09. 幸福論
山から響いた咆哮は、明らかに人間の声ではない。
怯えた鳥の群れが、木々から夕闇へ飛び立っていく。
あのあたりに、いる。
「ベアトリーチェ……?」
恐る恐る俺と陽子は車道に出た。
双樹の豪邸は目の前。
「あぁぁぁああッ!」
「ぎゃああぁぁッ!」
しかし、その脇の山道から転がり落ちてくる甲高い音にからだがこわばって、身が竦んでいた。
木々の向こうから現れたのは、昼に見たお姉さん二人組。
CカップちゃんとEカップちゃんだった。
一体全体どうしたことか、絶叫を次々に迸らせ、泥と血にまみれた手足を振り回しながら駆け寄り、俺を見るなり掴みかかる。
あまつさえ、まるで盾にでもするように場所を入れ替えた。
「ど、どうしたんだ!?」
昼間に見た色気……というか生気はどこへやら。山で遭難していたかのような格好、血走った目、そしてわななく唇でようやく言った。
「昼に見た、あのっ」
「銀髪の! 山で! 私たち襲われて!」
「バケモノが! 大きなイノシシ!」
「いっぺんにいうなよ!」
左右から聞こえてくる言葉から推測すると……ベアトリーチェでも見たのだろう。
あれは確かに怖い。
十分、モンスター級だ。
「そりゃあんなドデカいイノシシ見たら――」
「違うわ! イノシシがやられたの!」
「銀髪の、バケモノ!」
聖観音アーリヤ・アヴァロキテーシュヴァラ。
あの普通で、話し合いを求めていた怪仏が?
友達といっていたベアトリーチェを?
「あ、あたしたちっ! 誘われてついていったら、いつの間にか眠ってて……!」
「イノシシが食べられてる音で気がついて! それで!」
「そう、それで逃げてきたの!」
そりゃあまあ動物性たんぱく質だし、イノシシ鍋ってモンはあるだろうけれど……。
「食べられてる……とは」
「びっくりして逃げちゃったし、暗くてよくわかんなかったけど……銀髪のやつに魂吸われてるって感じだったの!」
「マジやばいよお……」
何かの間違いじゃないのか。
というか、体積的に無理じゃないか。
魂吸われてるとは、一体なんなんだ。
そうはいってもこの状況だと、俺が確かめに行くしかない。
錯乱したCカップちゃんとEカップちゃんを陽子に任せ、一人残された俺は小言をぼやきながら暗い山道に入った。
まだ夕刻といって良いはずだが、生い茂る木々のせいでずいぶんと暗く不気味だ。
心細い。
するときゅるきゅるベルトが回り、応答する間もなくバリッと雷光が走った。
慰めているというよりも、さっさと行けと言わんばかりのヒーロースーツコーティングである。
「鬼か、アンタは!」
よくよく考えてみれば明王に対して鬼というのは失礼極まりない話ではあるが、このときの俺はまだ冗談を言う余裕があった。
鳥たちが飛び去ったあたりを目指して、恐々と駆け上がっていくと広場に突き当たる。
夕日だか月光だか、光が射し込んでいたことは俺にとって幸運だった。
不用意に、その異様な場面に突っ込まなかったからだ。
「なに、これ……」
拓かれていた。
まるで、いましがた体重約五百キロの超大型動物が暴れたとしか思えない有様で。
樹木は押し倒され、地面は掘り返されている。
虫は静まり返り、土と草の匂いが濃く漂っていた。
それから、銀髪を揺らす聖観音アーリヤ。
その目の前に横たわった血まみれの肉山。
もしかして。
本当に……。
考えを巡らせているうちに、顔をあげたアーリヤと目が合った。
タバコの煙のように、唇の端から銀色の湯気を吐き……爽やかに笑っていた。
「ああ……即身明王の。こんばんは。どうかなさいましたか?」
そして、相変わらずあまりにも普通な調子だった。
悪びれるでもなく、隠そうとするわけでもなく。
「どうかなさいましたかって……お前こそ、何をしているんだ」
アーリヤは「はあ」と生返事だった。
「私たちが顕現したのは、救済のためですよ。だから、そうしました」
その上、表情には戸惑いがあった。
見ればわかるだろう、そんな顔だ。
とはいえ、俺も同じ表情を反していただろう。
折れたのはアーリヤのほうだった。
しゃん、と手にした錫杖で地を打つと、昼間と同じくまるで無知に話しかけるように論法を砕いた。
「私たちは、大穢土華武吹町を救済して差し上げるため、降り立ったのです」
「おいおい、まるで善意で救済してやるって言い草だな……」
「それ以上の理由がないことを善意と言うのであれば、善意です」
言い切った。
普通に。
当然に。
「善意で、生きる欲望を奪って、精神的に追い込んで、お陀仏させよう……って言ってんのか?」
「そうですよ」
「認めたな……」
「何を言われましても……我々は救済に、それ以上の動機など持ち合わせておりません。俗世の罪に手を染めてでも、救済は成されるべきなのです。救済こそ、至福のための最終目標ですから」
違和感で殴られたような感覚だった。
それが実物であれば俺の脳漿が四散して土に還ってしまうくらいの、ドデカくて重たい衝撃だった。
善意。
至福。
そして救済。
アーリヤの言う意味を理解しようとすると、常識や道徳がガチャガチャと崩れていく。
つまり怪仏たちは侵略しようとか、復讐しようとか、そういう損得勘定ですらない。
善意で、俺たちを救って幸せにしてあげようって気持ちで――絶望させて嬲り殺すつもりなのだ。
「しかし、貴方たちは抵抗する。至福を恐れ、救済を怯え、欲望を手放すことを躊躇う」
聖観音アーリヤは淡々と長話を続けている。
浜で会ったときと同様、俺の頭にはまるで意味が入ってこない。
「私は知りました。人間は、意思が俗世を離れることに抵抗があると。煩悩を破壊し、肉の檻をも破壊する強制救済では真の救済が成せないのです。ですが、煩悩の源である穢れた肉体から、私の体に移ることで俗世にありながら救済を成すことが出来ます」
一つ一つの単語はわかるのに、頭が情報の受け取りを拒否している。
「それは観音とて同じ。私たちは一つになり、浄化されるのです」
俺の方がおかしいのかと錯覚させられるほど、悠長に、普通に話を続けている。
ずいぶんと情報は右から左に流れたが、結論にはなんとか追いつくことができた。
「チュンディー、ドゥン、そしてベアトリーチェの意思は私と共にあります。生きる煩悩や死の恐怖から脱することができたのです。これこそが究極幸福」
チュンディーとドゥンはふいを突かれ抵抗もままならぬ中、チンターマニを喰われた。
そしてベアトリーチェも、森を拓くほどに暴れて抵抗した末に、今しがた意思を喰われたのだ。
「あらゆる意思が、私という一つの存在に統合されること。これぞ共生救済……生と死の境目を超越する究極救済なのです。即身明王、貴方たちの力が必要です。私と共生いたしましょう」
そして悪びれもせず、さも当然のアルカイックスマイルときた。
俺まで喰おうとしているってのに。
とんでもない思い違いをしていたようだ。
アーリヤが厭戦的なのは確かだ。
他の怪仏と袂を別つていて、俺たちの力を欲して話し合いをしようとしているのも事実だ。
すなわち敵の敵である。
だが、敵の敵は味方という論法は通用しなかったのだ。
「ベルトの明王やそこに装備された三つの観音のチンターマニがあれば、如意輪観音チンターマニチャクラ、延いては魔王にも匹敵することができるでしょう。そして、全てと共生し、大穢土華武吹町は愛別離苦から解き放たれ、救済は完遂されるのです」
こいつは味方なんかじゃない。
それどころか他怪仏さえ喰おうとしている第三勢力。
そして、度し難い価値観に"幸福"という名前をつけて押し付けてくる、胸糞最悪な俺の敵だったのだ。
「冗談じゃねぇ……」
「冗談などではありません」
「にしちゃあ、愉快が過ぎんだよ! 無知で穢らわしくて、生きるのさえ辛い俺たちが、それでも俗世にしがみつく理由を壊して、奪って、救済だあ? 言葉数が多い割りには強制も共生も根っこは同じじゃねえか! 押し売り宗教は御免だ!」
「おや、困りましたね。交渉決裂……ということでしょうか。想定外です」
「想定しとけ、そのくらい! それどころか、てめぇの説法じゃあ、理解も、和解も不能だ!」
「そうですか。然らば――」
アーリヤが地をついていた錫杖をひらめかせた。
「――強制共生救済を齎しましょう。私と一つとなり、生死の境目を超越するのです」
先端の鐶が、しゃらりと涼やかに奏でられる。
「さあ――我とTogetherせよ!」
神々しい、そして胡散臭いそいつは構えた。
「……ソレはてめぇが言っていいセリフじゃあ――無ぇえんだよッ!」
ベルトは唸り、黒炎が鼓動と共に迸る。





