76.落としてやる
「嫌だったら、逃げていいよ」
三条さんは、拒絶されることが苦手だ。
その身体は少し震えていて、弱々しい。
けれど、必死に俺を慰めようと、強がっている。
「帰ればいいよって、後押ししてあげたいのに。アタシには、出来ない。ごめんね」
声が、泣いているみたいだった。
以前までの俺なら、叫び声を上げて逃げていたかもしれないけれど、今の俺にはもう、逃げる理由なんてない。
逃げ出したさがあるとすれば、精神的には立派に成人しているにも関わらず、高校一年生の女の子に、こうして慰められている情けなさだろうか。
そっと、彼女の背に手を回す。
大丈夫だよと、伝われば良いなと思った。
三条さんの事が嫌いな訳ではなくて、拒絶するつもりもなくて、けれど彼女にはもっと相応しい人が居ると思うから、受け入れる事が出来ないだけで。
小さく息を吐いて、それから「ありがとう、大丈夫だよ」と、口を塞がれているもんだから、もごもごとなりながら伝える。
「……ほんと?」
「うん。大丈夫」
「へへへ」
小さく笑い声を溢して、それから腕の力を緩めた彼女は、目元が少し潤んでいた。
顔を上げた俺に対して、目を合わせるのが恥ずかしかったのだろう。くるりと後ろを向いて、部室へ向かって歩き出す。
「コタがさ、近付くの許すのなんて珍しいよね」
「心境の変化かな」
「片思いの人の事、もう追いかけなくて良くなったならさ」
前を歩き、階段を上る三条さんの後ろをついて歩きながら、その言葉を静かに聞いていた。
言わせるべきでは無いのに、止める事をしなかったのは、やっぱり俺がズルいやつだからなのかもしれない。
でも、仕方が無いじゃないか。
俺は元居た世界でも、日向が俺の事を、そういう対象として見ていた事に、拒絶する事も受け入れる事も出来ずに居た。
元々、こういうヤツなんだ。
「アタシ、コタの事、嫌いじゃなくなってもいい?」
多分、精一杯の告白なのかもしれない。
拒絶される事が何よりも怖い、三条さんの、何よりも大きい、歩み寄りの一歩だ。
相手が俺じゃなければよかったのに。
返す言葉に詰まっていると、三条さんはちらりと此方を振り返る。
そうして俺の顔を見た彼女は、何よりも幸せそうに、笑った。
「ふふっ、ほんっと、コタって顔に出るよね」
「……どんな顔してる?」
「困ってるって顔してる」
それがどうしてそんなに嬉しいんだろうか。
後は平坦な、廊下を歩いて行けば部室へ辿り着く。
この会話も終わるだろうと、胸を撫で下ろしていた最中だったのに。
三条さんはぴたりと足を止めて、俺に向き直る。
それから、俺の胸元に、手を伸ばした。
「嫌そうな顔じゃないんだよね、困ってるんだよね」
その手は、俺の胸ぐらを掴んだ。
ぐいと力任せに引っ張るもんだから、俺は体制を崩して前へよろける。
何とか、バランスを取って転ばずに済んだけれど、本当に、あと数センチ顔を近付ければ、唇が触れてしまいそうなくらい。
吐息も交わる距離に、三条さんの顔がある。
「それってさ。チャンス、あるって事だよね」
いつもゆらゆら波立っている印象の強い青い瞳が、驚くくらいに、凪いでいた。
迷いなんてちっともなくて、至近距離で俺を見詰める。
「落としてやる」
威圧的な、低めの、腹の底から絞り出したみたいなドスの効いた声で、囁きながら。
にいと、口角を上げて、笑みを浮かべる。
挑戦的な笑みなんて、そんなの、ゲームの中の三条遂叶みたいじゃないか。
俺はあんぐりと口を開けて、さぞ間抜けな顔をしている事だろう。
そんな俺を見て、三条さんはけらけらと笑う。
この子、こんなに強い子だったっけ?
「先、行ってるね」
前を向いて、ぱたぱたと走り去って行く三条さんの後ろ姿を、俺はただただ眺めた。




