74.おっぱいを回避って。馬鹿かよ
長い夢を見ていた気がして、今何処に居るのか、理解が少し追いつかない。
彼女が、俺の目の前に立っている。
黒い髪。肩につくかつかないかくらいの長さで、右側の耳の横の一房だけ変に癖がついている。
真っ黒で大きな瞳。野暮ったい眼鏡を掛けていて、いつも下から覗き込むみたいに俺を見る。
「落としましたよ」
彼女の手には、ハンカチが握られていた。
俺のものだ。
彼女は親との折り合いが悪くて、時々こっそり泣いていた。
でも隠れるのが下手なもんで、いつも見付けてしまう俺は、ハンカチを常備していた。
一番はじめに、出会った日の彼女も泣いていて、どうして良いのかわからずに服の袖で拭いてやったら、汗臭いと笑われたからだ。
自分の服の袖を見る。
もう、すっかり見慣れてしまった、制服だ。
あのギャルゲーの、制服だ。
「どうかされましたか?」
彼女が、怪訝そうに此方を見ている。
けれど、彼女の筈が無い。
これは、モブ子だ。存在しないはずのモブ子が、目の前に立っている。
元いた世界の記憶が戻った今なら、良く分かる。
俺は彼女と『早く帰る』約束をしていたもんだから、きっと当初、元の世界に帰ろうとしたんだろう。
世界にとって、それは都合の悪い事だ。
俺の記憶は帳尻が合うように書き換えられて、最終的に、俺の執着が世界の中に向けられるように、世界そのものに対しての記憶が改竄された。
無くしてしまったパズルのピースが見つかったみたいに、全体の絵図が見えて来る。
俺のするべき事は、モブ子に会う事じゃない。
元の世界に帰る事だ。
「それじゃあ、私、行きますね」
「あ、……待って」
思わずモブ子の手を掴む。
モブ子は驚いていたけれど、最早あんまり、気にならなかった。
「名前、教えて」
「名前……、ですか?」
「うん」
「…………」
答えられない。
それもその筈だ。神は俺の記憶を見る事は出来ない。
記憶を改竄した結果。
俺が此処に留まるように認識を曲げた結果、俺は居ないはずのキャラクターを追い掛けるようになってしまった。
俺が追っている事から、そういうキャラクターに執着している事には気付いたはずだ。
けれど。詳細までは把握出来ていない。
見た目だって、真似る事が出来たのは、三条さんの描いた人相書きのおかげだろう。
モブ子の取れる行動は、出鱈目な名前をつけるか、黙るか、選択肢としてはその二つくらいのものだ。
「もしかして、七海日向じゃないか?」
俺のイトコの女の子の名前。
七番目の名字と、日曜の名前を持つ女の子。
目の前のモブ子は、少し目を伏せて、それから「そうだけど、なんで知ってるの?」と呟いた。
「いや、……ずっと、探してたんだ」
精一杯の、笑みを作った。
ずっと会いたかった人にようやく会えたような、そんな笑顔を意識して、必死に作り笑いを浮かべた。
「……もう、行っていい?」
「うん、ごめん」
手を離して、モブ子を解放する。
最早モブ子に対しての執着なんて、欠片も無かった。
何だよ、おっぱいを回避って。馬鹿かよ。
足早にこの場を後にするモブ子の後ろ姿を見ながら、俺は今後の行動について考える。
最終目標は、元の世界に帰る事だろう。
ただ、現時点で帰ってしまうと、三条さんや吾妻さん、ヒナちゃんの問題は何も解決しないままだ。
関わってしまった以上、それを放って帰れるほど薄情にはなれないし、俺をそういうヤツにしたのは、他でも無い日向だ。
今帰ったところで、顔向け出来やしない。
その辺りの鍵も、五十嶋桂那が握っている可能性があるし、明日にでも五十嶋桂那に電話をして、現状を報告しよう。
『クイックロード』
頭の中に、声が響く。
頭の痛みも、耳鳴りも、目の眩みも、全て感じられず、淡々と声だけが響く。
巻き戻し、恐らく記憶の改竄を試みたのだろう。
俺が日向の名前を口に出したので、この世界に来る以前の記憶を改めて消去した。
地に足が付けば、こうも冷静に考えられるものなのかと、自分自身に感心しながら、俺は三条さんたちに部室に戻るようにメールを送った事を思い出す。
部室へ戻ろう。
モブ子を見つけた事を報告して、協力してもらった礼をしなければ。
そんな事を考えながら部室へ戻る俺の足は、酷く軽く動くように感じられた。
五十嶋桂那と話して以降感じていた不安も、最早微塵も存在しなかった。
五章、これにて終了になります。
お読み頂きありがとうございました!
最近シリアス回が続いたので、次は少し日常編で進めますね。モブ子の事随分先から検討ついていたからね! って方がいらっしゃいましたらそれは私の負けなので、どうぞ存分に作者にざまぁとお叫びください笑




