90.見ていられなかった
「五十嶋さんも誘ってみる?」
唐突に飛び出して来たその発言に、度肝を抜かれてしまった。
五十嶋桂那は放って置けと言っていなかったか?
頭の中が疑問符で埋め尽くされている事を、水無月仁美は察したのだろう。
困ったように頬を掻いてから、彼女は言葉の続きを口にした。
「いやね、あれから五十嶋さんに何度か声掛けてはいるんだけど、あんまり興味持って貰えないんだよね。勉強会みたいに明確にする事が決まってるなら来てくれるかなーってさ」
あの時俺は、水無月仁美が神であるから俺を五十嶋桂那から遠ざけようとしたと判断した。
けれど、水無月仁美は、ただのお節介な用務員だ。
五十嶋桂那がより良い学生生活を送れるように、自分なりに動いているのだろう。
正直、俺は今特別、五十嶋桂那に会いたいとは思っていない。
何か予想外の事が起きてしまう可能性を考慮すると、会わない方が良いとさえ思う。
けれど、今日、この勉強会にはヒナちゃんが来る。
五十嶋桂那はヒナちゃんの事を『ヒナミ』と呼び、特別気にかけているようだった。
――会わせてあげても、良いんじゃないか?
ずっと世界に向き合って、旧図書室にこもる五十嶋桂那の重圧は、とてつも無いはずだ。
俺自身、きっと三条さんや吾妻さんが居なければ耐えられていない。
それを、五十嶋桂那は一人で耐えているのだ。
五十嶋桂那が今のところ固執している人物は、ヒナちゃんだけなので、その子に会わせてあげる事は、多少の救いになるんじゃないだろうか。
そう考えて、俺は水無月仁美の提案に、頷いた。
「そうですね。五十嶋さんが、嫌でないなら」
「ありがとう! 田中くんならそう言ってくれると思ったよ! それじゃあ私は五十嶋さんに声掛けてくるね!」
「今日、学校来てるんですか?」
「うん。あの子はね、土日だって学校に来るよ」
毎日登校して、毎日旧図書室へ籠もっているのか。
きっと、何が起きても良いように。全ての事に対処出来るようにそうしているのだろうけど、やっぱりそれは、まともな人間であれば耐えられそうも無い。
「今日こそは首を縦に振らして来るよ!」
水無月仁美はそんな台詞を残して、部室を後にする。
嵐のような人だなあと、開けたまま閉められる事のなかった扉を閉めに向かうと「嵐みたいだったね」と三条さんが後ろで笑う。
「ドーナツ早く食べちゃお。クリームの、絶対渡さないし」
「そうだね。奪われるの、ひとつじゃ済まない気もするし」
紙コップをふたつ取り出して、三条さんはそれぞれにリンゴジュースを注いでいる。
思い出し笑いでもしているみたいで、注ぎながら小さく笑って、幸せそうな顔で此方にコップを差し出す。
「先に乾杯だね!」
「乾杯するの?」
「する!」
受け取ったコップを、三条さんがもう片方の手に持つコップに軽く当てると、彼女はまた、何よりも幸せそうに笑ってみせた。
長い睫毛に縁取られた青い瞳がゆらゆら揺れて、小さく口を開くけれど、その言葉は声にはなっていなかった。
何を言おうとしたのかは、わからない。
彼女はそれを、言うべきではないと判断したらしい。
ごくりと喉を鳴らして、それから眉尻を下げる。
「かんぱい!」
「はい、カンパイ」
「何それ棒読みじゃん」
くすくすと笑う彼女にはもう、憂いなんて感じられなかったけれど、酷く日向の事を思い出した。
俺のふとした言動に、何かを思って悲しそうにする。
慰めてやりたいなと思うのに、その権利は俺にはない。
三条さんに、素敵な彼氏でも出来ればいいのに。
逃げ腰の俺はそんな事を考えたけれど、この世界に素敵な男子が居るとは思えない。
或いは肉壁の構成員であるし、或いは女子高生ウォッチングに励む覗き魔だ。
せいぜいまともなのは鴎太くらいだが、鴎太にはすでに相手が居る。
「ふごお」
完全に自分の世界に入っていた所を、足元から聞こえた鳴き声に引き戻される。
――猫丸だ。
「え、水無月さん。猫ちゃん置いて行ってるじゃん」
「……まあ、そのうち帰ってくると思うよ」
「そうだけど……。身体に悪いからドーナツはダメだよ〜」
お尻をもぞもぞとさせて今にも机の上に飛び乗る勢いの猫丸を、三条さんが抱き上げる。
それじゃあ、食べれないだろうに。
「猫丸預かっておくよ」
「え、ほんと?」
「うん。だから先に食べちゃって」
手を伸ばせば、三条さんが猫丸を差し出す。
受け取る時に、ほんの少し手が触れて、彼女が思い切り手を離すもんだから、危うく猫丸が床に落ちる所だった。
猫は、この程度の高さから落ちた所で着地するだろうけれど、三条さんは酷く慌てて「ご……、ごめん!!」と叫ぶ。
「ぶなあご」
「大丈夫大丈夫。落ちてないし」
「ごめんね、猫ちゃん……」
「ふなあ」
こいつ、会話するみたいに鳴くよな、そういえば。
ますます人間臭い。
三条さんに気にするなとでも言うように、ざらざらとした舌で、彼女の差し出した手を舐める猫丸を見ていると、猫丸が哀れで仕方なくなってきてしまう。大切なものを、取られてしまっている事を思い出して。
一頻り謝罪を終えた三条さんは、椅子に腰を下ろして、ウェットティッシュで手を拭いてからドーナツを食べ始める。
その様子を見ている猫丸の目には、なんだか哀愁が感じられて、見ていられなかった。




