カーネーション~母への愛~
エッジ視点です。
王都に滞在して数日経ち、植物学者とのやりとりが一段落して宿の部屋に戻ると、コディがおずおずと言った。
「……あの、来月の四日までにトールマン村の屋敷に戻りたいんですが、かまいませんか?」
「かまわねえが、何か用事があるのか?」
「私、来月四日が誕生日なんです。
ばあやがお祝いをしたいと言ってたので……」
「そうか。
後十日あるし、十分間に合うだろう」
「よかった。ありがとうございます」
ほっとしたような笑みに疑問が浮かぶ。
誕生日を祝うという習慣自体が、俺には馴染みがないものだ。
平民は正確な日付もわからず、季節で区分することも多い。
コディは生まれは貴族だから、祝う習慣があってもおかしくはないが、その日をトールマン村の屋敷で迎えることに、何か理由があるのだろうか。
気にはなったが、馴染みのない習慣だから、何が正しいのかもわからない。
「エッジさんは、誕生日はいつですか?」
無邪気な問いかけに、どう答えるべきかためらう。
「……冬らしい」
コディが気にするだろうと思ったが、だからといって嘘をつくのもためらわれて、正直に答えると、やはりきょとんとする。
「はっきりわからないんですか?」
「……ああ。
俺は親の顔も名前も知らねえからな」
冬だというのも、『十一歳になったから同盟国に売る』と言われた時期が冬だったからの推測で、本当かどうかもわからない。
騒ぐのが好きだった養父が俺の誕生祝いをしようと言わなかったのは、そういう事情を察していたからだろう。
「あ……」
コディははっとしたように俺を見て、すぐに視線をそらせてうつむく。
「……ごめんなさい」
「いや。気にするな」
「ごめんなさい……」
ますますうつむきながら言う声が泣きそうに震えていて、やはり適当にごまかした方がよかったかと後悔する。
「……こっち来い」
そっと手を引いて、コディを隣に座らせる。
柔らかく肩を抱いて引き寄せ、肩や背中を撫でていると、強張っていた身体から少しずつ力が抜け、ゆっくりともたれかかってきた。
「誕生祝いってのは、何をするものなんだ」
髪を撫でながら聞くと、コディは少しだけ視線を上げて俺を見た。
露骨に話題を変えようとしていることに気づいたのか、申し訳なさそうな表情をしながらも、小さな声で言う。
「この国では、貴族も平民も、新年が来ると一つ年を取ったとみなします。
平民は新年と一緒に祝うだけだけど、貴族は、それとは別に、誕生日にたくさん人を呼んでパーティーをして、御馳走をふるまいます。
私は、両親ともに貴族ですが、母は離縁されていたし二人でトールマン村の屋敷で暮らしていたから、毎年母とばあやとじいやだけでしたけど、誕生日には食事をいつもより豪華にして、祝ってくれました。
料理はばあやが担当だけど、母の体調が良い時は、焼き菓子を作ってくれました」
「そうか」
そっと髪にくちづけると、コディはくすぐったそうに微笑む。
コディが俺が触れることを喜ぶのは、母親が愛情表現として日常的に抱擁やキスをしていたせいもあるようだが、父親がいなかったせいでもあることには気づいていた。
母親が哀しむからと父親のことは口にしないようにしていたらしいが、それでもやはり他の子供が父親に甘やかされている姿を見れば寂しかったのだろう。
無意識に俺に父親の姿を投影して甘えているのだ。
それでもかまわなかった。
コディが望むなら、なんでもしてやりたかった。
☆☆☆☆☆☆☆
植物学者やアトリーに挨拶をして、三日後に王都を出発した。
トールマン村までは徒歩で進み、天候が良かったから予定通り二日で着いた。
留守を守っていた老婆と老執事に、今回も大歓迎され、客室を与えられた。
四日の朝、朝食を終えると、コディはためらいがちに言った。
「あの……今から、ひとりででかけたいんです。
エッジさんは、ここで待っていてもらえますか」
緊張した表情をじっと見つめる。
「……どこへ行く気だ」
「……母の、墓参りです。
昼までには帰ってきます」
短い言葉には強い意思が感じられた。
コディの母親の墓は、屋敷の裏手の、小高い丘の上にある。
今まで二人でここを訪れた時は、いつも一緒に墓参りに行っていたし、数日前に村に着いた翌日にも同行した。
コディはいつも花を供えて『ただいま』と笑っていた。
なのに、なぜ今日に限って一人で行くと言うのだろう。
望みをかなえてやりたいという思いと、なぜ一人で行こうとするのか問い詰めたい思いが胸の奥で交錯する。
ため息でそれをねじ伏せた。
「……剣は絶対に離すな。
昼までには戻れよ」
コディはほっとしたように微笑んで、小さくうなずく。
「はい。
ありがとうございます……ごめんなさい」
「……いや」
それ以上コディが気にしないように、さっさと客室に戻る。
窓から外を見ていると、コディが何かを大事そうに抱えて歩いていくのが見えた。
その姿が見えなくなるまで見送って、深く息を吐いた。
守ることと束縛することは違う。
そうわかっていても不安になるのは、喪うことを恐れているからだ。
親の顔すら知らず道具として育てられ扱われていた俺に、初めて人としての優しさと愛情をくれたのは養父だった。
だが俺はそれを理解できず、素直に応えることができなかった。
それでもあの人は俺を愛してくれて、そして俺をかばって死んだ。
喪ってから、自分もあの人を愛していたのだと気づいた。
もうあんな想いはしたくない。
愛する者を喪いたくない。
だからコディがどこに行くにもついていった。
コディはアトリーに目をかけられていたし、俺が旅の合間に色々教えているから、街道に出る盗賊程度なら無傷で勝てる程度の実力はある。
この村から出ないなら、危険はないはずだ。
そう自分に言い聞かせても、離れること自体に不安になる。
今までコディが一人で行動したがることなどなかったから、よけい不安になる。
それでも、コディが一人で行きたいと望むなら、ついていくわけにはいかない。
もう一度深く息をついた時、ドアを軽く叩く音がした。
「エッジ様、ちょっとよろしいですか」
老婆の声だ。
「……なんだ」
半分ほどドアを開けると、俺の胸ぐらいまでしかない小柄な老婆が笑う。
「エッジ様は、甘いものは苦手でしたよね」
「……ああ」
「夏リンゴのパイぐらいなら食べられませんか?
砂糖少なめにしますから」
「……食えなくはねえが……何かあるのか?」
コディは甘いものが好きだから、夕食後にはいつも菓子を食べていたが、俺には出されなかった。
それをわざわざ食えということは、何か特別な理由があるのだろうか。
老婆はどこか寂しそうな表情で言う。
「コディ様のお誕生日祝いですよ。
夏リンゴのパイは、コディ様の大好物ですから」
「……そうか」
『食事を豪華にして祝う』とは聞いたが、菓子には縁遠いから、思いつきもしなかった。
ふと気づく。
コディはここで十二歳まで育ったのだから、今も知り合いはいるだろう。
わざわざ一人で出かけたのは、誰かと共に墓参りをする為だったのかもしれない。
だとすればそれは、コディにとって大切な相手なのだろうか。
そう思った瞬間、心のどこかがきしんだ気がした。
「私が作ったものでは物足りないでしょうし、祝う気になれないコディ様のおきもちもわかりますけど、やっぱりお祝いしてさしあげたいんですよ」
しんみりとした言葉が何かひっかかった。
『ばあやが誕生日の祝いをしたいと言っていたから』と、この日に合わせて村に戻って来たのに、なぜ祝う気になれないのか。
「どういう意味だ」
問うと、老婆は驚いたように俺を見上げる。
「ご存じなかったんですか?」
「何をだ」
「……今日は、コディ様のお誕生日ですが、ユーリ様のご命日でもあるんです」
目を見開いて、涙ぐんでいる老婆を見つめる。
ユーリとはコディの母親の愛称だ。
「ユーリ様は元からお身体が弱かったんですが、コディ様が旦那様に王都に連れていかれて以来、気落ちされて寝込んでしまわれて、結局そのまま……。
私や夫がいくら手紙を出して旦那様にお願いしても、コディ様はお屋敷に監禁状態で、結局ユーリ様の死に目にも会えないままだったんですよ」
老婆は悔しそうに言いながら目元の涙を拭う。
「ユーリ様の最期のお言葉は、『コディの誕生日祝いに、夏リンゴのパイを作らなくちゃ』だったんです。
だから、コディ様がおつらいのもわかりますが、お祝いをしてさしあげた方が、ユーリ様も喜ばれると思うんですよ」
今日に合わせて都に戻ってこようとしたのは、自分の誕生日だからだけではなく、母親の命日だったからなのか。
邪推した自分を恥じると同時に心配になった。
それならばなぜ、一人で行くと言ったのだろう。
今まで一緒にいった墓参りでも、涙を見せたことはなかったが、それは親の顔すら知らないと言った俺に遠慮していたのかもしれない。
いや、母親の死を知っても泣けなかったと、以前言っていた。
貴族も、騎士も、感情を表に出すのはしてはいけないことだと教育されるから、心の奥底に哀しみを封じ込めてしまったのだろう。
俺の前では涙を見せるようになったが、母親に関しては、まだ心の傷になっているのだろう。
ならば今、きっとコディは、母親の墓の前で無理に笑っている。
その顔を想像しただけで、胸の奥が痛む。
老婆を押しのけるようにして、部屋を飛び出した。
☆☆☆☆☆☆☆
コディは小さな墓の前にぺたりと座っていた。
白い墓石の上には、カーネーションの花束が置かれている。
背後からそっと近づくと、風に乗って声が聞こえてきた。
「国境沿いの谷の近くで、サンショクスミレの群生地も見たんだ。
小さな花だけど、群生してるとすごい迫力で、感動したよ。
母様にも見せてあげたかったな」
旅の思い出を楽しそうに語っていた声が、ふいに途切れる。
「……私、今日で十九歳になったよ。
もう立派な大人なんだ。
『大人になったら、私が母様を守ってあげる』って、何度も言ったよね。
ずっと、母様と一緒にいるって、守ってあげるって、約束したのに。
約束、守れなくて、ごめんなさい」
震える小さな声が胸に痛い。
「ひとりで、死なせてしまって、ごめんなさい……っ」
細い肩を抱きこむようにして身体を縮める姿があまりにも痛々しくて、我慢できずに近づいて背後からそっと抱きしめた。
コディはびくりと震えて顔を上げる。
「エッジ、さん」
「……すまねえ。
邪魔するつもりはなかったんだが」
「あ……」
コディは強く唇を噛みしめ、無理やり笑みを作る。
「いえ、心配かけてごめんなさい」
「……無理しなくていい」
身体の向きをそっと変えさせて、頭を胸に抱えこむように抱きしめる。
「我慢しなくていい」
ゆっくり背中を撫でながら、何度も囁く。
「泣いて、いいんだ」
ゆっくりと上がったコディの手が、強く俺の服を握りしめる。
「……ぅ……っ」
嗚咽がおさまるまで、ただ黙って抱きしめて、背中を撫でていた。
「……母様は、すごくきれいで、はかないひとでした」
コディは俺にもたれたまま、泣きはらした赤い目で、それでも静かな表情で、ぽつりぽつりと語る。
「もともと丈夫じゃなかったのに、私を産んでよけい身体に負担がかかったそうで、風邪を引いただけでも何日も寝込んでしまうぐらい弱ってたんです。
私はそのたびに、母様が死んでしまうんじゃないかって、私を置いていってしまうんじゃないかって、すごく不安になって、ずっとそばにいて手を握って、死なないで、置いていかないでって祈ってました。
私には、母様しかいなかったから。
ずっと一緒にいるって、私が守ってあげるって、約束したのに、……十二歳の時に、父の屋敷に連れていかれて……。
母様が心配だったけど、父に、逆らったら母様を屋敷から追い出すって言われて、抜け出すこともできなくて……。
騎士になれたら、きっと母様に会いにいけるって、思ってたのに……」
コディが見習い騎士になった頃には、母親はとっくに死んでいたのだ。
「……母様が死んだなら、もう父の言うこと聞く必要ないって思ったけど、母様が好きだったあの屋敷とお墓を守るためには、やっぱり言うこと聞くしかなくて、結局、近衛騎士になったんです……」
深く息をついて、コディはかすかに笑う。
「……でも、今なら、一つだけ、父の言う通りにしてよかったかなって、思うことがあるんです」
「……なんだ?」
「おかげで、エッジさんに会えたから」
コディは顔を上げて俺を見つめ、ふわりと笑う。
「近衛騎士になってなかったら、アンさんに会いに行くこともなくて、そしたら、エッジさんに会えることもなかっただろうから。
今こうして、エッジさんが私のそばにいてくれることもなかっただろうから。
だから、それだけは、父に感謝してるんです」
「……そうか」
もしもコディに出会えていなかったら、俺は優しさも愛情も知ることなく無為にすごし、どこかで野垂れ死にしていただろう。
「……俺も、おまえに出会えたことに感謝してる」
囁いて髪を撫でると、コディはくすぐったそうに笑う。
俺の手を握って、墓石を振り向いた。
「母様。
私、エッジさんが好きです。
母様のことは今でも好きだけど、違う意味で、一番好きで、一番大事な人なんです。
エッジさんがそばにいてくれるから、私は、大丈夫です。
だから、心配しないでくださいね」
つないだ手をしっかりと握って、墓石を見つめる。
「……何があっても、コディを守ると誓う」
はっきりと言うと、コディは嬉しそうに笑った。
触れるだけのキスを額に落として、ふと気づく。
「そういや、まだ言ってなかったな」
「え?」
「誕生日、おめでとう」
コディは泣き笑いの表情で微笑んだ。
「ありがとう」




