08. 犠牲、満足、いい大人
ばっちゃの精神攻撃はとうとう陽子の出生の話までに及んだ。
陽子は捨て子だったそうだ。
雪の降る寒い夜に、寺の前で泣いていた彼女にはそもそも両親なんてものがなかった。
雪の夜に凍えていた彼女につけた名前――陽子。
その思惑を勘繰ると、なんだか胸が痛い。
ばっちゃは陽子を邪険に扱うニュアンスで話をしたが、単純に素直じゃないだけなのだろう。
俺はそんな重たい話をされて、返事を濁しに濁して曖昧な言葉を量産して陳列して……男らしくないと呆れられるだけだった。
なし崩しに「はい」と捉えられる返事をしなかっただけ、俺は偉いと思う。
それからまた境内をふらつきながら陽子と昔話をして、数年間の空白を埋め合い、空がオレンジ色になった頃合になってやっと帰宅の途についた。
当然のことながら、俺はばっちゃとのやりとりなんて陽子に伝えるわけもなく、自分の中に仕舞っておいた。
陽子のことは一旦置いておこうと考えた結果、思い浮かんだのはチンターマニと津留岡の結びつきだ。
アキラは言っていた。
――ここ最近になって身体になんらかを付与した者、不自然に着込んでいる者には気をつけてくれ。
津留岡のヅラも着込むという話に入るのではないだろうか。
馬頭観音ハヤグリーヴァの件では、下っ端ヤクザの竹中が乗っ取られて怪仏化し始めていた。
幸いにも観音撃破が間に合い、竹中は拘置所にぶっ込まれながらも、今では以前同様に夜のネオン街で肩をいからせて歩いているらしい。
当時のことは全く覚えていないらしく、俺のイカサマ花札の件も無くなっている。
間に合っていなかったケースを俺は知らないが、アキラの言い様は精神的な死を彷彿とさせるものだった。
であるのなら……。
津留岡とは縁もゆかりもないが、早いところヅラを引っぺがしてチンタマ持ちであるかを確かめなければならない。
観音として覚醒する前であれば馬頭観音ハヤグリーヴァほどややこしい話にはならないはずだ。
何より……。
「ほっとけねぇ……よなぁ……」
男らしくない俺が戦う動機なんて、そんな柔らかくてふにゃふにゃした、こんにゃく程度のものだ。
ヒーローなんてやりたくてやってるわけじゃないし。
俺に男らしさとか、強固な意志とか、勇猛な正義とか……そういうの期待されても困っちゃうわけで。
*
夕焼けに照らされる望粋荘の哀愁漂うことよ……。
塗料の禿げ上がった概観は見慣れていたが、門前に溜まる人影は珍しく、俺は大小二つの影に近づくなり声をかけた。
「どしたの?」
大の影は、緑色のマスクを被った巨漢。
売れないプロレスラーのマスクド・珍宝(ふりがなは振らなくてもいいだろう)。俺の隣、二〇三号室の住人だ。
大きな身振り手振りで俺の前に立ちふさがる。
「いやいや禅くん、今入らない方がいいっす!」
「え?」
「もうぴりぴりしちゃって……!」
「何が?」
要領を得ない珍宝の言葉に小の影が割って入る。
やたらと白髪の多い十歳前後の少年――のようだが、よく見れば顔にもシワが走る立派な成人男性、というかじじいである。
自称還暦六十歳、自称UFO研究家の自称天道巳晴。珍宝の下、一〇三号室の住人だ。
ロリババアならぬ、ショタジジイというやつである。
これから出かけるのか大きなリュックに望遠鏡を担いでいた。
「ついさっき、氷川くんが帰ってきてね」
天道さん(本当に齢六十らしいので俺はさんづけで呼んでいる)は言いながら小さな身体にリュックを背負いなおす。
氷川くん――氷川武人。
一〇一号室の住人で、剣咲組のヤクザ。
二週間前――いや、今も剣咲組は煩悩ベルトとボンノウガーを追っている。
煩悩ベルトは俺が持っている、というか吸収してしまったし、そもそも優月が持ち込んだモノで彼女が関係しているとバレるのもマズい。
氷川さんは羨ましい事に、ここ最近……いや数ヶ月は愛人の家に入り浸っていた様子で滅多に帰ってこなかった。
もしかしたらこのまま帰ってこないのではないかとすら思っていた。
「女の子に追い出されちゃったのかな。そんでさ、氷川くんヘヴィスモーカーでしょ。優月ちゃんが噛み付いちゃって。玄関先で大喧嘩してんだよね」
「――っ!?」
大家のばあさんでさえ、氷川さんが恐ろしくて口出ししなかったのに!
あのばあさんは優月に伝えていなかったのだろう。
そりゃあそうだ、俺たちがどれだけ悪態ついていたかなんて一切伝わってなかったのだから、ほぼ存在しなかった氷川さんについて話すはずもない。
俺は駆け出し――肩を掴んで止めに入った珍宝を振り払い、望粋荘に転がり込んだ。
声はすぐに聞こえたものの、いい大人が大声でお互いに捲くし立てているせいで何を言っているか聞き取れない。
入って目の前、階段の踊り場で優月と、オールバックに髑髏の柄シャツ、加えてサングラスといういかにも過ぎる服装の氷川さんが睨み合っていた。
「女だから殴られねぇとでも思ってんのか、オラァッ!」
木造建築の壁をかかとで蹴る氷川さん。
壁が薄いせいで音は大きく響いたが優月は全く動じず、腕を組んだまま言葉を返す。
「ここで煙草を、吸うなと――ッ言ってるんだッ!」
声量と覇気であれば優月のほうが上だった。
だが氷川さんも動じず指の間で灯されていた煙草で一服、その煙を優月に吹きかける。
それを受けて優月は三白眼となり奥歯を食いしばって鋭角から睨み上げ……妙齢の女性がしてはいけない表情をしていた。
ああ、そういうことか。珍宝が「入らない方がいい」と言ってくれたワケは……。
俺はてっきり……優月が一方的に氷川さんに泣かされているのかと思っていた。
なんかこう……エロい感じに責められているのかと思った。そしてなんかエロい展開になってしまうのかと思った。
どっちも、どっち。同じくらい恐ろしかった。
望粋荘住人のステータスをわかりやすく言えば、腕力は間違いなく珍宝が一番。なんせプロレスラーだ。
だがメンタル――というか強情さでは、優月と氷川さんがワンツートップ。
現在進行形で頂上決戦が行われている。
さて、どちらに軍配が上がるのか……じゃなくて、止めなくては。
玄関口は俺の部屋の下! 支えが少ない分、とってもナイーブ! 蹴りもパンチも入れないで!
煙に巻いて曖昧にするのが俺の十八番、いつもの口八丁で何とかならないか……と遠巻きでおろおろしているうちに事態が動く。
「度胸は認めてやるよ。でも躾られた方が可愛げがあるぞ」
氷川さんが優月の手首を掴んで壁に打ち付ける。
もう一方の手で咥えていた煙草をつまみ上げ、優月の手のひらに――
「――っ」
「……あ?」
――押し付けられる赤い先端を、俺の手のひらが受け止めて握り潰した。
あ、と思っているうちに身体が動いていた。
「それは……ダメっすよね」
手のひらにじりじりと痛みが走り、俺は遅れて当然の痛みに悶絶しながら吸殻を消火用のバケツに放り込む。
こうして、いい大人二人がようやく黙った。
「てめ、何やってんだ。あ? 正義の味方のつもりか?」
「あ、その……自己満足です」
風祭さんの受け売りで言い訳しようと思ったが、全く説得力無し。
お次は俺と氷川さんが視線をぶつけることになる。情けないことに俺は一瞬で競り負けて、いつもの誤魔化し笑いを浮かべた。
「……貴様は入ってくるな!」
続いて優月。
だが言わぬうちに、ドォン、と今度こそ壁が軋み嘶き、ぱらぱらと天井から木屑が落ちてきた。
氷川さんの腕が優月の顔の横に叩きつけられ、轟音を響かせていたのだ。
だから木造建築いじめないで。
「このアマァ、庇われておいて何だそのデカい態度はぁ?」
「自分がやったことを棚に上げる貴様の態度こそなんなんだ?」
「てめぇ、禅に謝れや!」
「貴様こそ謝れ!」
おかしいなあ。
俺は身を挺して止めたはずなんだけどなあ。
……また始まってしまった。
捲くし立て合いの中、今度は氷川さんの矛先が俺にも向く。
「禅、お前も何で怒らないんだよ! 怒れよ、お前は! いつもヘラヘラちゃらちゃらしやがって!」
「あー、あー、あー! もー、いいから俺はッ! 俺のことはいいから!」
「良くない! 禅、だって――」
「はい、優月さんは黙ってて!」
「…………っ」
お。
存外、大人しく黙ってくれた。
そこで氷川さんが何かに気がつき目を丸くする。
弧を描いた人差し指を俺と優月交互に指して「知り合い?」と素っ頓狂を言った。
「ここの新しい管理人だ、ボケ!」
「ぁんだ、コラァ? こっちはもう五年以上居付いた住人だぞボケカスがぁ!」
「知ったことか、クズ!」
「うるせぇぞ、ブス!」
何で今更そんなことを確認するのか。
つまり?
お互い不法侵入者か不審者だと思ってた……ってわけ?
「え? ちょっと待って。それは最初に確認しておこうよ!」
優月と氷川さんの表情にそれぞれ戸惑いと気まずさが往復してする。
不毛だ。





