43.そっと、俺の頬へ唇を寄せた
「アタシ、花に水あげるのとか、はじめてかも」
「小学生の頃、アサガオ育てたりしませんでしたか?」
「アサガオって、ペットボトルに水入れて刺してたし。水あげるって感覚とはちょっと違うかも」
「確かに、そうかもしれませんね」
きゃっきゃうふふと会話を繰り広げる二人を横目に、俺は地面にしゃがみ込んでいた。
昨日、鴎太と話した後、俺は用務員室で一頻りサボり、帰宅した。
認知が歪められるこの現状で、世界の目的がわかったところで、どうすれば良いのだろうか。
ずっと考えていたけれど、答えは見付からない。
俺の当面のするべき事は、三つだ。
天使に会うためにイベントを回避する。
俺の中から消された記憶を取り戻す方法を模索する。
俺の記憶が消える条件と、それに気付く事の出来る条件を見付ける。
一つ目に関しては、今まで通りだ。
適切な距離を保ちつつ、惰眠を貪る。
二つ目は、三条さんがカギになるのだろう。
だから、極力三条さんの側に居て、受け入れる。
三つ目は、鴎太、二ノ前満月、水無月仁美、五十嶋桂那の側に居る中で、観察するしか無い。
「んなお」
鳴き声が聞こえて、足元に視線を落とすと、明るい茶色の猫が俺の足に頭を擦り付けていた。
あの、ブサ猫だ。
「お前なあ……」
この裏切り者を水無月仁美の元へ連行してやろうかと考えたが、探すのが面倒だ。
ぼんやりと眺めていれば、そいつは足をがしがしと引っ掻き始める。
座る場所を寄越せという事だろう。
制服の糸をほつれさせるか、尻を汚すかの二択を迫られ、俺は仕方なくその場に胡座をかいた。
地面が濡れている訳では無いし、後で払えばいいだろう。
ブサ猫は満足げな顔で、膝の上にのぼり、ちょこんと丸まってみせる。
なんだかこんな光景を過去にも目にした事がある気がして、実家にも猫が居たことを思い出す。
そいつは真っ黒で、愛嬌なんてまるで無かったが、大人しく座っていれば時折膝の上で丸まっていた。
猫は気楽でいいな。
「コタも水やりするー?」
「いや、ジョウロひとつしかないし。二人で遊んでてください」
「遊んでないし! 部活だし!」
怒ったような口調で言っている割には、三条さんは大変満足そうに水やりを続行する。
吾妻さんと話が出来て嬉しいのだろう。
一気に老けこんでしまった気分でブサ猫の背を撫でていると、声が聞こえた。
「ねえ、お兄ちゃん。コタローくん?」
校内に居るやつで、俺をお兄ちゃんなんて呼ぶやつは居るはずが無い。
俺は一年生で、一番年下になるのだから。
顔をあげると、そこにはピンク色の髪をした女の子が立っていた。
セーラー服を着た女の子。緩く波立つ髪を高い位置でツインテールに纏めあげたその子は、ピンク色の瞳を爛々と輝かせている。
ちょうど、猫みたいに。
「ヒナ、コタローくんに用事があって来たんだ」
――ヒナ?
「……何その子、不法侵入?」
三条さんの声が飛んでくる。
「ヒナは不法侵入なんかしてないよ。ちゃんとお姉ちゃんに行くよってメールしたし」
「お姉さんは、学校の先生ですか?」
駆け寄って来た吾妻さんが、威圧しない様に笑みを浮かべながら、ピンク髪の少女に問い掛ける。
俺には、この子のお姉ちゃんが誰なのか、すぐに見当がついてしまった。
ピンク髪で妹が居る人物だなんて、分かりきっている。
「んーん。ヒナの名前は、二ノ前陽菜美。お姉ちゃんの名前は、みつきちゃん」
予想から少しも外れない返答だ。
満面の笑みで言い切った二ノ前妹に対して、吾妻さんと三条さんは驚いたような顔をしているけれど、面立ちだけで言えば、この子は姉に良く似ている。
身長は二ノ前妹の方が比べずとも分かるほど低いし、見に纏う雰囲気や、喋り方は、姉が雰囲気のある美人なのに対して、妹は無邪気な可愛らしい女の子といった印象があるけれど。
「サンジョウスイカちゃんと、アヅマサキちゃん」
二ノ前妹は小さな人差し指をぴんと立てて、三条さんと、吾妻さんを差してみせる。
それからちょこんと小首を傾げて「タナカコタローくん」と、俺を指差した。
「ヒナね。お兄ちゃんに会いたかったんだ」
二ノ前妹は、俺の前までとてとてと距離を詰めると、その場にしゃがみ込む。
驚いたブサ猫が「ぶみい」と不服そうに退散する。
にっこりと擬音がついて、きらきらと光を飛ばしていそうな、眩い笑顔は、二ノ前姉を彷彿とさせるものがある。
周囲の時間が止まっているんじゃないかと錯覚してしまうくらい、俺も、三条さんも、吾妻さんも、全員がぴたりと静止していた。
どんな感情よりも、困惑が強くて、恐らく二人もそうだったのだろう。
誰一人身動ぎひとつしない空間で、二ノ前妹だけが勝手気ままに、俺に向かって両手を伸ばした。
避けなければ、そう思って身を逸らしたけれど、抵抗虚しく、二ノ前妹の手は、俺の肩に、添えられる。
そうしてそこに力を加えて、その身を俺に寄せた二ノ前妹は、そっと、俺の頬へ唇を寄せた。
「お兄ちゃん、ヒナのものになってよ」




