04. ここでチッスして。
立ち入り禁止の張り紙は半分破れかけていた。
忠告を貼り付けた三角コーンが、何度も乱暴に除けられたかのように。
そんな哀愁漂う三角コーンの横を抜けて階段を上がっていくと、小さなガラス窓が設けられた鉄扉が一つ。
張り紙の痕跡として、黄ばんだセロハンと紙片だけが四つ角に残されていた。
青々と空を映す小窓を覗き見る。
想像はしていたが、陽子と他の不良連中が向かい合う形で並び立っていた。
ちょっと絵になってかっこいい。
不良グループの中央に立っている一際長身の――それよりも特徴的なのは通常の二倍はありそうな長リーゼントで、この男が津留岡だろう。
陽子も大概だが、津留岡の古典的ヤンキースタイルもなかなかの絶滅危惧種だ。
二人の口は動いているようだが、いかんせん何を話しているかまでは聞こえない。
陽子はイラついた様子で腕を組んでおり、津留岡のほうは彼女の表情とは噛み合わず嘲笑を浮かべながらコーム櫛でリーゼントを整えている。
しかし陽子が長広舌をふるうと、津留岡の表情は硬くなり、青筋を立て始めた。
「なんか余計なことを言ったな、あいつ……」
晴天は相変わらずだが、場の雲行きが怪しくなっている。
暴力沙汰になるようであれば、観音相手ではないので気が引けるけれど、ボンノウガーの力を使ってでも入り込む覚悟はしているが……。
あと、陽子にかっこいいところを見せちゃうとかそういう気持ちもあるが……。
とはいえ、状況がわからないではタイミングも掴めないし、何事も無いのが一番だ。
本格的に聞き耳を立てようと俺はゆっくりドアを開いた。
ゆっくりと。
ゆっくりと……にも、かかわらず。
ギギュォァアアア……。
「……え」
ウソでしょ。
今の音、ドアの軋み……?
怪獣の咆哮にも似た奇妙な音を上げる屋上のドアに、場の注目が集まる。
俺もその一人で、唖然としながらドアの蝶番を見上げていた。
そして、見つかる俺。当たり前だが。
津留岡は青筋をそのままに、ぎすついた視線を俺へ向ける。
「ああん? なんだ、てめえ」
「えっと……な、なんだと思いますか?」
「あ? わかんねぇから聞いてんだろうが」
ですよね。
「禅兄……! もしかして、アタシを助けに来てくれたのかよ!?」
目を丸くした陽子。
苦笑いを引きつらせる俺。
そう言われてしまうと……むしろ俺が、クラスの中で友達がいないという微妙な空気から助けてもらいたいとか話しにくくなっちゃうんだけど。
そんなかっこ悪いことを言えずに十八番の作り笑いで誤魔化していると、陽子の表情に明るさが戻り、髪を弾ませて駆け寄ってきた。
にひひ、といたずらっぽく笑うと彼女は俺の腕を掴むなり胸に引き寄せる。
俺の肘が、十七歳スケバン美少女の胸に!
しかし俺の肘は期待していた柔らかな素材に受け止められず、生地と人体という極めて物理的、生物学的な感触に押し当てられるだけだった。
「アタシ、この人と付き合ってるから! 残念だったな、津留岡!」
おかしい。
確かに、陽子の胸に俺の肘は当たっている。
おっぱいはそこにある。だが、そこに無い。
有と無の狭間、一と零の境界線、シュレディンガーのおっぱい。
確率の問題だろうか、それとも人体では感知不能な、例えば電波などで構成されているのだろうか。
「無い?」
はい?
……と聞き返そうとして、俺は間違えた。
なんとなしに話は進んでいるようではあったんだけど。
ええと?
付き合ってる?
「あ、あんだとぉ~……? てめえ、留年疫病神の鳴滝じゃねえか……!」
「禅に……禅のこと悪く言うな! お前なんかヅラのヅラ岡でその下はツルツル岡じゃんか!」
ツルツル岡……。
全国の津留岡さん、うちの陽子が大変申し訳ございません。
陽子の子供じみた反撃を聞いて俺はつい津留岡の頭部に目をやる。
確かに立派な、立派過ぎるリーゼント。
近くで見れば怪しさを醸し、よく見ればその疑いは確信へと変わる。
この男は毛根を偽装している……つまり十代にしてヅラ!
青春にして冬の荒地! 新たな出会いの季節にして枯れ野!
津留岡の顔は怒りに歪み、どんどんと青筋が走る。
「へんっ! アタシには禅がいるんだ。だからお前の呼び出しなんて無駄なんだよ、不毛なんだよ!」
不毛――!
「禅とは、幼馴染でずーっと仲良しで、お互いの親だって知り合い同士なんだ! 超・愛死天流からな!」
若干声を裏返しながら陽子は捲くし立て、器用なことに眼力で俺に「調子を合わせろ」と訴えかけてきた。
なるほど、フリをしろってことだな!
なあんだ、付き合ってるってのもフリなんだな! 一瞬、やったー! そうだったんだー! って思ったけど勘違いだったんだな!
なあんだ、なあんだ!
…………。
あい、わかったッ!
逡巡の末、俺は頷き返してヤケクソ気味に胸を張った。
「そ、そそうだな、陽子! 愛死美絵無だよな! 美張衣昼頭だよな!」
不良たち、そして陽子までもが頭上を疑問符で溢れさせる。
「ち、ちげーよ、禅兄っ! 喋り方じゃなくて、話を合わせてくれって!」
「わかってるっつーの、アドリブ弱いんだよっ!」
大変わかりやすくごたつく俺と陽子。
「お前ら、本当に付き合ってんのか……?」
正直、この有様で断定に至っていないほうが不思議だ……。
陽子は改めて俺の腕にしがみついて大きく首を縦に振る。小柄な陽子、長身の俺。恋人関係よりも親子関係を疑われた子供の仕草だった。
案の定、その様子を疑うスケバン女子が鼻で笑いながら前に出る。
「本当に付き合ってんなら、お前らここでチィーッスしてみろよ」
チィーッス……?
おっす、とか、こんちわっす、みたいな……?
「ちち、ち、チィーッス……!?」
状況を把握しかねている俺に対し、陽子は目を白黒させながら声を裏返えさせ、動揺を示した。
「出来ねえのか?」
「で、でき、出来るに決まってんだろ!」
挨拶ぐらい、基本中の基本だ。
こんにちは。
さようなら。
いただきます。
ごちそうさまでした。
おはよう。
おやすみなさい。
ありがとう。
人間社会不適合の箱入り優月だって出来る。
愛想の良い陽子なら息をするように出来るだろう。
だが彼女は相当の決意を込めた様子で俺の両肘を掴むなり、なぜか目を閉じて顎を突き出した。
それは、なんですの?
「それ、チィーッス! チィーッス!」
語呂もガラも悪い掛け声と気のない手拍子が重なっていく。
津留岡は俺に向けた怒りで歯軋りしていた。
チィーッス……。
チッス……。
…………。
キッスってことか!?
――なんでお前らはもう少しナウでヤングな言い方が出来ないんだ!
お陰で俺だけワンテンポ遅れてるじゃないか!
俺だけスベってるみたいじゃないか!
「ぜ、禅兄……っ」
陽子は……無防備に、大人びた色のルージュに彩られた唇を差し出していた。
「禅兄、びびってんのかよ……!」
「びびびっては、ねねえけど……っ」
「じゃあ、あくしろよ! じれったいな!」
あくしろ、と言われましても。
「チィーッス! チィーッス!」
色気の無い掛け声が怒気を増してくる。
俺は陽子、それから不良たちに急かされるがまま彼女の華奢な肩に手を置いた。膝を曲げて小柄な陽子に視線の高さを合わせる。
陽子からは石鹸とはまた違う、麗しく楚々とした香りが漂っていた。
疎遠だった妹分――陽子は綺麗になった。
そしてこれからどんどん綺麗になる、そう確信させる美少女。
言葉遣いや態度はともかくとして、歩いているだけでスカウトが飛んでくるのも頷ける。
そんなことも鼻にかけず、留年疫病神とか言われている俺に話しかけてくれて、昔からいっつもにこにこしていて……器量も性格も抜群にいい。
蝉爆弾も持ってない。
蝉爆弾……。
そんな中で俺は蝉爆弾の続きを思い出していた。
背中にこびりついた蝉の死体と失禁にぎゃんぎゃん泣いた俺に、お次は陽子が取り乱してそこに彼女の祖母が駆けつけた。
俺は陽子の祖母の乱暴な手際のまま風呂に入れられて、ぴちぴちとした陽子の服を着るハメになった。パンツまで。
それも含め精神的ダメージは癒えず、縁側で不貞腐れていた俺に陽子は軽い調子で笑い、「元気出して」と――キスをした。唇に。
それが俺にとっては――たぶん陽子にとってもファーストキスで、その後、俺は陽子を女の子として意識しすぎて疎遠になってしまったのだけど。
つまり、俺と陽子は子供のときと同じことを、もう一度行う。それだけだ。
それだけ。
それだけ……。
「チィーッス! チィーッス!」
俺はこの状況に、諸手を挙げて喜ぶはずなんだ。
それから必死になって陽子の機嫌をとって昔よりもっと仲良くなろうと、あわよくばTogetherしようとするはずなんだ。
――二週間前の俺なら。
俺を引き止めて迷わせていたのは、優月の存在だった。
少し前に劇的な出会いをした見た目の好みドンピシャな美女。
優月は……素直じゃないし、口は悪いし、手も足も出るし、世の中のことは知らないし、俺のことはこれっぽっちも慕ってないし、あの女は本当にどうしようもなくて……。
…………。
…………。
俺の脳内天秤が、銅鑼のような音を立てて陽子に傾いた。
いずれにせよ、据え膳食わぬは男の恥!
もらえるモンなら、請求書と病気以外はもらっておく――それが俺だ!
両手に力を込めると陽子は肩先を震わせる。
鼻先がぶつかり合う。
粗い呼吸がばれてしまいそうで、恥ずかしさの余り息を止めた。
もう少し身を乗り出せば青春が――。
乗り出して――。
ギギュォァアアアッ!
「ん?」
先ほどよりいささか鋭い怪獣の咆哮が青い春の空に響き渡った。
「やべぇ、ジャスティスだッ!」
津留岡が叫ぶ。
さっきまでチーッスコールでにやついていた不良たちの顔色が青ざめていった。





