心臓に悪い。
この中で最も早く俺が自然死してしまうんじゃないかと馬鹿げた想像が走るくらいに心臓に悪い。
「よりにもよってこんな俗物を選びよってからに……だいたい寺の娘として――」
「陽子は仏門に入らないんだから関係ないでしょうが」
「……ふん」
そんな針のむしろながら、気がつけば料理がテーブルを満たす。
俺は二番目にお得意の、借りてきた猫のモノマネで大人しくご相伴に預かることにした。
じっちゃの前には精進料理というのか、質素な色合いが並んでいた。テーブル中央の豚こま肉のからあげと比べれば、毛色が違いすぎる。
確かに二種類のメニューを料理するばっちゃは大変だ。それも育ち盛りの陽子のためにと愛情あってこそなのだろう。
相変わらず、食事中は誰も話さないし、咀嚼回数が増えて食事をしている実感が湧いてくる。
豚こま肉のからあげはレモンが利いていてうまかったし、俺はここぞとばかりに白米を腹に詰めた。文句無し。
これが毎日食えるなら、夏の間だけでも世話になるってのは、あまりにも魅力的な提案だ。
会話の無い食事も、じっちゃの苦言も、全然問題無し……なの、だけど……。
「で、陽子とはどこまでいったんじゃ」
「…………」
「こら、こんなところで聞くもんじゃないわ」
「手をつけたらどうなるか、わかっとるじゃろうな」
「…………」
「だから、こんなところで聞くもんじゃないわ」
「そ、そうだよ! 禅兄、困ってんじゃん!」
一番顔を赤くしている陽子は口を挟みつつ、ちらっと俺に目配せ。
そうだよな、「陽子からチィーッスしたんです! この子から先に手を出してきたんです!」なんて俺からも言えないよ……。
ということで、視線を泳がせながら、パサパサに乾いた笑いを垂れ流した。
厳しいが陽子が可愛くて仕方無いばっちゃは、かろうじてこっちの味方だ。
この布陣ならじっちゃの嫌味をどうにかやり過ごせ――。
「で、禅。明日の祭りは陽子と一緒なんだろうねえ」
「…………」
陽子可愛いあまりに強引にくっつけようとする圧である……。
なるほど。そうきたか、ババア。
俺がしっかりメシ食ったのを見計らってからに。
ばっちゃの詰問に「実は先約が……」と口からこぼれかけるところ、俺は押しとどまった。
……優月。
一緒に行くって話はまだ生きてるのか……?
今朝のままであれば、明日になっても「他人」とか言いそうだ。否めない!
俺は便利屋でもオモチャでもねえぞ。
でも裏切るとまた機嫌悪くなるし、家賃ももう少しの間だけ立て替えてほしいし……。
うーん、うーん。
「うん、一緒に回るよ! 楽しみだなぁ!」
「うん!?」
俺の代わりに答えた陽子は、当然のように話を続けた。
「禅兄、友達いないんだもん。アタシ以外に誰が一緒に行くってんだよ。せっかくだから、アタシが案内してあげるんだ!」
そして、ばっちゃによって話はすっ転がった。
「ほう、そうかい。陽子、カラオケ大会どうするんだい。せっかく婦人会で話し合って、アンタにトリの大役任せたってのに。アンタいないと北三郎に勝てないよ、あの人、本物の演歌歌手なんだから」
北三郎?
誰?
「もちろんやるよ、喧嘩上等! アタシが出るからには北三郎おじさんに一矢報いてやんだ!」
ヒートアップしたのか立ち上がった陽子をたしなめながら、ばっちゃは「婦人会と青年会で毎年カラオケ勝負してんのさ。この子は町内会のカラオケ倶楽部では有名でね」と。
中でも、青年会に所属する演歌歌手の北三郎おじさんが一強、猛威を振るっている。
そんな町内ジジババ戦争で、陽子が総大将に祭り上げられた……ということらしい。
ハイパー全く興味が湧かない。
「あたしゃいつおっ死んでもおかしくないババアだけど、陽子の歌聞くと生きる気力が湧いてくるんだよ。他のジジババにも聞かせてやんなきゃね」
「へへ、禅兄が応援してくれんだから、アタシ頑張る!」
「そうかいそうかい。さすがは華武吹町のアイドルだ。ハメ外すんじゃないよ。あんた達まだ学生なんだから」
「禅兄はこう見えて奥手なの! 責任と誠意のある付き合いだもんね、禅兄」
……責任。
……誠意。
なんですの、それは。
じろりと睨みつける諦淨和尚。
ぎらんと視線を飛ばすばっちゃ。
にこにこしながら一つしかないはずの答えを待つ陽子。
いやいや。
ここで「はい」というのは愚作だ。
俺が優月にちょっかいを出すことが完全にギルティになってしまう。
だから、俺は――
「は、はいぃ……」
この場で、この状況で、正直に言えるはずもなく、これ以上とない最悪な返事を口にした。
鳴滝禅、一生の不覚である。
*
結局、一つ門戸が開いてしまえばするすると敵軍の攻撃を受け入れてしまい、四天王しどろ&もどろも役に立たず、俺は一泊だけ梵能寺に世話になることになった。
もちろん、陽子と部屋は別で、広い和室の客間に一人布団に横になっているわけだが。
涼しいし、蝉の声も遠い。
布団だってさらさらとした上等な羽毛布団、部屋を包む優しげな香の匂い、風呂はなんと檜風呂で、まるで旅館に泊まってるような気分だった。
旅館なんて泊まったことないけど。
……でも、心細い。
壁の向こうに優月はいない。
「優月さん」
くしゃっと掛け布団を抱きかかえて、数時間前のことを思い出していた。
回想なんて生易しいものではない。
椅子に縛り付けられてまぶたを開かれ、無理やりスプラッタ映画を見させられるような拷問が、俺の脳裏で行われていた。
まさかとは思うが、俺が帰ってこないことを心配して玄関先で待っていてくれてたらマズいし、多少は向こうのテンションも探りたい。
そこで、万に一つ、泣いて帰ってきてくれと言うのならそうするつもりで電話をかけた。
だが、状況は俺が想像していた以上に悪かった。
管理人の、優月の部屋の古い黒電話をとったのは、何故か氷川さんだった。
「な、な、何でッ! 氷川さんが! 優月の部屋に氷川さんが!」
『うるせえなあ。俺しかいねえんだよ。珍宝は飲み会だし、天道さんもさっき出ちまったし。ブスはいるけど酒かっ食らって玄関で寝転がってたし』
何故、玄関で……。
やっぱ待ってたのかな。
それとも空にした一升瓶での襲撃を企てて……。
「優月さん……怒ってる?」
『ブスの機嫌なんて知るか、ボケ』
「ですよね」
話がおかしな区切れ方をしてしまった。
気まずさを破ったのは、氷川さんのらしくもない渋みマシマシの溜息だった。
『禅、いっこ確認すんだが。今朝の金髪女とお前、付き合ってるでいいんだよな?』
「え……何で?」
『いいから答えろ』
先ほど保護者の面前で確定してしまい、「そういうことに……」と返した。
自分でも情けなくなるような他人事の言い草だった。
すると氷川さんの声色が明るなり、
『あ、そう。お前が女とヨロシクやってんのは伝えといてやる。こっちはこっちでヨロシクするわ。じゃあな、あばよ!』
という感じで乱暴に受話器が置かれたのである。
明文化まではされていなかったが、状況を察した俺はしつこく電話をかけなおすも、受話器がはずされているのか通話中だった。
ヨロシクって具体的にはなんだ。
なんにせよ、天道さんと珍宝がいなくて俺がここにいるってことは、望粋荘で優月と氷川さんが二人きり。
男と女が一つ屋根の下で二人きり。
「…………」
まさか、あのクールで大人な氷川さんが優月に手を出すはずが……。
酔って寝てる女に……。
あんだけブス、ブス言っておいて……。
第一、優月が言ったように、俺にとっても誰と恋仲だろうと、誰と家族付き合いしようと、俺には関係ない。
関係ないんだ。
と、まあ。
こんな感じで、胸の辺りで黒くモヤついた感情にそう言い聞かせて、早三時間が経過していた。
当然、今は真夜中である。
「……優月」
暗がりの中、部屋を這い回り障子を開けて覗き込むように、夜を見上げた。
冴えない曇天の中、ネオンの色に煽られてはっきりしない月光が射している。
その光景が何かを暗喩しているような気がして、不安に胸が焼け付いた。
「……あー、やだやだ! 俺は寝るからな! 一人で! 寂しくなんかねぇぞ!」
俺は極めて、とてつもなく、すごく男らしく宣言して今度こそ布団に横になり目を閉じた。
数分後、俺の遠吠えを誤解した陽子がドデカいブッターさんのぬいぐるみなんかを持ってきてくれるのだけど。





