ノギク~守護~ 1
誕生日の翌日、私は急に熱が出て寝込んでしまった。
旅の疲れが出たのだろうとお医者様には言われたが、母様の墓の前で思いきり泣いたことで気が緩んだせいもあったと思う。
母様の死を知って一年以上経ってもずっと泣けずにいたが、ようやく泣くことができた。
父の屋敷にも近衛騎士の寮にも味方がいなかったから、ずっと気を張っていたのだと、今になって自覚した。
熱は数日で下がったが、エッジさんとばあや達に身体を休めてほしいと懇願されたから、夏の間は屋敷にいることにした。
私の休養にエッジさんを付き合わせるのは申し訳なかったが、かえって都合がいいと言われた。
エッジさんは灰色の髪と目を隠す為に外では常にマントのフードをかぶっているが、夏場にマントはかえって目立つし、暑い。
昨年までは、夏場は同じような髪の色の人達がいる北方の国を旅していたそうだ。
『ここは涼しいし、屋敷の中で過ごせば人目を気にしなくていいから、助かる』と、優しく笑ってくれた。
こども時代の幸せな思い出が残る屋敷で、私を愛してくれる人達と過ごす時間は、私の心身の疲れをゆっくりと癒してくれた。
こんなにくつろげたのは六年ぶりだ。
母様がいないことは哀しいが、かわりにエッジさんが常にそばにいて、甘やかしてくれた。
ますますエッジさんを好きになった。
年上で、好きな人で、剣の師で、守ってもらっていて、お世話になりっぱなしだから、どうしても遠慮してしまう部分があったが、エッジさんに望まれたこともあり、少しずつ砕けた口調で話すようになった。
剣の稽古の時だけは、いまだに戻ってしまうが。
身体が鈍らないように、涼しい早朝に剣の稽古や散歩をしていたが、日中は本を読んだり一緒に昼寝をしたり話をしたりして、のんびりすごした。
エッジさんは、お養父さまの墓参りをしてアトリーさんと酒を飲みかわして、過去のわだかまりが多少は薄れたのか、自分のことを少しだが話してくれるようになった。
十一年前、王都から追放された後は、数年間傭兵として働いていたそうだ。
この国や周辺国は長年同盟を組んでいて平和だが、南の方へ行くと内戦や小競り合いをしている国が多く、戦場を転々としてひたすら戦い続けたという。
お養父さまを目の前で喪った心の傷が深すぎて、その憎しみと哀しみを敵にぶつけていたのだろう。
あの凄まじい殺気も、無駄のない剣技も、戦場で身についたものだった。
それが、少し哀しい。
【エド】という愛称も、家名も、教えてもらった。
魔法を使う為とはいえ、家族にも秘密にする真名を愛称より先に教えてもらっていたことに気づいて、二人して笑った。
せっかく教えてもらえたが、人前では出来る限り愛称を呼ばないようにしてくれと言われた。
黒い髪と目の者がほとんどのこの国では、灰色の髪は目立っていただろうから、十年以上経ってもまだエッジさんをおぼえている人もいるはずだ。
貴族は、ほんのわずかなことでも相手を攻撃する材料にする。
お尋ね者ではなくなっても、自分の存在が縁戚に当たるアトリーさんの迷惑にならないようにしたいのだろう。
私はあまり頭が良くない自覚があるから、二人だけの時は愛称で、他の人がいる時は通称で、と器用に切り替えられる自信がない。
そう正直に話して、今まで通り【エッジさん】と呼ばせてほしいとお願いした。
エッジさんは『面倒かけてすまねえ』と苦笑いして、受け入れてくれた。
今までどんな名前で呼ばれていたのかも、教えてもらった。
【エッジ】という通称は、迷い森に住むアンさんが付けたということは、以前アンさんの家に滞在している時に、アンさん本人から聞いていた。
『鋼のような色の髪なのと、刃のような鋭い雰囲気からの思いつきだけど、結構合ってると思わない?』と言われて、深くうなずいた。
ふとそれを思い出して、他になんと呼ばれていたのか聞いてみた。
エッジさんのような流れの傭兵や兵士崩れは、たいていワケありで名前を隠していることが多いから、まわりも名前を尋ねずに適当な呼び方をするらしい。
エッジさんは、髪の色にちなんで【灰色の旦那】とか、北方の国の人に多い髪の色だから【北の兄さん】とか、人前ではずっとフードをかぶっていたから【フードの旦那】とか、呼ばれていたそうだ。
『旦那』や『兄さん』は、酒場の店主が客の男性に呼びかける時によく使う敬称だ。
私がエッジさんを紹介してもらった時の酒場の店主も『エッジの旦那』と呼んでいた。
エッジさんは今年で二十九歳だから、『旦那』より『兄さん』のはずだが、髪と髭の色が白っぽいせいで年齢よりだいぶ上に見られていたようだ。
家名も愛称も隠したかったから、適当に付けられた呼び名をそのまま受け入れていたが、二年ほど前に、同じような呼ばれ方をしていた人と間違われてその人が起こした騒動の責任を取らされそうになったことから、【エッジ】と名乗るようになったそうだ。
エッジさんの素顔を、初めて見せてもらった。
私が伸びてきた髪をばあやに切ってもらった時に、ついでにエッジさんにも散髪を勧めたら、『人に切られるのはおちつかないから』と自分で切っていた。
今までずっと自分でやっていたから慣れているらしいが、鏡を見ないでナイフでガタつきもなく切りそろえていて、器用だと感心した。
その時『髭のない顔を見てみたい』となにげなく言ったら、本当に髭を剃ってくれた。
長い前髪と口のまわりを覆う無精髭に隠されていた顔は、驚くほどに整っていた。
髭があると三十代半ばに見えていたが、髭がないと実年齢より若く見えた。
貴族の男性に多い華やかな雰囲気とは真逆の怜悧な印象で、鋼色の髪と目の色がよけい冷たい雰囲気を醸し出している。
それが私を見て微笑むと柔らかにほどけて、なぜかものすごく恥ずかしくなった。
しばらく目を合わせられずにいたら、エッジさんはまた髭を伸ばし始めた。
『ないとおちつかねえから』と言っていたが、おそらく私が照れてしまうことに気づいたからだろう。
あのままだったらまともに顔を見られなかったから、内心ほっとした。
夜に寝る時以外はほとんどずっとエッジさんと一緒にいたが、夜を共にしたのは、夏の終わりの一度だけだった。
正直に言えば、私はいまだに恋愛小説で見かける『好きだから抱かれたい』という感情がわからない。
エッジさんを好きだし、一緒にいたいと思うが、抱きしめられたり触れるだけのキスをしてもらえるだけで、十分幸せだった。
恋情は感じるが、欲情は感じない。
だが、恋人同士なら心も身体も求め合うものだと、ばあやに渡された恋愛小説に書かれていた。
今までに魔法を使う為以外で抱かれたのは一度だけで、それは私から求めたことだが、私の気持ちをエッジさんに理解してもらう為だった。
エッジさんにとっては嫌なことだと知っているし、もう二度と無理強いはしたくない。
そう思いながらも、『恋人同士なら』と言われると、気になってしまう。
本に書かれているぐらいだから、世間の人には当然のことなのだろうが、知識も経験もほとんどない私には、どうするのが正解なのかわからない。
ぐるぐると悩んでいたのをエッジさんに気づかれて問いつめられ、結局全部話してしまった。
エッジさんは、困ったような顔でしばらく黙っていたが、『お互いが納得してるなら恋人同士でもしなくていいと思うが、あの時は場所も状況も心理的にも極限状態で、優しくできなかったから、やり直させてほしい』と言った。
私は十分優しくしてもらったと思っていたから、気にしないでほしいと断ろうとしたが、せつないまなざしで『頼む』と言われて、結局うなずいた。
私の部屋の向かいがばあやの部屋で、もし声が聞こえたら恥ずかしいから、ばあやに寝る前の挨拶をしてから、こっそりエッジさんが使っている客間へ行った。
言葉通りあの時の何倍も優しく抱かれて、甘い声で『好きだ』と何度も囁かれて、身体も心もとろけてしまった。
身体だけでなく、心の一番深いところで繋がれたように感じた。
エッジさんにそう伝えたら、『俺もそう感じた』と言われて、嬉しかった。
身体と心で繋がりたいと思うことが欲情なのだとしたら、理解できた気がした。
終わったら自分の部屋に戻って眠るつもりだったが、離れがたくて、エッジさんもそう言ってくれたから、エッジさんに抱きしめられて朝まで眠った。
目を覚ますと、エッジさんがなぜか複雑そうな表情をしていた。
早朝にドアの外から『置いときますね』とばあやの声がして、見にいったらドアの前に濡れタオル数枚と私の着替え一式が置いてあったそうだ。
ばあやに気づかれる前に部屋に戻ろうと思っていたのに、とっくにバレていた。
身支度を終えて二人で食堂に行くと、ばあやが笑顔で出迎えて、朝食を出してくれた。
ばあやは、具体的なことは何も言わなかったが、終始にこにこされて、無性に恥ずかしかった。
☆☆☆☆☆☆☆
夏が終わり、秋になってだいぶ涼しくなったから、再び旅に出ることにした。
ばあや達は屋敷に定住してほしいと思っているようだし、いずれはそうするつもりだが、六年間自分を捨てて生きてきたから、後一年ぐらいは自分のやりたいことをしたかった。
エッジさんは理解してくれて、『おまえの好きなようにしろ』と言ってくれた。
ふたりで地図を見て相談し、今度は雪の中で咲く花を見に北へ旅することにした。
このあたりは真冬でも暖かいから、私は雪を見たことがない。
花もだが、雪を見ること自体が楽しみだ。
まずは王都に寄って、アトリーさんに挨拶してから、街道を北上する。
半分は観光も兼ねているから、最短距離ではなく行きたい場所を中心に街道を選ぶ。
最初の見どころは、ビッグリバーの川渡りだ。
ビッグリバーは、その名の通りとても大きな川で、流れが速いうえにしょっちゅう洪水が起きるから、橋が掛けられないらしい。
だから旅人は、渡し人と呼ばれる労働者達がかつぐ板の輿に乗って川を渡る。
エッジさんからそう聞いて楽しみにしていたが、渡し場近くの宿に着いた翌日から二日続けて本降りの雨で、渡ることができなかった。
宿の中でできることは限られている。
服の繕いも荷物の整理も、昨日のうちにやりつくしてしまった。
それでも、エッジさんが一緒だから、退屈はしなかった。
夕食の後、酒場のカウンターで並んで座って、エッジさんは酒を、私は果汁を飲む。
雨による足止めが続いたせいで宿は満室で、酒場は大勢の人で騒がしい。
エッジさんに身体を寄せて、耳元で囁いた。
「エッジさん。何か話を聞かせて」
こくりと酒を飲んだエッジさんは、マントのフードの下で目元を緩ませて私を見た。
「何の話がいい?」
「えーと、あ、そうだ。
今まで出遭った中で、一番大きい動物って何?」
「ツキノワグマだな。
俺より二周りはでかかった」
「そんなに大きいんだ。すごいな。
どこで出遭ったの?」
「ここよりもっと北の、山の中だ」
エッジさんの話はわかりやすいし、低くて少し渋い声は聞いていて心地いい。
のんびりと話をしていて、ふと気づく。
「最近あんまり飲まなくなったね」
果実酒の湯割りでも酔ってしまう私と違って、エッジさんは酒に強い。
出会った当初は、強い酒を何杯も続けて飲んでいて、それでも悪酔いも二日酔いもしないことに感心していた。
だが最近は一杯か二杯ぐらいで、それも比較的薄めのものだ。
思い返してみれば、私の屋敷にいた時も、あまり飲んでいなかった。
エッジさんはちらっと私を見て苦笑する。
「おまえがいるからな」
静かな声に、胸の奥が痛んだ。
「……ごめんなさい……」
エッジさん一人なら問題なくても、私が一緒だから、私を守る為に、酔わないようにしてくれているのか。
迷惑をかけたくないと、いつも思う。
迷惑なんかじゃないと、いつも言ってくれる。
だが結局、いつでも迷惑かけてしまっている。
そんな自分が情けなくて、涙が出そうになるのを必死にこらえる。
「……私、部屋に戻るね。
エッジさんが来るまで部屋から出ないから、私のこと気にしないで、ゆっくり飲んで」
うつむいたまま言って立ち上がろうとしたが、それより早く腕を掴まれた。
「違う。そういう意味じゃねえ」
優しい力で引き寄せられて、浮かせた腰を椅子におろす。
「何があってもおまえを守れるように、酔っぱらうわけにはいかねえってのもあるが、今は、おまえがそばにいてくれるから、酒でまぎらわさねえで済んでるんだ」
思わず顔を上げると、エッジさんはフードの下で優しく微笑んでいた。
「おまえのおかげだ。……ありがとう」
私には見せないようにしてくれているが、エッジさんの心の奥底には、闇が沈んでいる。
私に教えてくれた表面的な話からでも推測できるそれは、本当はもっと深く昏いのだろう。
強い酒でまぎらわさなければ耐えられないほどのその哀しい闇を、ほんの少しでも薄める手伝いができているのなら、嬉しい。
「……私、エッジさんが、好きだよ」
想いが伝わるように、きゅっと手を握ると、しっかりと握り返してくれた。
「俺も、おまえが好きだ」
☆☆☆☆☆☆☆
翌朝は快晴だったが、渡し場に行ってみると、昨日と同じように通行止めの札が立てられていた。
「雨はやんだのに、どうしてダメなんだろう」
「長雨のせいで水量が増えてるからな。
やんでからも、しばらくは水が引かねえんだ」
言われて川をよく見ると、確かに水量はかなり多かった。
泥色の水の勢いは速く、時折太い木の枝なども流れてきて、危険そうだ。
「昼ぐらいには引くと思うが……」
「……何?」
「……いや。戻るぞ」
「あ、うん」
宿の一階の酒場に入ると、四人掛けのテーブルで食事をしていたミラちゃんが椅子を下りて駆け寄ってきた。
「もうわたれるの?」
同じように足止めされているうちに仲良くなった子だ。
もうすぐ七つだという。
母親と二人で、川を渡った先の町に出稼ぎに行っている父親に会いにいくところなのだそうだ。
「ううん。まだダメみたい」
しゃがんで目線を合わせて言うと、ミラちゃんは拗ねたように唇をとがらせる。
「あめ、やんだのに」
「そうだね。
でもまだ危ないんだって」
「じゃあ、いつになったらわたれるの?」
ミラちゃんの母親のザラさんが笑う。
「ミラ、しょうがないのよ。
もう少し待ちましょうね」
「……うん」
手招きされて、ミラちゃんは不満そうな顔をしながらもザラさんのそばに戻り、ぎゅっと抱きついた。
ザラさんはミラちゃんの髪を撫でながら私を見る。
「今日中に渡れそうにないんですか?」
「昼頃には水も引くらしいんですけど……」
「そうですか……正直こんなに待たされると思っていなかったから、旅費もそろそろ少なくなってきてしまって……」
「そうですね……」
私達はまだ余裕があるが、他の宿泊客達は困っているようだった。
宿の主人は連泊の客は割引してくれていたが、それでもやはり出費はかさんでしまう。
今日の夜までに渡れるといいのだが。
昼食の後、再びエッジさんと一緒に渡し場に行ってみる。
他の宿の客も合わせて、二十人ほどが集まっていた。
川の水は、朝に比べるとだいぶ引いているように見えた。
「これぐらいなら、渡れるよね」
「…………」
なぜか黙ったままのエッジさんが不思議で、首をかしげた時、大きな声がした。
「渡れないって、どうしてだよ!?」
声がした方を見ると、旅人と渡し人達がにらみあっていた。
「どうしてって、危険だからに決まってるだろうが」
渡し人がせせら笑うように言う。
「けど、水はもう引いてるじゃないか」
「ああ? 文句あんのかよ。
この川のことを知りつくしてる俺達がダメだって言ってんだから、ダメなんだよ。
それともてめえは、俺達が死んでもいいってのか?」
「それ、は」
にらみつけられて旅人がひるむ。
確かに、無理して渡って一番危険なのは渡し人だ。
「俺達だってな、自分の命を守る権利はあるんだよ」
渡る時に使うという太い木の杖を肩にかついだ筋肉質の男達ににらみつけられて、旅人達は顔を見合わせ、肩を落として宿へと戻っていく。
「……戻るぞ」
「うん」
エッジさんに促されて歩き出しながら、小声で聞いてみる。
「ほんとに、ダメなのかな」
「……渡し人がダメだと言うなら、どうしようもねえな」
「そう、だね……」
ため息をついた時、少し前を歩くミラちゃん達に気づく。
ザラさんはひどく疲れた表情をしていた。
「あの……大丈夫ですか?」
思わず声をかけると、ザラさんは力なく笑う。
「ええ、まあなんとか……。
今夜泊まるぐらいのお金はあるんですけど、明日もダメなら……」
これ以上出費がかさんだら、肝心の渡し賃が払えなくなるのだろう。
それでは本末転倒だ。
「……少しぐらいならお貸しできますから、遠慮なく言ってくださいね」
小さな声で言うと、ザラさんは私を見て、かすかに笑った。
「……ありがとう」




