10. プロト怪仏観音
「――そこかぁあぁぁあああッ!!」
倒れた赤羽根とアキラの真上、夜天から一直線に落ちてくる銀色の輝きが見えて、俺はコンクリート塊を目一杯、憎悪の限り、ブン回した。
重い手ごたえが腕に、身体に響く。
同時に、しゃんっとその黄金錫杖の音が聞こえた。
コンクリート塊を肩に担ぎ、睨み付ける。
ヤツはすっ飛ばされながらも、俺の攻撃を受けきった錫杖で軽く地を突き、相変わらず気色悪いほどの普通に言った。
「どうも。平和の使者です」
同族食いで、卑怯で、湾曲解釈で、その自覚のないクソゴミ虫観音様のご登場だ。
「漁夫の利を狙った座標とタイミングで湧いて出て、よくも歯の浮くセリフを言えたもんだぜ……!」
聖観音アーリヤ・アヴァローキテーシュヴァラは、首をかしげる。
左目には黒真珠――チンターマニが嵌っているが、俺が焦がした顔半分はすっかり綺麗元通りだ。
中性的な美貌、きらめく銀色の髪。
それに比例してあまりにも身勝手な幸福論を振りかざす、最低最悪な怪仏アーリヤはさも当然に言った。
「私の目的は共生。争いごとは避けたいのです」
想像以上に強引な自己正当化に、反吐が出そうだ。
共生というのはもちろん、アーリヤの一部となる……つまり、捕食。
そのグロテスクな思考回路では、"余計なお世話"という言葉も、いまだにわからないらしい。
ベルトに手をやる。
初戦でてこずらせやがった湾曲解釈はごり押しで破れると証明してやった。
だが、今は……ベルトも俺も消耗しきっている。
とにかく今は満身創痍の赤羽根とアキラを――
「あ、今日は本当に、貴方には用事ありませんので」
「はあぁ……?」
「用事があるのは、あちら」
アーリヤが錫杖で差したのは、上階から大穴を覗き込み茫然自失としている吉原菊代だった。
ぱくぱくと唇は動き「私の城が……」「立ち入られたら見つかってしまう……」と言葉を落とす。
顔面からは化粧どころか、生気と表情がはげ落ちていた。
そのさなかも一階部分は床がめくれ、いまなおどこかから二階部分が倒壊しているであろうコンクリートの破壊音が連続している。
全壊まで時間の問題だろう。
そんな状態の吉原菊代に用事……?
「私の……私の野望が……あぁぁあああああッ!」
膝と両手をついた吉原の背後、いつの間にかアーリヤが立っていた。
「おい、ババア! 逃げろ! そいつは――」
吉原ははっと顔をあげ、そしてあろうことかアーリヤの足に縋りつく。
まるでそいつが何者か、良く知っているかのように。
「観音様! 私、刑務所なんて入りたくないわ、私の先は短いもの! そんなところで終わりたくないわ! どうか救済を――そうよ、涅槃を! 涅槃症候群を! いまこそ、永遠の若さを私にちょうだいッ!!」
「もちろんです。曼荼羅条約の皆様は救済するとお約束しました。しかし、あなた方は誤解しているようです。アレは永遠でも若さでもありません。ここに……もっと良いものがあります」
アーリヤが左目からチンターマニを摘み出すと、吉原に渡して何か囁く。
彼女は困惑していたが、壊れた花魁クラブを視線で撫でて、力なく笑った。
「私が……観音に……? アーリヤ様のような強く美しい、永遠の存在に……? 素晴らしいわ!」
「やめろ、やめとけ……!」
チンターマニをのせた手を盃のようにあおり――飲み込んだ。
俺の声なんて全く届かず。
人が人の道を踏み外す様を、呆然と見るしかなかった。
そこに、ちりーん、と凛とした音が響く。
沈黙を嘲笑うように。
黄金の手持ち鐘をアーリヤが振るっていた。
「ああ、これはですね――」
まさしく空気が読めていない、俺の神経を逆なでする普通さでアーリヤの解説がはじまる。
「――チンターマニエフェクトと言って、今日はこの実験が最優先なのです」
実験。
何の、と聞くまでもなくアーリヤの横で、ぼこぼこと吉原は泡立っていた。
馬頭観音ハヤグリーヴァや千手観音サハスラブジャの出現時のように、皮膚の下で骨が動いている。
いや、しかし。
早すぎる!
チンターマニを飲み込んだのは、たったの数秒前だ。
何故――!
「促進、増強するのですよ、観音の受肉を。貴方の言い方ですと、怪仏化ですか」
「てめえ……ふざけやがって!」
骨と皮が盛り上がり、吉原の顔面から、さらに顔が泡立ち悲鳴を上げ、肌は木炭のように黒ずんだ。
何千万円と費やしたであろう、その身体から。
「追々は、チンターマニに対応しない観音や、一つに満たないチンターマニで観音を受肉させられるか、色々試す予定です。素晴らしいでしょう」
複数の観音を受肉させる実験。
チンターマニエフェクト。
「もう結果が出ましたね。チンターマニエフェクトの真言は、素体の欲望を浄化することが可能なようです」
「生きる意志を、絶望で押し潰す……の間違いじゃねえのか?」
「観音と共にあることを望んだのはこの方であり、華武吹町を統治する曼荼羅条約ですよ。救済は望まれたのです。五十年前から」
「くっ……」
くそ……。
ゴミカスのアーリヤ相手に返す言葉が出てこない!
ヤツの嘲笑に代わってちりーん、ちりーんと鐘の音が重なる。
怪仏化を止めなければ。
でも、下手に動けば、アーリヤは赤羽根とアキラを狙うだろう。
この状況で一対二はキツい。
鐘の音が続き、吉原の身体がめりめりと、枯れ枝がへし折れるような音を立てる。
そんな中、突然に甲高い唸りが――ドリフト音が迫ってきた。
また一つ、エンジンの唸りが瓦礫の山の向こうから聞こえたかと思うと、畳とコンクリート片を巻き上げながら、車体が腹を見せていた。
ほぼ垂直だった。
新手か!
もうこれ以上、状況を抱えきれない!
やばい、まずい!
たじろいだ俺の前に躍り出て、獣のように前輪を叩きつけた車――フロントガラスの向こうに『割増』という文字が燦然と輝いていた。
さらにドリフトで畳を焦がし、煙を上げたタクシー。
その暴走が静まると、悠長な仕草で小柄なおじさんが降り立った。
「良くないなあ。良くないよ、こういうの」
見慣れたおじさんだった。
「風祭さん……!」
「参ったねえ……お蝶には稼がせてもらった義理があるからねえ、ああ言われちゃうとねえ」
そして目の前の惨状をどうということもなく、白い手袋で頭をかきながら、心底迷惑した表情を浮かべていた。
いや、でも。
なんで。
風祭タクシーの長である風祭さんは、吉原と並んで曼荼羅条約の一人のはずだ。
その疑問を察してか、風祭さんは答えた。
「嫌になっちゃうよ。でも、華武吹町では神や仏より、こっちのほうが怖いって言うじゃない」
そういって親指と人差し指で円を作り、にこっと営業スマイル。
まさに目の前で広がる地獄の沙汰も、例に漏れず金次第……らしい。
それを見て吉原菊代だったもの――すでに奇妙な実をぶらさげた痩せ木のような有様だ――は身悶えのた打ち回り、電子音で咆哮した。
「風祭……! お前は所詮、その程度よ……おほほほほほほほほほほ! 私は曼荼羅条約を超えた、観音となった! 見なさい、この神々しい姿!」
「あなた、昔も今もバケモノみたいなものじゃないか」
人懐っこそうなおじさんの口からさらりと出た棘のある返しに、吉原が侮蔑の言葉を唱える。
だが風祭さんは言うだけ言って意にも介さずに、俺に視線で指示してきた。
たしかに、今は詳しいことさておき、だな。
俺がアキラと赤羽根を後部座席に詰め込むなり、躊躇なくドアは閉まる。
タイヤは甲高く唸りそそくさと退場、ゴムの焼ける音が残った。
「風祭、あの無知蒙昧なガキ……! 許さない、許さない……! きょうせい、きゅうさい……キュウサイしてやろうじゃないか……!」
ちりーん、ちりーんと鐘の音はさらに重なる。
見上げれば黒ずんだ怪仏――不恰好なヒヤシンスのように大小の顔が十一面、頭の上にのしかかる異形が出来上がっていた。
以前見たソレはかろうじて仏像と呼べたが、今、俺の前に顕現したのはまさしくバケモノだ。
「お前……!」
「我が名は……十一面観音エーカダシャムカ。帰依せよ……煩悩の使徒!」
チンターマニさえあれば連中は蘇る、再び怪仏化するってわけか……!
「ベルト所持者……今こそ貴様の偽りも秘匿も暴き……わ、笑い……笑い溶かしてくれようぞ……! ひゃ、ひゃはははははははははは!」
蓮華の形をした回転刃を不規則に振り回し、笑い声の、たった一つの音だけで波動が走って辺り一面が砕けた。
天井からコンクリート片が落ち、砂が舞い上がる。
どこかで爆発音が響き、遠く炎があがっていた。
辛うじて外壁を残し、崩れていく。
まるで、俺と怪仏自身を隔離する檻のように。
「オン マカ キャロニキャ ソワカ
オン マカ キャロニキャ ソワカ!
ひゃはははははははははは!」
華武吹町歓楽街、その象徴だった花魁クラブは――吉原菊代の城は、その笑い声に溶け、金メッキの残骸の上に不恰好な怪仏像が一つ降り立った。
「これがお前の望んでいた救済だってのかよ……」
愛染明王丹田帯の苦い回転。
やる覚悟は出来ていた。
でもこの展開は、ちょっと落ち込む。





