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ポインセチア~幸福を祈る~ 3

 翌朝のコディは憔悴した表情だったが、俺の視線に気づくと明るい笑顔を無理やり作ってはしゃぐ。

 その利発さと優しさが哀しいが、止めろと言う方が追いつめてしまいそうだから、気づかないふりをした。

 宿を出て街道を歩き、昼過ぎにたどりついたのは、浅くなだらかな流れの川だった。

 川底では水中で花をつける水草の一種が満開だった。

「うわあ……!」

 コディは今日初めて本当の笑顔になって岸辺に駆けよる。

「すごいすごい、きれいだ……!」

 はしゃぐ勢いで川に入っていこうとするのを、あわてて腕を掴んで止める。

「水に入るならコートと靴を脱いで、ズボンの裾をめくれ」

「はい!」

 素直にうなずいたコディは、コートと靴を脱ぎ捨て、ズボンの裾を膝まで上げ、川に飛びこむ。

「エッジさん、見て!

 魚がいるよ!」

 楽しげに言う顔には先ほどまでの憂いはなく、内心安堵した。

 岸辺に座って、はしゃぐ様子を見守る。

 冬とはいえ、だいぶ南下しているし、今は気温も高いし日も出ているから、短時間なら水遊びをしても風邪を引くことはないだろう。

 何より、あの楽しそうな表情を止めたくない。

 しばらく遊んでようやく満足したのか、あがってきたコディの足をタオルで拭いてやる。

「ありがとう」

「ん。

 ……結局全部濡れたな」

「あ。

 ごめんなさい……」

 はしゃぎ過ぎたのか、めくりあげていたズボンの裾も、上のシャツも濡れていた。

 コディは濡れたシャツをぺらりとめくる。

「あ、下までは濡れてないです」

「なら、濡れたやつだけ脱げ」

「はーい」

 コディが脱いだシャツとズボンを、近くにあった大木の枝にひっかける。

 日差しがあるから乾くだろう。

 下着がわりに着せていた俺のシャツ一枚になったコディは、シャツの裾を広げてまじまじと見て、羨ましそうな表情で俺を見上げる。

「いいなあ。私もエッジさんぐらい大きくなりたいな」

 今のコディは、俺のシャツの裾が膝の高さになるほどの体格差がある。

 そういえば、子供の頃は小柄だったが、父親の屋敷に引き取られて剣の特訓をさせられるようになって、急激に背が伸びたと言っていた。

「……おまえも、そのうち大きくなる」

 十二歳になれれば、だが。

「そうですよね!」

 嬉しそうに言ったコディを、俺のマントでくるむ。

 裾が地面に着くほどだから、毛布がわりになるだろう。

「おっきーい!」

 コディは楽しそうに言って、マントを身体に巻きつけるようにする。

「寒くないか?」

「へーき!」

 元気よく答えて、座った俺の隣に座ったコディは、ころりと横になって、俺の脚にひっついてくる。

 楽しさの余韻を残した表情を、そのままにしておいてやりたいと思いながらも声をかけた。

「……コディ」

「はい」

 コディは身体を起こして俺を見る。

「なんですか?」

「……昨日、おまえは『大人になりたくない』と言ったな。

 その話の続きをしたいんだ。

 嫌な思いをさせてしまうかもしれないが、大切な話だから、聞いてほしい」

 コディは見る間に苦しそうな表情になってうつむき、それでもこくりとうなずいた。

「……はい」


 頭の中でもう一度考えをまとめて、なるべくわかりやすい言葉を選んでゆっくりと話す。

「……昨日の女が言っていたことは、全部が嘘でもない。

 大人になるということは、忘れていくことでもある。

 だが、忘れなければいけない、という意味じゃない。

 おぼえていたいなら、おぼえていていいんだ。

 好きでいたいなら、好きでいていいんだ。

 死んだ者を好きなままでもいいんだ。

 おまえの母親が……いつか、死んだとしても。

 今と同じように、好きなままでいいんだ」

 黙って聞いていたコディは、ゆっくりと顔を上げる。

「……好きなままで、いいの……?」

「ああ。

 話ができなくなっても、触れ合うことができなくなっても、顔や声をぼんやりとしか思い出せなくなっても、それでも、好きなままでいいんだ」

「……エッジさんも、そう、なの?」

 ためらいがちの問いかけは、親がもう死んだのかと聞くことになるからだろう。

 無意識に養父を思い浮かべていたことに気づいて、苦笑する。

「……ああ。

 俺の、父親は、十年以上前に死んだ。

 それでも、今でも好きだし、尊敬してる」

 以前は、思い出すだけで罪悪感に潰されそうになった。

 つらくなくなったのは、コディのおかげだ。

「……そう、なんだ……」

 再びうつむいたコディは、ぎゅっと手を握り合わせた。

 黙って見守っていると、うつむいたまま小さな声で言う。

「前に、母様に、『母様より好きな人が出来たら、教えてね』って、言われたんです。

 私は、『ずっと母様が一番好きだよ』って言ったけど、母様は、『いつかきっと、母様より好きな人に出逢えるわ』って……。

 母様より好きな人が出来ちゃったら、母様を好きでいちゃいけないの……?」

「……いいや。かまわない。

 家族への想いと、恋人への想いは別だ。

 母親を好きなままで、誰かを好きになるのは、いけないことじゃないんだ」

 貴族は政略結婚が基本だが、コディは平民に近い育ちだから、母親はいつか好きな男が出来るだろうと想定して話していたのだろう。

 もしかしたら、自分が政略結婚だったから、娘のコディには自由に恋愛をさせてやりたいと思っていたのかもしれない。

「…………」

 再び黙り込んだコディは、ちらりと視線を上げて俺を見て、またすぐにうつむく。

 何度かそれを繰り返した後、ようやく口を開く。

「誰かを好きになる、って、どういう感じですか……?」

 興味本位というよりは不安そうな問いかけに、どう答えればいいか悩む。

 子供の頃は、植物観察と母親が全てだったと以前言っていた。

 恋愛面の知識も経験もなさすぎて、『誰かを好きになる』ということ自体が理解できないのだろう。

 コディに告白されるまでは、俺も似たようなものだった。

「……そう、だな。

 そばにいると、つい目で追ってしまう。

 離れていると、何をしているか気になる。

 笑っていると安心して、哀しそうだと心配で、困っていると助けてやりたくなる。

 望むならなんだってしてやりたいと思う。

 ずっと一緒にいたいと、願ってしまう。

 そういう気持ちを、『好き』と言うんだろうと、思っている。

 ……ただ、これは俺の感じ方だから、おまえとは違うだろう。

 参考程度に考えてくれ」

「…………」

 コディはゆっくりと顔を上げ、ふるえるまなざしで俺を見た。

「……エッジさんには、そういう人が、いるの……?」

「……ああ」

 それはおまえだと、一生言えなくても、かまわない。

 俺を忘れたままだとしても、それが俺にとってどれほどつらいことでも、忘れることでコディが幸せになれるなら、かまわない。

 母親の死を受け入れられたなら、コディはこのまま改めて成長した方が、自分らしく生きていくことができる。

 そうなれば、俺を好きになることもないだろうが、それでもかまわない、いや、その方がいいと思えるほどに、愛しい。

「……そう、なんだ……」

 コディはじっと俺を見つめていたが、やがて強く目を閉じてうつむいた。

「……うらやましいな……」

 小さな声で、つぶやくように言う。

「エッジさんに、好きになってもらえる人が、うらやましい……」

「……おまえも、いつか見つけられる。

 一緒にいるだけで幸せだと思える相手が、きっと見つかる」

 コディはびくりと肩を震わせた。

 顔を上げ、目を見開いて俺を見上げる。

「……一緒に、いるだけで……?」

「ああ」

「……だったら……」

 見開かれた瞳から涙があふれた。

「……私は、私にとっては、それは、エッジさんなんだ」

 涙をこぼしながら、コディははかなく笑う。

「一緒に旅をしたことは、忘れちゃったけど、この数日だけでも、エッジさんが優しい人なのは、わかったよ。

 いつでもそばにいてくれて、私を守ってくれた。

 ずっと一緒にいたいって、思ったよ」

 思いがけない言葉に呆然と見つめると、コディはゆっくりとうつむく。

「……エッジさんに、好きなひとがいても、私がエッジさんを好きだと思うのは、かまわないよね……?」

「……っ」

 あふれる想いを抑えきれず、強く抱きしめた。

「……俺が好きなのはおまえだ」

 腕の中で小さな身体がびくりと強張る。

「一緒にいて幸せだと思えるのは、おまえだけだ……!」

「……ほん、と……?」

 おそるおそる言われた言葉に強くうなずく。

「ああ。本当だ」

 コディは濡れた瞳で俺を見上げ、ふわりと笑った。

「うれしい……」

 ふいに銀青色(ぎんせいしょく)の光がはじけた。

 魔法の光がコディの全身を包み、その輪郭を融かす。

「!?」

 細く頼りなかった手足がすんなりと伸び、見慣れた姿を形作っていく。

「コディ……!」

 始まりと同じように突然光が消えた。

 倒れこんできた身体を抱きしめる。

 腕になじんだ重さに、深く安堵の息をついた。


☆☆☆☆☆☆☆


 コディを抱えなおし、頬をそっと撫でると、ゆっくりと目が開いた。

「……気分は?

 どこか苦しいところはあるか?」

 魔法は解けたようだが、もともと意図しない作用だったのだ。

 なんらかの後遺症が残ってしまう可能性もある。

「……別に、どこも……」

 ぼんやりと答えて、コディは不思議そうに俺を見上げる。

「……エッジさん、どうして……?

 私、お婆さんに魔法を……」

 視線を巡らせて、きょとんとする。

「……ここ、どこ?」

 どうやら魔法を受けた後のことはおぼえていないようだが、それ以前のことは記憶に残っているようだ。

 内心ほっとしながらも、どう話したものか悩む。

「オールドランドの国境近くだ」

「国境近く?」

「……とりあえず、服を着ろ」

 俺のマントとシャツでぎりぎり太腿の半ばまで隠れているが、際どい状態なのには変わりない。

「え?」

 コディはきょとんとした表情のまま自分の身体を見回して、さらに首をかしげる。

「私、どうしてシャツ一枚なの?」

「……とにかく、服を着ろ」

「うん」


 コディが服を着ている間に思案する。

 よけいなことは言わない方がいいだろう。

「……俺が今まで何度かおまえに魔法を使ったせいで、あの婆さんの魔法が変に作用して、おまえは一時的に身体も心も十一歳になってたんだ」

「十一歳に?」

「ああ。

 だがそれ以外には特に問題なかったから、旅を続けてここまで来たら、魔法が解けて元に戻ったんだ」

「……はあ……」

 訝し気に聞いていたコディは、しばらく考え込んでいたが、ふいにうつむく。

「……思い出した。

 あの時、お婆さんは【今までで一番幸せだと思った記憶を思い出す】魔法だって言ったんだ」

「らしいな」

「……それで、私、十一歳に、なっちゃったんだよね」

「ああ」

「……ごめんなさい……」

「おまえが悪いんじゃねえよ」

 俺が何度もコディに魔法を使っていなければ、おそらくあんなことにはならなかったはずだ。

 そういう意味では、悪いのは俺だ。

「ごめんなさい、私……」

 途切れた言葉を不思議に思って見つめると、うつむいたままのコディの頬をつたって雫が落ちた。

「……どうした?」

 思わず手を伸ばして頬に触れると、びくりと揺れる。

「ごめんなさい、私、エッジさんが、好きなのに……っ」

「……何がだ?」

 意味がわからないながらも、あふれる涙を見ていられなくて、そっと拭おうとしたが、コディは俺の手を避けるように身体を引く。

「コディ」

「……エッジさんが、私のこと好きだって言ってくれたの、すごく嬉しかった。

 旅ができるのも嬉しくて、一緒にいられるだけで幸せだって、いつも思ってた。

 だけど、……私、十一歳に、なってしまった……。

 ごめんなさい……」

 涙まじりの声に、コディが何を気にしているのかようやく理解する。

 【一番幸せだと思った記憶】が、俺と出会う前の十一歳の時だったことを申し訳ないと思っているのだ。

「謝らなくていい」

 コディが俺といて幸せだと言った言葉を疑ってはいない。

 だからといって『一番幸せ』だと自惚れられるほど、コディの心の傷の深さを知らないわけでもない。

「……泣くな」

 そっと抱きしめて、震える背をゆっくりと撫でる。

「十二歳からのおまえがどれだけつらかったか、俺は知ってる。

 だから、謝らなくていい」

 母親と引き離され、父親の屋敷に軟禁され、近衛騎士になるよう強要された。

 好きなことを全て諦めて、自分を捨てて必死に訓練して騎士になった。

 そこまでして守りたかった母親は、とっくに死んでいた。

 俺が養父を目の前で喪ったことが心の傷になっているように、コディも母親を独りで死なせてしまったことが心の傷になっている。

 コディと一緒にいてどんなに幸せだと感じても、心の奥底でその傷がうずくのだ。

 傷がない前の状態には、決して戻れない。

 だからこそ、コディにとって『一番幸せだった頃』は、十一歳だったのだと、理解している。

「おまえが俺と一緒にいて、ほんの少しでも幸せだと思ってくれるなら、それで充分だ」

 コディは泣きじゃくりながら首を横に振る。

「……少しじゃ、ない、すごく、幸せ、だよ。

 でも……っ」

「わーってる。

 十九年間ずっと好きな母親と、出逢って一年も経ってない俺では、比べ物にならなくて当然だ。

 ……もし俺があの老婆の魔法を受けていたら、思い出すのはおそらく物心つく前、自分が魔法者だということの意味すら理解できなかった頃だろう。

 おまえは何も悪くない。

 だから、泣くな……」

 何度も繰り返しながら、止まらない涙を拭う。

 俺の魔法は【交わった相手の完全治癒】だが、心の傷までは癒せない。

 せめてそれ以上その傷が深くならないよう、思い出さずにいられるよう、願うことぐらいしかできない。

「コディ。

 どんなにつらくても、過去は変わらねえ。

 変えることはできねえ。

 だからこそ、幸せな思い出を作っていこう。

 そうすればいつかは、幸せな思い出がつらい過去の記憶を覆い隠してくれる」

 完全に忘れることはできなくても、思い出す回数が減るだけでも楽になれる。

 そうやって、少しずつ遠いものにしていけばいい。

 コディと出逢ってから、そう思えるようになった。

「ずっとそばにいるから。

 一緒に、幸せな思い出を作っていこう」

 コディはゆっくりと顔を上げ、ようやく涙が止まった瞳で俺を見つめる。

「……うん。ありがとう……」

 かすかな笑みを浮かべたコディを、しっかりと抱きしめた。

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