第二十二話 ひと月振りの夜
青馬様・・・、貴方様がいらして、勇馬様がいらして、私にはこれ以上、何も望む物などございませぬ。
漸く、漸く、私に訪れた穏やかな日々。いつまでもこの幸せが続きますよう願わずにはおられませんでした。
然れどそう願いながらも、その一方で、まだこの身に訪れたこの幸せを信じきれずに、長年の日陰の身が染み付いてしまうた情けない私が居るのもまた、事実でございました・・・。
◇◇◇◇
勇馬様が加わられました安芸家のお屋敷は、以前とは比べものにならぬ程、明るくなっておりました。
勇馬様は世話の掛からぬとても利発な御子で、くりくりとした意志の強そうな目が青馬様によう似ていらして、それがこの御子は間違いなく青馬様の御子だと証明しておりますようで、私は余計に嬉しかったのです。
これ程の喜びや幸せがこの世にございましたとは、神に毎朝毎晩感謝の意をお伝え申し上げて、この穏やかな日々が永久に続きますよう、祈るのが日課となっておりました。
そうしてひと月程経ちましたある日、私は漸く床上げする事が出来ました。
青馬様とはこのひと月程寝室を別にして、私は勇馬様と添い寝しながら別室で休んでおりましたので、今宵もし青馬様のお渡りがございますれば、ひと月以上振りに夜をご一緒に過ごさせて戴く事になります。
私はそう思うだけで酷く緊張してしまい、既に御子迄なしておると申しますのに、まるで何も存じませんでした婚礼の晩のように、そわそわそわそわしながら、夜の帳が下りるのを待っておりました。
桐依は勇馬様のお側に付き添わせておりますので、この部屋には私一人。
やがて、
「菫様、半刻程で青馬様がお渡りになられるとの事にございます。」
という侍女の声が、隣の控えの間より聞こえてきました。
「分かりました。」
私は声が上ずりそうになりましたのを侍女に気付かれたのではと、ひやひやしながらそれに応じて、ただ待ち続けておったと青馬様に知られるのも嫌でしたので、慌てて文机に向かうて、読みかけておりました物語など出してそれを夢中で読んでおる振りを始めましたが、一向に先へ進む事はございませんでした。
暫くそうしておりますと、遂に人の気配がしだしました。
そして、
「青馬です。」
戸をコンコンと遠慮がちに叩く音と共に青馬様のお声が掛かりましたのでございます。
「はいっ!」
私は大慌てで立ち上がろうと致しまして、久し振りに身に付けました、夜伽用の真新しい美しい夜着の裾を踏ん付けてしまい、けたたましい音と共に思い切りズテンと、みっともなくも、その場にうつ伏せに倒れ込んでしまうたのです。
「姉上?!」
バンッ!
物凄い勢いで扉が開いたと思うた途端、傾れ込むように青馬様が部屋に入って来られて、情けない格好で倒れておりました私の元に駆け寄って来られました。
「姉上!如何なされました?どこか痛められたりなどなされておられませぬか?」
気遣わしげに私の傍らに跪かれて問う青馬様の前で、私は余りの羞恥に、何でもありませぬ、と慌てて手を振り、
「申し訳ございませぬ、斯様に情けなき姿をお見せしてしまいまして、どうぞお見逃しくださいませ。ただ裾を踏んで転んだだけなのです。」
そう言い訳して立ち上がろうと致しますと、
フワッ。
次の瞬間、何故か私の体が宙に浮いておりました。
(えっ?)
気付けば青馬様に抱き抱えられて、その大きく逞しい腕の中にすっぽり収まっておりました。
「青馬様!お、降ろしてくださいませ!私はただ転んだだけなのです。斯様に恐れ多き事、どうぞお許しくださいませ。」
「いいえ、姉上はまだ本調子では無いのです。どうかご無理なさらずに。少しは私に甘えてください。」
そう申されると、そのまま奥の寝所の扉を開けて、私を夜具にそっと降ろして掛布を掛けてくだされた。
「今宵はこのまま休みましょう。勇馬の弟妹は、残念ですが又日を改めて。少し年が離れておる位の方が、勇馬も可愛がるのではないですか?」
「ま、又そのような!!」
私は私の隣の夜具にするりと潜り込まれた青馬様を目で追いながらも、
(又姉上に戻っておる。)
と、心の中で苦笑致しておりました。




