11. 月夜の蝉
優月。
涅槃症候群。
その二つが結びついているなどと受け入れがたく、そして蚊帳の外にされていたなどとも思いもよらず、俺の足取りはふわふわと軸を定めなかった。
時刻は深夜二時。
よりにもよって、丑の刻。
病院内では騒ぎがはじまり、曼荼羅条約の傘下とあって、病院前にパトカーが並ぶのもとりわけ早かった。
彼らが成果を主張したい相手、三瀬川院長は見つからないだろうけれど。
沙羅はこれからはじまるであろう重苦しい話の場に駐車場を選んだ。
変身を解除した俺たちが集まれば、街の若者とヤンキーの病院患者がたむろしている程度にしか思われないはずだ。
新調したのだろう、彼女自身のバイクに背を預けるとシガレットケースからタバコを取り出し、しかし迷った末に再びケースに収めて俺に向き直った。
「きっかけは天道さんの奇病よ。彼も涅槃症候群だった。五十年前から変わらない人間……思い当って、ゆづきちの検査もしたの。もちろん、本人には健康検査としか言ってない」
「ぁ……」
場違いにも俺の脳裏には、科学や医学の進歩に目を輝かせる優月の姿が浮かんだ。
一緒に行ったのなら、さぞ楽しかっただろう。
トンチンカンなことを言い出したり、怯えたり、強がったり、笑ったり。
そんな幸福な白昼夢――いや、現実逃避を沙羅の声が打ち砕く。
「輝夜優月は、涅槃症候群の中でも特に深刻な症状が出ていた」
病気。
深刻。
優月が……。
「それって治るモン、なんだよな……?」
本当に、本当に珍しく沙羅は目を閉じて眉間にシワを作り、こちらが苛々するほどに逡巡した後で俺を落ち着かせるように手のひらを向けた。
しかし、言葉が出ない。
割って入ったのは、いつの間にか赤羽根の足元にしゃがんでいた黒衣のアキラだった。
「憶測にすぎないが……華武吹曼荼羅の保持のため、優月殿も肉体を保たれる必要があった。その保存方法として細胞変質が用いられたのだ。三瀬川はそれを涅槃症候群と名付けた。健康も肉体年齢も保持される。ゆえに吉原も三瀬川も、不老不死などと誤解していたのだろうな」
頷きながら沙羅が話の舵を受け取る。
「難しい医学用語を省いて説明すると……結果として、細胞年齢が発症当時のまま保持される、そういう症例群。老いて体を病に蝕まれたものが発病しても、その状態が保持されるだけだから若返りもしないし、健康体になりもしない」
保持。
そう聞いて俺は意味を把握しきれていないながら、どこかほっとした。
「不死かはともかく、そういうの不老っていうんじゃ……いや、急を要する――それこそさ、今すぐ手術とか入院とかしなきゃいけないような病気じゃないんだな?」
沙羅は首肯したが、表情はさらに曇る。
コバルトブルーの瞳をおさめる上下の縁は薄暗がりでもわかるほど赤みを増していた。
それに、声も震えていた。
俺はそれを、最終審判を受ける罪人のような気持ちで聞いていた。
「だから……涅槃症候群自体は――彼女の若さは幸運な異常。だけど……寿命は正常に五十年が経過していて……」
「…………え?」
そして、思いも寄らぬ判決を叩きつけられた。
「つまり彼女の命にはもう……ほとんど……時間が無い」
「…………は?」
寿命が。
命の時間が、無い。
病気とか怪我とか治ったりするものでもなく、自然の摂理が定めた時間が……無い。
「……そんな」
飲み込めるか、そんなこと。
認められるか。
そんな。
寿命が。
命の時間が。
無い。
自然の摂理が定めた時間が。
そんな、救いのない状況なんて。
優月が、そんな。
そんな。
「優月がそんな……! 怪仏のせいで変な病気にかかってるって、なんで知ってて教えてくれなかったんだよ! 命が短いってどういうこと!?」
わからない、わかりたくもないのに、俺の口からはそんな言葉が出る。
沙羅も、アキラも押し黙った。
だからこそなのだろう、赤羽根は言った。
「冷静になれ。涅槃症候群は短命の病ではない。五十年前の女がいまもなお若いことが異常症状なんだ。むしろ、運がよかった。涅槃症候群を治したところで七十の老婆になるだけだ。寿命は誰にだってある」
「いま俺、冷静に見える!? 寿命だから諦めろってこと!? なんでそうやって残酷なこと言えるんだよ! デリカシーなさすぎじゃねえの!? てめぇ言ってたよな……何が縋れだよ、隠し事していたくせに!」
「事実から逃げるな!」
「じゃあ! なんでおまえ! なんでおまえら、知ってて教えてくれなかったんだよッ!! 助ける方法あるのかよ、救える方法は! 寿命から逃げる方法なんてあるのかよ! 無責任なこと言うなよ! 隠してたくせにさ!」
「…………」
声があまりにも高く遠く響いて、皮肉にも俺はその静寂に少しだけ我に返った。
そして、自分の異常事態を知る。
目の奥がぎゅうぎゅうと締め付けられた。
頭の中がちりちり焼き付いていた。
胸はまるで痣だらけになったみたいに痛んで、立つことも、呼吸も、なにもかもままならず膝をついた。
髪をむしるように握りしめ、喉の奥と目頭からからあふれてくるものを抑えられずに垂れ流した。
「優月……物心ついた時にはもう大事な街、焼け野原で……兄貴に面倒押し付けられてずっと耐えて、曼荼羅条約に騙されて、自分を責めながら生贄にされて……やっとわがまま言えるように、笑えるようになったのに……俺、すっげー嬉しくて……それなのに――! もう寿命だからあと何年も生きられませんって、おかしいだろ!」
「禅ちゃん、ごめん」
「楽しいこととか、幸せな思い出とか、全然ないのに!」
「沙羅、言えなかった」
「こんなクソみたいな街のために……優月の時間、五十年も……! 返せよ、華武吹町! 返せ! 優月の時間返せ! 滅んじゃえよ、もうこんな街!」
「禅ちゃんとゆづきち、幸せそうだったから……絶望してほしくなかったから……沙羅たち、言えなかった」
優月。
優月……。
ああ、俺……喧嘩しちゃったままだ。
ほんとしょうもないことで、また不安にさせたままだ。
「わかってる、俺を絶望させたくなかったんだよな。しねえよ! お前らへの怒りでいっぱいだよ!」
「……ごめんね」
せめて優月は、不安にさせたくない。
幸せでいてほしい。
だから……。
「言えなかったなんて、そんな……違う、沙羅……ごめん。俺いま頭の中がぐちゃぐちゃなんだ。俺も……同じことすると思う。だって、優月に言えねぇもん……そんなこと知ったらあいつ、平気そうな顔で"そうか"って一人で我慢しちゃうもん……そんなの、俺やだもん……」
自分がどんなに深く絶望することになっても、あの人だけは絶望してほしくない。
沙羅たちも……そう思っていたのだろう。
しばらく、俺は泣いた。
悲しかった。
辛かった。
痛かった。
でもどこかで、沙羅達も同じく優月への黙秘という咎を背負っていると思えば、一人で泣き続けていられないことも理解できた。
ようやく気持ちの分別が終わって、顔面を両手で拭って、息を吸って、ゆっくりと吐く。
「だ、い……だいじょぶ……救われる方法、探すから……あるから。なきゃ、おかしいから」
どちらかといえば、自分に言い聞かせるための詠唱だった。
「禅ちゃん、三瀬川病院の地下にゆづきちが封印されていた施設があるの。もう資料も奪ったし、黄金液も解析して金と血漿の混合物だって判明してる。これ以上の情報、何も期待できないけれど……行ってみる?」
優月が眠っていた場所。
鳴滝豪の救いが届かず、後悔がはじまった場所。
「ああ……でも一人で行く。中、警察だらけでヤバそうだし……いまは一人になりたいんだ」
沙羅と赤羽根は顔を見合わせるとそれぞれ頷く。
地下施設への行き方を聞き、俺は一人で病院内に戻った。





