エリカ~裏切り~ 2
顔に雫が当たる感触に目を開く。
歪んだ視界の中を、天から降る水滴が横切る。
雪が混じっているのか、一粒が大きい。
しばらくぼんやりと考えて、ようやく思い出す。
エリカさんの店の裏口から飛び出した勢いのまま町を出て、町外れの森の中を歩いていて、足を滑らせて崖から落ちたのだ。
視線を巡らせれば、上の方に崖が見えた。
垂直に近い険しさで、高さもあり、とうていよじ登れそうにない。
それ以前にひどく身体が重く、動けなかった。
あちこちが痛んだが、それよりもなお、心が痛かった。
ふいに、エッジさんの友達のオーエンさんに会った時のことを思い出す。
胸が小さいと口々に言われておちこんだら、気にするなとエッジさんに慰められた。
あの時、『言われた相手がエッジさんだったら立ち直れなかっただろうが、そうではないのだから、気にする必要はない』と思った。
エッジさんに、はっきり言われたわけではない。
だが、二人きりになった途端にエリカさんを選んだなら。
エリカさんの言う通り、私のような小娘ではダメだったということなのだろう。
「…………」
動く気になれず、ぼんやりとしているうちに日が落ちて暗くなっていく。
雪混じりの雨はやんでいたが、感覚が麻痺してきたのか、寒さも感じない。
このままでいたら、死ねるだろうか。
死んだら、この心の痛みから解放されるだろうか。
そんなことを思った時、視界の端を何かがよぎった。
松明の明かりだ。
「コディ!」
悲鳴のような声に、びくりと身体が震える。
松明をかかげたエッジさんが、崖の上から身を乗り出していた。
私を見て顔色を変え、落ちる勢いで崖を滑り降りてくる。
「しっかりしろ」
松明を横に置いて、そっと抱え起こしてくれる。
とたんにあちこちが痛んだが、気にする余裕はなかった。
「なん、で……」
エリカさんを、選んだはずなのに。
なぜ助けに来てくれたのだろう。
「遅くなって悪かった……」
苦しそうに言いながら抱き上げられて運ばれ、雨のかからない大木の幹によりかかるように座らされた。
戻って松明を持ってきたエッジさんは、私の横に膝を付いて私の身体を見回す。
「……右手の傷が一番ひどいな。
動かせるか」
言われて視線を向けると、コートの袖が肘の下あたりから裂けて、赤く染まっていた。
切れたというよりえぐられたような傷だった。
崖から落ちる時に、突き出した岩にひっかけたのだろうか。
他人事のように考えていると、慎重な手つきで右手を支えて持ち上げられる。
エッジさんは迷う表情で私を見てから、どこからともなく水筒を取り出した。
「少ししみるが、我慢しろよ」
傷口に水をかけられた途端、鋭い痛みが走った。
思わず顔をしかめる。
「我慢してくれ」
エッジさんは繰り返し言いながら傷口を洗い、傷薬を塗り、包帯を巻いてくれる。
奇妙な違和感がよぎったが、それが何かわからない。
痛みから逃れるように考え続けて、ようやく理由がわかった途端、自嘲の笑みが浮かんだ。
これぐらいひどい怪我をした時は、エッジさんはいつも魔法を使って治してくれた。
だから、手当てされることに違和感があったのだ。
だが、エッジさんの魔法に伴う行為は、本来は想い合う同士がすることだ。
あのひとを好きな今は、私に魔法を使ってくれるはずがない。
それでも手当てしてくれるのは、最後の優しさ、なのだろうか。
右手に続いて、左足の脛と、頬の傷も手当てされる。
痛みはおさまったが、頭はぼんやりしたままで、考えがまとまらない。
「……他に痛むところはあるか?」
問いかけに、うつむいて小さく首を横に振る。
「そうか。
……夜道は危険だし、雨で滑りやすくなってるから、朝になってから移動しよう」
「……?」
手当てだけでも十分なのに、どうして。
ああ、そうか。
優しすぎるエッジさんは、私を見捨てられないのか。
私が、はっきり言わなくては。
「もう、いいです」
「……何がだ」
うつむいたまま言うと、とまどうような声が返る。
「護衛は、ここまででいいです。
今まで、ありがとうございました」
「…………」
「預けてたお金は、今までの報酬として受け取ってください」
「……………………」
重く長い沈黙の後で、ため息が聞こえた。
「……わーった。
だがせめて宿まで送らせてくれ」
「いいです」
「コディ」
「ひとりに、なりたいんです」
このまま一緒にいたら、エッジさんの優しさにつけこんで、すがってしまいそうだった。
動かせる左手を、エッジさんに伸ばしてしまいそうになって、強く拳に握る。
「ひとりに、してください」
「……わかった」
エッジさんは静かに言って身体を起こす。
そのまま離れていく足音を、うつむいたまま聞いていた。
☆☆☆☆☆☆☆
足音が消えてしばらく経ってから、自分の横に松明が残されていることに気づく。
「あ……」
思わずエッジさんが歩いていった方向に目を向けたが、闇しか見えなかった。
エッジさんは私より夜目が利くが、大丈夫だろうか。
「……っ」
丁寧に包帯を巻かれた右手を見つめていると、涙があふれてきた。
「ごめんなさい……」
最後の最後まで、迷惑をかけてしまった。
自分が情けなくて悔しくて哀しくて、このまま死んでしまいたかった。
「ごめんなさい……」
あふれる涙を拭うことすらできず泣き続けていると、頭上で固い音がした。
びくりとして顔を上げると、頭のすぐ上の幹に見慣れた細身のナイフが刺さっていた。
「ぇ……?」
その先には蛇がいた。
頭を貫かれているのにまだ動いている。
独特の赤い縞がある、猛毒を持つ蛇だ。
思わずあたりを見回す。
「エッジ、さん……?」
そんなはずはない。
もう行ってしまったはずだ。
あのひとのところへ、帰ったはずだ。
だがこのナイフは、間違いなくエッジさんのものだ。
「……いる、の……?」
ナイフが飛んできた方角を見ても、相変わらず闇しかない。
強張った身体をなんとか動かして、左手を幹について立ち上がろうとする。
だが膝に力が入らず、かくりと崩れて、前のめりに倒れた。
「あ……っ」
思わず右手をつこうとして、新たな痛みが走って視界がくらむ。
そのまま地面に倒れこむはずが、しっかりと身体を支えられた。
「無理に動くな」
座らせようとしてくれる腕を必死に掴む。
「どう、して……?」
見上げると、エッジさんは気まずそうな表情で視線をそらした。
「どうして、助けてくれるの……?
どうして、帰らなかったの?」
あのひとが、待っているはずなのに。
「……そんな状態のおまえを一人に出来るわけねえだろ」
「……エッジさんが守りたいのは、……守るべきなのは、もう、私じゃ、ないでしょ……?」
「…………」
「あのひとが、いるのに、もう、……私のことなんか、好きじゃないくせに、……優しくしないで……!」
つらくて哀しくて苦しくて、心のどこかが壊れていく。
「私なんか、死んだってかまわないのに。
いっそ死んだ方がいいのに。
エッジさんだって、ほんとは、そう思って」
「コディ」
静かな強い声に呼ばれて、びくりと震える。
「俺は、おまえが死んだ方がいいと思ったことなど一度もねえ」
真摯な声が、よけい苦しかった。
うつむくと、ぽたぽたと涙が落ちる。
「……ずるいよ……。
もうそばにいてくれないなら、優しくしないで。
守ったりしないで。
つきはなしてくれたほうがマシだよ……」
「……おまえが俺を赦せねえのは当然だ。
嫌っても憎んでもいい。
だが……自分で自分を傷つけるようなことはしないでくれ……」
苦しそうな声に思わず顔を上げると、エッジさんは声と同じような、苦しそうな表情で私を見ていた。
「……どうして、まだ優しくしてくれるの……?
エッジさんは、……あのひとが、好きなんでしょう……?」
「違う」
きっぱりと言われて驚く。
「……でも、……だって、エッジさん、あのひとと……」
エッジさんは、過去のつらい出来事のせいで、触れるのも触れられるのも苦手だ。
だからこそ、あのひとと抱き合って、キスしているのを見て、あのひとを好きになったのだと思った。
なのに、何が違うのだろう。
エッジさんは元々口数が少ないし、長い間一人でいたから、自分の気持ちを言葉にするのは苦手らしい。
私と一緒にいるようになって、『伝える』ことの大事さがわかったと、以前言ってくれた。
それでも私は、いまだにエッジさんの想いを汲み取るのが苦手だ。
エッジさんは、私自身が気づかないような変化でも気づいてくれるのに。
私は、エッジさんの何を、見落としてしまったのだろう。
左手の袖で目元を拭い、深呼吸して気持ちを鎮める。
「……エッジさん。
ほんとに、あのひとが、好きなんじゃ、ないの……?」
「ああ」
「じゃあ、どうして、……抱き合ってたの……?」
「…………」
エッジさんは苦しげな表情のまま目をそらす。
「お願い……教えて」
じっと見つめて待っていると、エッジさんは深くため息をついて、苦い声で言った。
「…………あの時、俺にはあの女がおまえに見えてたんだ」
「え」
「……最初は、あの女に見えていた。
だが途中から、姿がおまえに変わって見えた。
何かおかしいと思いながら、おまえの気配はしていたから、ねだられるままに抱きしめて、……くちづけた。
だがその後おまえの気配が離れていって、違うとわかった」
エッジさんは、姿が見えなくても気配がわかる。
私が店の奥にいたから、逆に惑わされてしまったのか。
「でも……なんで……」
「……焚いていた香に、幻覚を見せて暗示をかける成分が含まれていた」
「あ……」
あのお香は、その為だったのか。
「あの女を問いつめたら、いつもそうやって、なびかない相手を香で惑わして、くどいていたと言っていた」
「そう、だったんだ……」
あのひとは、最初からそのつもりで準備していたのだ。
相手を惑わせて、それを見せつけて、別れさせるということを、いつもやっていたのだろう。
「……だが、おまえを裏切ってしまったことには違いねえ」
つらそうな声に、首をかしげる。
「裏切り……?」
「……おまえだけを好きだと言いながら、絶対に守ると言いながら、簡単に惑わされて、おまえの心も身体も傷つけた。
だから、おまえに嫌われてもしょうがねえ」
懺悔するような苦悩に満ちた声に、首を横に振る。
「嫌ってなんてないよ。
私、エッジさんがあのひとを好きなんだと思ったから、だから……」
「違う。
俺が好きなのはおまえだ」
「……でも、私なんかじゃ、エッジさんにはつりあわないから。
あのひと、きれいだし、胸もお尻も大きいし、女らしい人だもん。
あのひとと私と、どっちがいいかって聞かれたら、きっと誰だってあのひとを選ぶよ……」
声が震えて、思わずうつむいてしまう。
「すべての奴があの女を選んだとしても、俺は、おまえを選ぶ」
きっぱりとした声がかえって苦しくて、また涙がこぼれた。
「ごめんなさい……」
「……コディ」
「……私、エッジさんより、あのひとの言葉を信じてしまった。
ごめんなさい……っ」
確かめるのが怖かった。
私よりあのひとがいいと、はっきり言われたら、きっとつらくて死んでしまうと思った。
だから、あのひとの言葉を信じてしまった。
エッジさんは、いつも私に言葉や気持ちをくれたのに。
「……エッジさんを、信じきれなかった……。
私が、私の方が、エッジさんを、裏切ってしまった。
ごめんなさい……」
情けなくて悔しくて、うつむいて泣きじゃくっていると、そっと頬を撫でられた。
「泣くな。
おまえが悪いんじゃねえ。
俺が悪いんだ」
「ちがう、私が悪い、ごめんなさい……」
「泣くな……」
何度も何度も囁きながら、優しく涙を拭ってくれるのがよけい苦しくて、涙が止まらない。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「……コディ。
聞いてくれ。
おまえが俺を裏切ったと言うなら、俺もおまえを裏切っちまった。
お互い一つずつ悪いってことにしねえか」
「え……?」
優しい声にとまどって見上げると、エッジさんは今までと同じ優しいまなざしで私を見ていた。
「俺が悪かった。
……おまえも悪かった。
だから、貸し借りなしだ」
「……でも……」
「……やっぱり、俺を許せねえか?」
哀しそうな声に、あわてて首を横に振る。
「違う、そうじゃなくて、……本当に、私で、いいの……?」
おそるおそる言うと、エッジさんははっきりとうなずく。
「おまえが、いいんだ」
「……わた、しも……」
優しい言葉が嬉しくて、涙をこぼしながらすがりつくと、柔らかく抱きしめてくれる。
「私も、エッジさんが、いい。
エッジさんじゃなきゃ、いやだ」
「なら、これからも俺のそばにいてくれ」
「……うん」




