18. 今宵は満月
三瀬川病院を出ると、すっかり周辺は暗くなっていた。
携帯電話を見ると、陽子からの着信と共にメッセージの受信があった。
『禅兄、仏恥義理にカッコいいヒーロー、お疲れ様! 祭りもあんなだし、打ち上げ花火してお終いにしちゃうんだってさ! アタシはまだまだ片付けさせられるらしい! くたくた! 禅兄は逃げ切ってしっかり休んでくれよな! おやすみ!』
陽子も今回のMVPだっつーのに、災難だな……。
この調子じゃあ、氷川さんも役員たちに捕まっただろう。
祭りの裏方であれば、ヤクザ幹部より地元婦人会の皆様の方が強かったりする。ご愁傷様だ。
小一時間前の陽子のお言葉に甘えて帰路についていたところだった。
ひゅ~……ドォン。
空が明るくなり、いつも遠く聞いていた音が身体を貫通した。
小気味良い振動と花火の色合いに苦笑する。
まさか道端で一人、花火を見上げることになろうとは。
また一つ、音が身体に響く。
まるで雷鳴のように。
雷鳴……。
雷……。
そわ、と予感が過ぎって俺は足早に望粋荘に戻り、玄関口で乱雑に脱ぎ捨てられた下駄を見て確信した。
自分の部屋の前を過ぎて、ドアをノックする。
「優月さん、いるよね? 大丈夫!?」
特に返事は無いが、俺の部屋の覗き穴からは常夜灯の光が漏れていた。
窓を開け、屋根伝いに優月の部屋の窓を叩くもこちらも反応無し。
カーテンが閉められていたが、意外にも窓は鍵がかかっておらず、するりと開いた。
ふと、空が明るくなり、音は部屋に飛び込んでいく。
このままでも悪いし、一応、呼びかけてカーテンを掃うと優月は情けなく座布団をかぶって縮こまっていた。
目に涙を溜めながら俺を睨み、食いしばった歯を解いて、剣幕強めな罵倒を言おうと口を開いた――ところでまた花火が光り、その場に身を丸める。
「……だい、じょぶ?」
「……遅い、ばか」
案の定、だった。
雷と分かっていても、打ち付けられるような大きな音が苦手で竦み上がってしまう優月。
空襲を思い起こさせるような花火の音で彼女がパニックになっているのは想像できた。
その上、この花火は夕立と違って小一時間続く。
終了予定時間を告げると、優月の唇は気の毒になる程にわななき、まなじりからボロっと光るものが落ちた。
「花火なんだから、そんなビビんなくても……」
「…………」
「屋根上ったら見えるんじゃない? 綺麗だしさ、見たら気が変わるかもしんないよ」
「……違うとわかってる、でも……気分が悪い。戦火の……人が、暮らしが割れて飛び散り、焼ける臭い……」
「…………」
優月が何を見たのか、語らせることなんて出来ないだろう。
語られたとして、そればっかりは俺には到底共感しようが無いことだった。
どうしたものかと窓辺に腰掛けていると、優月は泣き顔をさらに歪めて、俺の目の前に膝をつく。
胸の前で握っていた両手を開き、俺に差し出した。
まるで、抱擁を求める小さな子供のように。
「私はまだ生きていると、感じたい……だから……だから……」
もう少しその哀れな表情を見ていたいという嗜虐心。
すぐにでも安心させなければという庇護欲。
一瞬ゆらめいて、後者が勝った。
膝をついて抱きしめると、優月は首筋にかじりつくように俺の体にしなだれかかる。
花火の音も蝉時雨も全部掻き消すほどに、優月の怯えた泣き声が俺の耳に染み込んだ。
震える身体。
背中に食い込む指。
優月の脳裏には恐ろしい光景が浮かんでいるのだろう。
それなのに、俺は肉体を求められている感じが扇情的で、そういう意味で心地よかった。
まったくもって俺らしく、煩悩に塗れた自分本位な感情で、熱と形と匂いを覚えようと五感をフル稼働させていた。
さりとて俺は、チュンディーとの闘いで煩悩をブッ放しそびれてしまい、結局は二股野郎続行中……。
アーリヤとかいう怪仏があと十秒待ってくれたら、違っていたのに。
ムラムラ悶々とする十数分、俺は耐えた。
悲しむ陽子、じっちゃ、ばっちゃ、そして俺をボコボコにして穴に埋めようとする望粋荘一同を思い浮かべて。
最後の連発花火が終わって優月はやっと顔を上げ、薄化粧の上から涙をごしごしと手で拭う。
呆然とした調子ながら、用は済んだと言わんばかりに腕を解いて背中を向けた。
怯えを紛らわせれば誰でもいい、そんな態度に「ご利用ありがとうございました」なんて皮肉がつい口からこぼれる。
「そうだ。朝帰りどころか昼帰りで夜帰りのばかを利用したまでだ」
いったい俺はいつ帰ってくればいいんだ!
そんなツッコミよりも先に優月は訂正した。
「すまない、態度を間違えました。わがままばかりで、えと……それもすまない」
「そんな謝らなくても……」
「いいや……本当はずっと強く願っていた。禅が早く来てくれないかと。そんなわがままも聞こえてしまうなんて、意思的エネルギーというのは……」
「そっちは聞こえてません……」
「…………」
「…………」
優月の白いうなじと耳がホクホクと茹で上がるように赤みを増し、石仏のごとく動かなった。
狭い部屋、薄暗く茜色に強張った空気の中、考え直す。
あの時、優月の声――あれもまた如意だろう――が聞こえて、絶望に飲まれる意識が晴れ渡った。
それは確かだった。
少なくとも俺を邪険にしてるってわけじゃないんだよな?
沙羅が言っていたように、試されてるとか、嫉妬されてるって自惚れていいんだよな?
だったら、もっと、ちゃんと話がしたい。
なんとか話題を拾おうと、再び窓辺に座り、空を見上げる。
花火の白煙の向こうから穏やかに光を射す、丸々と輝く月は黄金色。
本当に珍しく快晴の中、ネオンの光さえ押し払うように空を照らしていた。
「優月さん、優月さん」
やや強引に、しつこく呼んで天を指差すと、優月も振り返り窓を見上げる。
彼女の二つの目にそれぞれ満月が映っていた。それから、俺も。
「もう安心だな。静かになったし、月が綺麗じゃん」
「…………」
怪訝そうに俺を見上げる優月。
そして唇に指を当てて長い思案。瞳の中の月が潤んで揺れる。
おっと、今度は何だ。
もしかして、俺は何の地雷を踏んだのか。
最低とか、不愉快とか、あるいは新シリーズが出るのか。
もうどんな手ひどい罵倒が飛んでくるのか、俺は楽しみにしている節すらある。
優月はかすれ震える声でぽつりと零した。
「……死んでも、いいわ」
…………。
…………?
それは……罵倒?
俺を殺したいとかじゃなくて、自分が死にたくなるくらいの地雷……ってこと?
「ごめん、それどういう意味が――」
俺が言い終わる前に、優月の顔面から表情が消えてスッと右腕が動き、俺を押しのけていた。
となると、だ。
窓枠に座っていた俺はそのまま外に放り出されるわけだし、優月の部屋は二階。
「――ふぁ」
重力に従い、屋根、そして裏庭の雑草ぼーぼーな芝生に叩きつけられた。
「優月さん! 優月さーん!」
「ずっとそこで蝉みたいに鳴いてろ。ずーっと、ずーっとだ」
「ッあにすんだ、おい! ずっと鳴くぞ! 後悔すんなよ!! ミーンミンミンミンッ!」
「ばーか!」
窓はバシャンと閉じられカーテンが閉ざされる。
いくらなんでもひどい。
俺の身体を散々利用して窓から放り捨てるとは!
こんなに月が綺麗な夜なのに!





