第十五話【薔薇に封印された記憶】(一)
年末の時期で不穏な展開になっていくと仮面ライダーの展開を思い出します。
クリスマス間近の日曜日だったあの日の仮面ライダーエグゼイドのシーンは今でも忘れられません。
深く暗い中、明日香の意識は沈んでいく。
上下左右も分からない暗闇の中で、まるで底なし沼に入ったかの様な錯覚を覚える。
しかし明日香はそれに抗う方法を知らず、ただ流れるままに自身をその空間に委ねていた。
自分が今、何をしているのか。
自分が今、どこにいるのか。
考えても明日香の頭は動かず、何も分からないでいた。
ふと足元を見ると、下の方からぼんやりと仄かな明かりがゆらゆらと揺れている。それは今にも消えそうなぐらい小さなものだった。
あれは何だろう。近付けば何か分かるかもしれない。
試しに明日香は上半身を下に向け上下逆の逆立ちの体制をとろうとすると、まるで水中で体制を変えるようにいとも簡単に出来た。
もしやと思い手を水掻きのように動かせば下に向かって前進していく。水の中にいる訳でもないのに動きは泳ぎと一緒だった。
息もできるし水の抵抗もないが前には進める不思議な空間の中、明日香は下に向かって行った。
下に進んでいくとぼんやりとした明かりが徐々にはっきりと形を見せてくる。手が届きそうな距離まで近付いた明日香の目に映ったのは、一輪の赤い薔薇だった。
仄かに光を放ち、暗い空間にそれだけがぼうっと存在している。その幻想的な薔薇に明日香は何故か惹かれ、それを手に取った。
次の瞬間眩い光が放たれ、明日香は思わず目を瞑る。
白く眩しい光が明日香の目を覆い、明日香は光の中に飲み込まれて行った。
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ゆっくりと目を開けると、そこは清潔感の漂う白い部屋だった。
無機質だが温かみのあるカーテンとベッドとソファがあり、窓からは雲ひとつない空と太陽の光が部屋の中を照らしている。
「ほら、見てごらん」
どこか懐かしい、優しい男性の声を明日香の耳が捉える。声のする方へ向かうとベッドには少し疲れ気味の若い女性と、そのすぐそばに同じく若い男性が小さな少女の身体を持ち上げて何かを見せていた。
少女は高くなった目線から少し下にある透明な何かが入っているであろう入れ物の中を覗き込んでいる。
その様子を明日香は後ろから見ているが、誰も明日香には気付いていない。まるで明日香が見えていない様だった。
「ちっちゃいね……」
少女が少し遠慮がちに呟くと、男性と女性は微笑んだ。少女は戸惑いつつも、どこか嬉しそうな表情をしていた。
「このこが、あすかのいもうとなの?」
「そうだよ。名前は“さや”って言うんだ。お父さんとお母さんがこの子はどんな名前が良いか、いーっぱい考えて決めたんだぞ」
「あすかのなまえも?」
「そうだ。明日香の名前も明日香が産まれた時にお父さんとお母さんがいーっぱい考えて決めたんだ。お父さん達の大切な宝物だからな」
男性が少女に笑いかけると、あすかと呼ばれた少女もつられて笑い、もう一度入れ物の中を覗く。「さや……」と大切に噛み締めるように呟くと、中にいる赤子が僅かに動いた。
「沙夜が生まれて、明日香も今日からお姉ちゃんだな。これからお母さんとお父さんは、沙夜のお世話で忙しくなるけど、明日香にもお手伝い頼んでも良いかな?」
「うん! あすか、おねえちゃんだからさやのおせわいっぱいがんばる!」
「そうか、明日香はしっかりしてるからお父さんも心強いぞ。それじゃあそろそろ帰ろうか。お母さんまだ疲れてるから」
「わかった! おかあさん、あすかまたくるからさやとねんねしてげんきになってね」
少女がそう言って女性と赤子に手を振りながら、父親であろう男性と手を繋いで部屋を出て行く。二人は明日香のすぐ側を通ったが、とうとう明日香に気付くことは無かった。
(これは……沙夜が産まれた時の、私の記憶?)
明日香は出口のスライドドアを開けようとする少女の顔を改めて見る。明日香にとても良く似た容姿のその少女は、明日香の妹の沙夜にそっくりの笑顔だった。
二人が部屋を出た刹那、再び眩い光が放たれ、明日香は咄嗟に目を瞑る。またどこかに飛ばされるのかと明日香は身構えた。
光が収まり恐る恐る目を開くと、そこは先程とはまた違う場所だった。ソファの上では女性が寝息を立てており、その前にサイドテーブルとテレビがあり、少し離れた所にカウンター付きのキッチン、ダイニングテーブルと椅子がある。
一見普通の家のリビングルームの様だが、明日香はこの場所に見覚えがあった。
(ここ、もしかして前に住んでた私の家?)
明日香がそれに気付いた時、奥からがちゃりと何かが開く音がしてその直後、リビングのドアが勢いよく開け放たれた。
「おかあさんただいま! あのねあすかきょうのさんすうのテストひゃくてんだっ……」
先程見た少女より少し背が高くなった少女が、ピカピカの真新しい赤いランドセルを背負って勢いよく入ってくる。母親の姿が見当たらずキョロキョロと部屋の中を見回しソファで横になってる女性を見つけると、少女は心配そうに女性を伺った。
「おかあさんまたねてる。つかれてるのかな?」
少女が小さく呟いたその時、リビングの隣、ダイニングルームとは反対の場所にある和室から子どもの高い泣き声が聞こえてくる。少女はランドセルをソファにそっと下ろすと声がする方へ向かって行った。
「さや、おねえちゃんだよ。おひるねしてたの?」
「たーた! たーたないー!!」
「おかあさんいるよ。だいじょうぶだよ」
少女が赤子にしては少し大きい、しかし自分より小さい妹であろう子どもを抱き抱えようとおしりに手をかけたその時、手の感触に違和感を感じたのか少女は難しい表情で妹の顔を見た。
「さや、おしっこした?」
「ちっちしたー! ねーねちべたいー」
「うーんこまったなあ……あすかまださやのおむつはかえたことないんだよ……」
抱っこしてあやそうにも下腹部が重くて持ち上げられず、おむつを替えられる母親は疲れてるのか沙夜の泣き声を聞いても起きる気配は無い。
少女が妹の両脇を抱えながら戸惑っていると、とんとんと階段を降りてくる音がしてリビングのドアが開き、先程と似た容姿の男性がリビングに入ってきた。
「おかえり明日香。どうしたんだ?」
「おとうさんただいま! あのねさやがおしっこしたみたいなの。あすかまださやのおむつかえられないから……」
「ごめんごめん、沙夜が起きたんだね。お父さん仕事してて気付かなかった。おむつはお父さんが替えるから明日香はしなくて大丈夫だよ」
父親は少女を安心させるように頭を撫でながら、てきぱきと新しいおむつとウェットティッシュを取り出し妹のおむつを取り替えていく。新しいおむつをすると不快感が無くなったのか、妹がきゃっきゃと笑い出した。
「よし、これでもう大丈夫だ。明日香、お父さん仕事が一段落したからこれから夕飯の買い物に沙夜を連れて行くけど、一緒に行くかい?」
「いく! あすか、おとうさんのおてつだいする!」
「そうかそうか。じゃあお手伝いのお礼にお菓子も買ってあげるぞ」
「やったー! そしたらさやのすきなおかしかって!」
「明日香は優しいなあ。でも明日香が好きなお菓子で良いんだぞ?」
「いいの、あすか、さやといっしょにたべたいの!」
「分かった分かった。そしたらお母さんを起こさないようにそうっと行こうね。忍者になるよ」
「はーい」
父親が買い物袋とお財布を鞄に入れ、妹に上着を着せる。少女も自分の帽子を被ると一緒にリビングから出て行った。
明日香も後を着いていこうとドアノブに手をかけたが、それは明日香の手をすり抜けて掴めなかった。恐る恐る手を伸ばすと明日香の身体はドアをすり抜け、まるで透明人間になったようであった。
ここが記憶の中の世界だとしたら、何にも干渉されずに移動出来るのかもしれない。明日香はそのままドアをすり抜け、少女達の後を追った。
西日が目に直接当たって眩しい道を、父親がベビーカーを押しながら少女と歩く。少女がベビーカーの取っ手を掴みながら父親に話しかけた。
「ねえおとうさん、おかあさんはぐあいがわるいの?」
少し不安そうな顔で男性を見上げる少女の頭を父親が優しく撫でながら少女の話を聞く。
「それはどうしてそう思ったんだ?」
「だっていつもねてるんだもん。ぐあいがわるいからすぐつかれちゃうのかなって。いつげんきになるのかな?」
心配そうな少女の声を聞き、父親は暫し悩んだ末に言葉を選ぶように口を開いた。
「お母さんはね、今の明日香ぐらいの頃から、色んな人に痛い痛いをされてきたんだ。その時からお母さんの心はずーっと泣いてたんだよ」
「そうなの? おかあさんかわいそう」
「可哀想だけど本当なんだ。でももう大丈夫。お母さんをいじめる悪い人は、お父さんがやっつけたから」
やっつけたという言葉に、少女は眉をひそめた。
「やっつけた? おとうさんもいたいいたいことしたの?」
「違うよ。お母さんを連れてお母さんの事をいじめる悪い人達から、逃げてきたんだ。お母さんを守る為にね」
「そうだったんだ。だからおとうさんとおかあさんはなかよしなんだね」
少女の安心した声を聞き、父親は安堵のため息をこぼす。子どもに話すには少し難しい話ではあったが、どうやら分かりやすく伝えられたようだと思ったみたいだった。
父親はもう一度口を開く。
「でもね、お父さんがお母さんを助けるまで、お母さんはずーっと心が痛かったんだ。長い間心が痛い痛いだとね、大人になってもずっと痛いままなんだ。だからお母さんは疲れやすいんだよ」
「そうなの? そしたらおかあさん、もうげんきにならないの?」
「大丈夫。お父さんがいて、明日香と沙夜がいれば、ゆっくりだけどお母さんは元気になる。だから明日香はただ、お母さんのそばに居れば良いんだよ」
「わかった! あすか、おかあさんがはやくげんきになりますようにって、かみさまにいっぱいおねがいする!」
少女の母親を想う真っ直ぐな言葉を聞いて、父親はもう一度優しく少女を撫で、ゆっくりとベビーカーを押していく。ベビーカーの中の妹は揺れが心地よかったのかいつの間にか夢の中に旅立っていた。
あの時の父の言葉を、明日香は断片的に覚えていた。
確かに記憶の中の母はずっと、特に沙夜が産まれてからずっと元気が無かった。
仕事の他に家事や育児をしてたのも、明日香の記憶の中では殆ど父だけだったが、それには理由があったし、父もさほど負担では無かった様に思う。
それに明日香が学校に行ってる間、父が仕事をしてる間は母が沙夜の世話をしていたし、決して母が何もしてなかった訳では無かった。
他の家庭と違って母が少し元気が無かっただけ。それ以外は、ごく普通の家族で。普通の家族の幸せがそこにはあった。
(母さんは元気なかったけど、父さんが居たから精神的に安定してたんだな……)
明日香はかつて父と過ごした時の一種の幸せだった頃を思い出し、胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
明日香が父との思い出に浸っていたその時、再び眩い光が明日香を包み込んだ。父親と妹と仲睦まじく歩いている少女の姿は、その光の中に消えていった。




