犬は食わない
はて?
夫と恋とは、どうやって行うものだろうか?
本当に、上手くいくの?
「…………駄目な予感がする…………!」
ティアナは朝食の席で一人唸っていた。
「行儀が悪い」
「すみません……!」
すかさず夫に叱られて、彼女は反射で謝る。
東向きに大きな窓をとった朝食室には、燦燦とした午前の光が柔らかな角度で差し込んでいる。
壁紙はペパーミントグリーン、床のタイルはくすんだターコイズブルーで、つるりとした表面はティアナのお気に入りだ。
ティアナがアンブローズ家に輿入れした後、最初の仕事はこの屋敷のリフォームだった。
元々王都に建っていたかつて別の貴族が所有していたそれを買い取り、そのまま住んでいたラザフォード個人のこの屋敷は、時代遅れの壁紙や調度に溢れていた。
勿論上質なものだし、必ず取り除かなくてはならない程おかしなものはなかったが、それでも結婚して屋敷に人を招く機会が増えることを考えると、そのまま放置はしていられなかった。
ぶっちゃけダサい屋敷はラザフォードの生家、伯爵家の評判に関わる。
「……ラズ様は、屋敷を改装なさろうとは思わなったんですか?」
スプーンでポタージュを掬って、ティアナは訊ねた。
因み、彼女はつい癖で兄と呼びそうになるのを誤魔化す為に、愛称プラス敬称で呼ぶようになった。なかなか仲良しに見えていいのではないだろうか、とティアナは自画自賛しているが、ロイドは無言で呆れた目をしていた。何故だ。
「贅沢好みの女が嫁いでくる予定だったからな。どうせ結婚後に改装されてしまうのならば、最初から弄るのは無駄の極みだろう」
相変わらずケチなことを言う男だ。新聞を捲りながら珈琲を飲むのは、行儀が悪いと言わないのだろうか。事案である。審議を要求したい。
ティアナはしばし物申したい表情でラザフォードを睨みつけていたが、当の本人が気づいてくれないものだから渋々諦めた。せめて新聞から顔を上げるべきではなかろうか。
「え?私、別に贅沢好みというわけでは…………!!!」
途中まで言って、ティアナは己の迂闊さを呪う。
まさに口は災いの元、口には拳でもツッコんでおけばよかった。いや、無理だけど。
ラザフォードの言う、贅沢好みの女、はアマーリエのことだ。
シン、とした部屋に、メイドが食器を下げる僅かな音が響く。
急いで話を変えよう、とティアナが思いついたのは先程まで考えていた、夫といかにして恋をするのか、という問題である。
両想いであることが発覚し、結婚もした。既に世の恋人達が到達すべきゴールが、二人のスタート地点なのだ。今更ながら手探りで進んでいくしかない。
「話は変わりますが……ラズ様は私のどのあたりがお気に召して……好きになってくれたんですか?」
話を変える為の話題としては、ティアナには荷が重かった。
ぱぁー、と朱が散らされたように彼女の顔は赤くなり、自分で言いながらとても恥ずかしくなってしまったようだ。
ラザフォードは新聞から顔を上げ、じっとそんな妻の様子を眺めやる。
彼の膝の上で新聞は開かれたまま置かれていて、コーヒーのカップからは温かみが冷めていった。
ティアナは、夫の返事を待つ。
「?」
「……」
「……?……??」
「………………」
「………………………」
沈黙があまりにも長い。
「……あの、ひょっとして、ない……んです、か?お気に召した点……」
ティアナの頬の紅潮もとうに治まり、今は緑色の瞳がズゥン、と据わっている。
再度促されても、ラザフォードは言葉を持っていなかった。なので、壁際に立つロイドに目配せをする。何か捻り出せ。
ちなみにこういった要望に、ロイドが期待に応えられたことはない。
「お嬢さ……奥様、旦那様は恐らく、そういう奥様の可もなく不可もないところがお気に召したのでは……?」
「褒めてない。どこをどうとっても褒めてない……」
ティアナは据わった瞳を執事に向けるが、彼は慣れっこなのでまるで見本のような真面目くさった表情を浮かべた。
「凡庸である、という点は、見方によっては美点とも言えます、それを褒めていないなどど言われては心外です。というか、褒めてほしいのならば最初から言っていただかないと、困ります」
「文脈で分かるでしょう!?」
ティアナが怒ると、ラザフォードはようやく口を開いた。
「お前のその感情を素直に出す点は、好ましいと思っている」
「ま……まぁ……ええと、じゃあ素直な私に惹かれて……ということでしょうか」
執事をとっちめに向かおうと、今まさに立ち上がろうとしていたティアナは出鼻を挫かれて椅子に座りなおす。
もじもじとナプキンをいじりながら、再び恥じらいだす彼女を見て、ラザフォードは首を横に振った。
以降、冷めたコーヒーを飲み干し、新聞を畳む。
「……え?この話はお仕舞いですか?」
「続ける必要があるのか?」
「あります!どうやって思い合う仲になったのか、知っておきたいと思うのが乙女心というものですもの!!」
ティアナが赤面しつつ言うと、ラザフォードは朝焼け色の美しい瞳を眩しそうに細めた。
「…………俺は思わない」
ぴし、とティアナの崩壊寸前だった理性に亀裂が入り、がらがらと音を立てて崩れていく。その向こうにあるのはごうごうと燃え盛る怒りの炎だった。
話を逸らす、という目的は完璧に叶ったものの、新たな問題が発生した。そしてこの問題は先程のそれよりも重要だ。
「……離婚よ!離婚!こんな薄情な人だとは思っ……いや、知ってたけど!でも!好きになった理由まで言ってくれないほど薄情だとは思わなかったわ!あなたの顔なんて見たくありません!こうなったらもう離婚しかありませんわ!私、実家に帰らせていただきます!!」
羞恥と怒り、そして何より情けなさに追い立てられて、立ち上がったティアナはビシッ!と宣言し、そんな彼女にラザフォードは億劫そうに目を向けた。
「……伯爵邸にか?」
伯爵家に引き取られたティアナにとって、実家とは伯爵家になり、すなわちラザフォードの生家にあたる。
「うっ……!うう……!それは……」
ティアナの生家である子爵邸に戻ることも出来るが、恐らく屋敷に勤める気のいい使用人達に心配をかけるばかりだろう。それは避けたい。
「うう…………!」
何やら雄々しく苦悩しているらしい妻に、ラザフォードは退屈しない。
「まぁ待て。お前はどうにもせっかちでいけない」
「ラズ様にだけは言われたくない言葉ですわ……!」
ふぅ、とこれ見よがしに溜息をつく夫に、ティアナは呆れる。せっかちの権化のような男に言われるのは屈辱だ。
「俺の顔が見たくないのであれば、もっと簡単かつ確実な方法があるだろう」
せっかちで、無駄が嫌いで合理的だが乙女心を解さない男の言葉に、ティアナは嫌な予感しかしなかった。
かくして。
「出して!出ーしーてー!!」
べちべちと扉を叩いてティアナは叫ぶ。
今現在、彼女は屋敷の一室に閉じ込められていた。居心地よく過ごすことが出来るように整えられ、お茶やお菓子の用意もされてはいるものの、扉は外から開かないように施錠されており、部屋は二階。ティアナがいかに通常の令嬢よりもお転婆だからと言って、さすがに二階の窓から外に出る勇気はない。
「これは監禁!監禁ですよラズ様!こんな横暴は許されませんからねっ!」
最初に拳で扉を叩くと痛かったので、今は平手でべちべちと叩いてみている、という締まらない光景と音である。
「まさかこんな物語の悪者のようなことをする方だとは思いませんでした!これはやはり離婚一択……!婦人雑誌とゴシップ誌にも投書してやるんだからー!!」
何やら抵抗の仕方が恐ろしいことを言っているが、ラザフォードは扉の外で無表情でそれを聞いていた。
本当に、この義妹改め妻は片時も彼を飽きさせない、素晴らしい素養の持ち主である。少し虐めた方がその傾向が増す為、つい揶揄ってしまうのは悪い癖だと自覚していた。
今だべちべちという音と抗議の声は続く。
「またきっとこれが正解だと勘違いしてらっしゃるから教えて差し上げますが!こういう時、物語の主役だったら、素晴らしい贈り物の一つでもして恋人の機嫌を取るものなんですよ!監禁なんて真逆も真逆!愚策の極みです!!」
が、ラザフォードは自覚しているものの直すつもりはないので、今後ともティアナには頑張ってもらうしかない。
何せ、婚約を打診したのはラザフォードの方だが、承諾したのはティアナ自身なのだから。
「…………こういう愉快なところを気に入っている、と教えてやるべきだろうか」
「火に火炎瓶を投げ込むおつもりですね、旦那様」
彼の独り言に、ロイドも無表情に応じた。
火に油どころではなかったか、とラザフォードは口に出さないことを決めて、ロイドに鍵を渡す。
「出掛ける。俺がいなくなったら解放してやれ」
「はい」
「ただし、教会や裁判所に逃げ込むようならば止めろ」
「……離婚は困る、と」
「あれを手放すつもりはない。何故あそこまで怒るのか理解に苦しむが……時間を作って、もう少し話し合う必要があるだろう」
頭を下げながら、内心でロイドは驚く。
徹頭徹尾、無駄の嫌いなラザフォードがもう一度同じ話を同じ相手としようとしているのである。これは非常に珍しい。
しかも、暇な時に、ではなく、時間を作って、と言った。
彼の意見は恐らく変わらないのだろうが、分かり合おうとしていることは随分な進歩だ。それをたった一人、ティアナの為に行おうということ自体、かなりの愛情の表れのように感じるが、一切本人のティアナには伝わっていないのだろう。
「あ!ラズ様、そこからいなくなりましたね!?抗議する妻の言葉に耳を傾けないなんて、夫の風上にもおけない悪魔の所業!私は断固抗議し続けますよ!ええ、この闘志尽きるまで!!」
こちらはこちらで何やら変な方向に火が点いている。婦人活動でも始めるつもりだろうか。
廊下を去っていくラザフォードと、ティアナの怒鳴り声を聴きながらロイドは手元に残った一本の鍵を見てゆっくりと瞳を瞬いた。
その後。
ラザフォードが馬車で屋敷の敷地の外に出たのを見送ってからロイドが部屋の鍵を開けると、宣言通り不屈の闘志の燃え上がるままに扉前で抗議活動をしていたティアナが転がり出て来た。
「ラズ様は!?」
「出掛けられました」
「おのれ、逃げるとは卑怯な!」
顔も見たくない、と自ら言ったことは忘れているらしいティアナである。
それから居住まいを正した彼女はロイドと鍵を見て首を傾げた。
「あなたが助けてくれたの?ロイドが?本当に?」
ひどい言い草である。
そう言われるだけの普段の行いに自覚のないロイドは、傷ついたジェスチャーを無言で取ると、ティアナは素直に慌てだした。
「だっ、だって、普段のロイドなら仕事が捗るとか言って私のこと放っておくじゃない!」
「お嬢様が大人しくしていてくださると、私の仕事が減るので助かるものですからつい……」
重ねて言うが、ロイドに自覚はない。
「ううう、解雇!解雇よ、ロイド!あなたのような主人を敬うことをしない執事など解雇よ!」
「ああ……残念ながら現在の私の雇い主はラザフォード様なので、お嬢……奥様では解雇する権利がありません」
「!!!……そ、そうだったわ……!!」
結婚に際し、子爵邸の使用人達は引き続き子爵家の方で雇う形のまま据え置いたが、ロイドだけはティアナに常に同行する為、伯爵家の使用人として雇うことになったのだった。
「因みに給金は上がりました」
「くっ……!この伯爵家の犬め……!」
「お嬢様の方こそ、口調が物語の悪者のようになっていますよ」
ロイドは思わず顔を顰める。巷で流行りの小説に影響を受けすぎではないだろうか、素直すぎるのも考え物だ。
よろよろと歩き出したティアナの後を、ロイドは無言で付いて行く。
「……うう……私がおかしいのかしら?夫に、私のどこが好き?て聞くのって変?」
妻が夫に聞くのはおかしくはないが、その相手がラザフォード・アンブローズだということが問題なのだろう。
「お嬢様は、ラザフォード様のああいった性格をよく理解して結婚なさったのでは?」
「……そうね。分かっていたわ、それに結婚したからって急にあの“義兄様”が甘ったるい男に変身したりしないってことも、想像していた筈なのに……」
ふぅ……と立ち止まり、重い溜息をついたティアナに、ロイドは声を掛けるでもなくその小さな背を見つめる。
「…………」
ぐっ、とティアナは拳を握った。
「アッタマきた!ラズ様のツケで散財してやるんだからっ!!」
「それでこそお嬢様です」
不撓不屈は結構なことなのだが、方向性が間違っているのでは?とロイドは思いつつ、口には出さない。
ラザフォードの方からも、ティアナの好きにさせるように申し付かっているし、元よりしがない子爵家出身の彼女のことだ、散財と言っても慣れない浪費が上手く出来るとは思えない。
案の定、めかし込んでロイドと侍女を連れて街に繰り出したティアナは、ドレスの仕立て屋でその提示額に慄きドレスを仕立てることは断念、何も買わずに出るのも失礼かと、自分の手持ちの金で可愛らしいレースの縁取りのついた手袋を購入した。
それから平民でも買える価格帯の菓子店に赴いてどっさりと菓子を買い、これでは本来の浪費という目的を果たせていない!と気付き、止せばいいものを次は高級宝飾店へと向かった。
「……なかなかの支離滅裂具合ですね」
ロイドが感情の読めない無表情で言うと、ティアナは自覚があるのか声量で撥ね退ける。
「人生というのは筋書き通りに行かないものよ!」
口だけは達者である。
大通りに面した、王都で一番の高級宝飾店に入ると店内のショーケースには豪奢な宝飾が飾られていて、目に痛いぐらいだった。
客の姿は他には見当たらないが、こういう店は奥の個室で商品を見るものだろうから、全く客がいない、ということもないのだろう。店員は、ティアナ達を見て上品に微笑んで挨拶を述べる。
ここで一番小さなアクセサリーを買ったとしても、子爵領の収入と比べてどれぐらい差があるだろうか、とついティアナは考えてしまう。けれど、数分だったとはいえ、望んで添うた伴侶を監禁するような男にギャフンと言わせる為なのだ。
なるべく、娘とかが生まれたら受け継ぎやすそうで、普段でも使えそうで、それでいて夜会に付けていってもおかしくないような、そんな完璧なデザインかつそこそこお手頃な品を探すべく、ティアナはショーケースを物色し始めた。立ち止まると、すかさず店員がにこやかにケースを示してくる。
「奥様、お目が高いですわ。こちら、当店の今期の新作です」
思っていた以上にゼロの数が多い。ティアナの背に冷たい汗が流れた。
「…………ええ、とても素敵ね。でも私の瞳の色には少し合わないかしら……別のものも見せてくれる?」
なんとか返事をしたが、ティアナは既に帰りたい気持ちでいっぱいである。どうしてお菓子の爆買いで留飲を下げて帰宅しなかったのだろう、と後悔しきりだ。
壁際に立つロイドと侍女の方を見たが、二人とも視線を避けて首を横に振った。味方がいない。
店員が快くショーケースを開け、ティアナの緑色の瞳と同色の大きな宝石があしらわれた、普段使いなぞとても出来そうにない豪奢な細工のブローチを取り出したその時、
バンッ!と大きな音を立てて店の入り口の扉が開いた。
中に駆けこんできたのは背の高い男で、彼は大振りのナイフを手に握っている。
それを見て取ってすぐさまロイドがティアナの方に駆け寄ろうとしたが、逸早く男が叫んだ。
「全員動くな!!」
「きゃあ!」
侍女が悲鳴を挙げ、男は牽制するように傍のショーケースをナイフの柄で叩き割る。中に手を突っ込んで、キラキラと輝く宝飾を奪い、無造作に持っていた革袋に詰め込んでいった。
男はどんどんケースを割り、中の宝飾を袋に詰めていく。少しずつこちらに近づいてくることに、ティアナは恐怖を覚えた。
と、青褪めるティアナと固まった店員の手元を見て、大振りのブローチに目を止めた強盗犯の男はそちらを示す。
「それも寄越せ!」
「あ……」
「そっちの、お前が持ってこい!」
震える店員は動くことが出来ず、ティアナは彼女からそれを受け取って、そろそろと犯人に近づく。ロイドが犯人の死角でじりじりと距離を詰めるが、犯人の方が明らかにティアナに近い。
勿論ティアナとて恐ろしいが、彼女も貴族の端くれ、こういう有事の際に民よりも矢面に立たなければ、ご先祖様達に顔向けが出来ないというものだ。
「……これを取ったら、もう出て行ってください……!」
「そうだな、人質でもいれば逃げやすいしな!」
宝飾を持つティアナの腕ごと掴んで、犯人の男がニヤリと笑った。ゾッと彼女が後ずさったが、男の力が強くて抵抗出来ない。
強引に腕を引かれ、ティアナは人質として男に連れていかれてしまう。店の正面の方はさすがに騒ぎを聞きつけた野次馬が集まってきていて、警察が来るのも時間の問題だろう。
犯人の男はティアナを片手で従わせ、奥の裏口の方を目指していく。
「大人しくしていろ、顔に傷なんて作りたくないだろう?」
頬にナイフを当てられて、彼女は悲鳴を飲み込んだ。恐ろしくて、逃げ出す算段も考え付かない。
これほど男の近くにいてしまえば、ロイドが飛び掛かってもティアナに被害が及ぶ可能性がある。どうすればいいのか分からず、ティアナの瞳にじわりと涙が浮かんだ。
こんなことになるのならば、ラザフォードとケンカをしたまま離れてしまうのではなかった。
ひょっとしたら、このままティアナは殺されてしまうのかもしれない。そうなる前に、きちんと仲直りをして、夫と分かり合えるようになっておけばよかった。
新婚だし、夫婦として行きたい場所ややってみたいこともたくさんあったのに。と、ティアナは後悔で押しつぶされそうだ。
その間も犯人の男は裏口に向かって部屋を横切っている。ティアナが怯えて力が入らない所為でスピードは遅く、男は苛立った。
「おい、遅いぞ!」
そこで、
「それは俺のものだ、触るな」
ヒヤリとした声がくっきりと響き、犯人の男の姿がティアナの視界から消えた。
「え」
彼女が瞳を瞬く間に、男の体が独楽のように回転し投げ飛ばされる。
スローモーションのように綺麗に弧を描いた体は、ズダン!と鈍い音をたてて床に落ちると同時に、強い衝撃を受けて一度バウンドした。
その際に転げ落ちたナイフは、素早くロイドが確保する。
「ラズ様!?」
男を投げ飛ばしたのは、どこから現れたのかラザフォードで、彼は男の背に膝で伸し掛かり腕を捻り上げると、涼しい顔のまま店員に捕縛用の縄を持ってくるように指示した。
「縄を」
バタバタと奥から現れた男性店員に縄を渡され、ラザフォードはその店員と共に犯人の男の手足を拘束する。
「皆、大事ないか?」
ラザフォードがティアナの手を確認しながら周囲の者に声をかける。
まるで物語の主人公のように鮮やかな救出劇に、ティアナはぽかんと夫に見惚れてしまっていた。
彼女の手はいつまでも解放されず、ラザフォードの長い指先が皮膚の感触を確かめるかのように触れていく。
「お見事です、ラザフォード様」
「……さすが拘束がお上手ね」
ロイドの言葉に続き、ついティアナは可愛くないことを言ってしまう。ラザフォードはそんな妻をしばらく眺めていたが、やがて彼にしては珍しく、やや困惑したように口を開いた。
「……お前、縛って欲しかったのか?」
「そんなわけないでしょう!嫌味です!!ラズ様のばか!」
ティアナの怒鳴り声が、店に響いた。
それから近所の者が通報して、警官が到着し現場検証や事情聴取が始まった。
ラザフォードは、最初にティアナが考えたように、奥の個室で接客を受けていたらしい。状況を窺っていたが、犯人がティアナに危害を加えようとしているように見えたので、つい手を出してしまった、と警察の聴取で述べた。
警察の方でも、他の店員達の相違ない証言を聞いてラザフォードのしたことは危険だったが妻を守る為の夫の勇気ある行動、と評価された。
一通り聴取を受け、一同が解放された頃には既に陽が暮れていた。
先に解放された侍女は屋敷に事情を説明する為に帰っていて、帰路に就く馬車の中にはロイドとティアナ、そしてラザフォードが乗っている。辺りはすっかり暗く、車窓から時折街燈の光が車内に影を描いていた。
「…………」
「何故睨む」
「別々に来たのだから、別々に帰るのが筋ではありませんか?」
ラザフォードが訊ねると、ティアナはつっけんどんに返す。
「俺の乗ってきた馬車は侍女を帰すのに使った。辻馬車に乗れとでも?」
「う……」
ラザフォードが出掛ける際に使っていた伯爵家の馬車は一人乗りの小さなものだったので、恐縮する侍女をそれに乗せて帰したのだ。
当然、四人乗りのこちらの馬車にラザフォードが同乗して帰るのは当然というものだろう。
「そ、それにしても、宝飾店で何をなさっていたのです?妻を監禁して、自分は浮気相手へのプレゼントでも見繕っていたのかしら」
事件での恐怖や興奮、そして屋敷での怒りと不屈の闘志を思い出したティアナは、ツン!とそっぽを向いて刺々しい言葉の数々を繰り出す。
ラザフォードは、心から面倒くさそうにティアナの体を靴の先から頭の先まで見遣って、溜息をついた。
「監禁されているようには見えんが?」
「い、今は解放されましたが、監禁の事実は消えませんからねっ!私は怒っているのです!」
「第一、浮気相手という発想はどこから来た?ゴシップ誌がお前に悪影響ばかり与えるようなら、閲覧許可は取り下げるぞ」
「ひどい!いつも読むのを楽しみにしているのに、そんなの横暴です!妻を愛している点も言えない夫ですもの、ラズ様は不貞を疑われても仕方のない身ですよ!」
ティアナが吼えると、ラザフォードは顔を顰めた。単純にうるさい。
「……俺ばかりを責めるが、お前とて俺のどこを愛しているのか言っておらんだろう」
すい、とティアナの小さな手を取って、ラザフォードが言う。
「え……そう、です、けど……だって……そんなの」
ゆっくり紅潮していく白い肌を、ラザフォードは視線で追う。馬車の中は薄暗く、彼女の肌の微細な変化をも逃すまいとしたのだ。
「夫の愛している点を言えないのは、不貞を疑われても仕方のない身、か?」
「そっ!…………そんなの、ほかに人のいる前で、言えません……」
真っ赤になって、身を捩るティアナを彼はじっくりと眺めやる。あまり揶揄うと彼女が爆発してしまうことも学習していた為、引き際は心得ていた。
彼はジャケットの内ポケットから箱を取り出すと、握った小さな手にそれを持たせる。すると、ティアナは瞳を瞬いた。
「……これは?」
「浮気相手ではなく、妻への贈り物を買いに行っていた」
「…………どうして?」
白い小箱。店のロゴが金で印字されている。
ティアナが心から不思議そうに訊ねると、ラザフォードは顔を顰めた。
端の方で、ロイドが笑うのを我慢している。何もかも、自分で言ったことはすっかり忘れてしまっているティアナである。
「お前が言ったんだろう。こういう時、物語の主人公は贈り物で恋人を釣る、と」
「機嫌をとる!です!釣るって言い方の悪い……!」
ティアナは語気を強めたが、箱を持つ開いた掌を指の腹でなぞられて勢いが弱まっていく。
「……開けても、いいですか?」
「お前にとって素敵な贈り物かは分からんが」
ラザフォードが許可すると、ティアナはリボンを解いて小さな箱を開いた。
中には、ラザフォードの瞳と同じ朝焼け色の石の象嵌された指輪が収まっている。
細身のリングだが、精緻な細工がなされていて、娘が出来たらお守り代わりに譲ってあげたいぐらい素敵だし、普段から付けていても派手すぎなくて、夜会の際にも付けていても、夫の瞳の色なので仲の良さが黙っていても伝わってしまうかのような、完璧なデザインだ。
「…………高そう」
「妻の機嫌をとれるのなら、安いものだ」
ラザフォードは箱から指輪を取り出し、ティアナの指にはめる。サイズもぴったりで、明らかに以前から注文していたものだということが知れた。
「…………ラズ様、私のこと、本当に好きなんですね」
「物に釣られたように見えるぞ」
「余計なことはたくさん言えるくせに……!」
キッ、とティアナは夫を睨んだが、手元を見て僅かに頬を緩める。
「……まぁ、今日のところは、この素敵な贈り物に免じて許してあげます」
外の街燈からの灯りに照らされたティアナの表情は、嬉しくて、でも素直にそうとは言えない強がりを滲ませていて、なんとも言えない幸福な様相を呈していた。
それを見て、ラザフォードは深い満足を覚える。
この瞬間、彼の胸にあるのは確かに恋情だった。
そうこうする内に馬車は無事屋敷の前の馬車寄せに停まり、外から従僕が扉を開く。
「おかえりなさいませ、旦那様、奥様」
使用人達の声に、ティアナが頷いて腰を浮かす。と、
その腕を引いてラザフォードが引き留めた。耳元に彼の唇が近づく。
「ラズ様?」
「では、今夜にでも人のいないところで、俺のどこを愛しているか聞かせてもらうか」
「なっ!」
ぼん!と音が立ちそうな程勢いよくティアナの顔が赤く染まる。ラザフォードはそれを見てニヤリと笑った。
「機嫌も直ったようだしな?」
「ラ、ラズ様のばか!」
従僕の手を借りて逸早く馬車を降りたティアナは、ぴゃっ!と脱兎の如く屋敷の中へと消えていく。
その背を見送って、ラザフォードは表面上は普段通りに馬車を降りた。後から続いたロイドには、彼がひどく上機嫌であることが分かる。
「……お人が悪い」
「お前もな。俺の機微が分かるのならば、あれに教えてやればよいものを」
屋敷に入り、ラザフォードが外套を脱ぐのを手伝いながら、ロイドは無表情に首を振った。
「人づてに聞いても意味などありませんでしょう?口にしなければ、気持ちなんて案外伝わらないものですよ」
「……では、言っておくか」
ふ、とラザフォードは奇妙なタイミングで吐息をつく。ちょうど廊下には二人だけになっていた。
「あれは俺のものだ、手を出すな」
ひやりとした言葉。朝焼け色の強い光彩を放つ瞳が、ロイドをひたりと見据えている。だが、執事は何も変わらない。
「…………意味が分かりかねます」
「ティアナはもう俺の妻だ、言葉使いには気をつけろロイド」
皆まで言わなかったが、ラザフォードは仕事だけは完璧なロイドが頻繁にティアナを“お嬢様”と呼ぶことを示唆した。本来の彼ならば有り得ない言い間違いだ。
「無論、心得ております」
「どうだか……」
ロイドは薄い唇を僅かに吊り上げて、完璧な作り笑いを浮かべる。
「旦那様がお嬢様を大切になさっている間は、心得ております」
「……ほう?」
ラザフォードが面白くもなさそうに首を傾けると、ロイドは面白がるようにさらに唇を吊り上げた。
「犬は主人に従順なものですよ」




