あおはる(後編)
「ふむ」
先に桐生に纏わりついていた涼音だったが、何やら慌てふためいている。
桐生がふらふらと千鳥足で前後不覚になっている様子だ。
酸欠だろう。
要するに限界以上の底力で走り切った訳だ。
仕方のないヤツ。
七希は自動販売機で水とスポーツドリンクを買って休憩所を出た。
「あっ、七ねえ! お兄ちゃんが、なんか大変なの!」
心配そうに兄の周りでうろうろする涼音に苦笑する。
「ああ、分かってる。桐生、急に止まるのは良くない、少しだけ歩こう。歩けるか?」
肩を貸してやると、どこか遠慮気味ではあったものの返事もできずに小さく頷いていた。
俯き気味の桐生の口から荒い息が吐き出される。
身体に力も入っておらず遠慮気味だったのも束の間、桐生は七希にもたれかかるように歩いていた。
むろん、男一人の体重でバランスを崩す七希ではないが。
「……っうっぷ。七希さ……はなれて」
見ると桐生の顔はますます青白くなっていた。
「吐きたいなら吐いた方が良い。我慢したって無駄だぞ。我慢するより早く楽になる」
「い、やだ……七希さんの、まえで……はきたくないっ!」
感情が溢れているのか、少し涙ぐんでいる桐生である。
「あのなぁ、人間生きていれば出るものは出る。少しばかりデリカシーとやらは必要だろうが、流石に今は放ってはおけんな」
子供の様にいやいやする桐生だったが、呆れたようにため息をついた七希に連れられて湖の手すりまで来た。
桐生は手すりにつかまって、そのまま湖にリバースした。
◇■◇■◇
「かー、負けちまったか……」
肩で息をしながら由紀から貰ったタオルを頭からかける高虎。
「虎君はよゆーそうだね?」
「あ、そりゃ嫌味か由紀? こちとら負けてんだ。俺はあそこまで走れなかった」
七希に付き添われて湖に向かってリバースしている桐生を見た。
甲斐甲斐しく背中をさすっている七希の様子が実は衝撃的である。
その近くでは妹がやんややんや騒いでいる。
「おい由紀、あいつら付き合ってんのかよ?」
「んー? やっぱりそう見える? 見えるよねぇ、ちょっとヤだけど」
ぷうっと頬を膨らませる由紀。
「……てめぇが七の事でヤキモチ焼く日が来るとは、人生分かんねえもんだな」
「そりゃあ、あたしが七ちゃんの1番だって自負があるからね。昔から」
「は、そうだったな」
本条七希と藤間由紀は実に赤ちゃんの頃からの付き合いになる。
出会いは公園を散歩していた親たちが同い年の赤ちゃんということで意気投合したことから始まる。
それ以来お互いの家を行き来するほど家族ぐるみの付き合いなのだ。
物心ついた頃から由紀は七希と一緒にいたし、保育園から小、中学校とずっと一緒だった。
当然七希が昔は正真正銘男の子だった事も知っている。
お医者さんごっこもやったし、お風呂で七希の男の子を見た事だってある。
対して由紀と高虎と七希の3人が出会ったのは小学3年の頃だ。
出会った後は妙に気が合った3人でよく一緒に遊んだし、何をするにも3人で行動することが多かった。
とはいえある程度大きくなっていたので、七希と由紀ほど明け透けな関係ではない。
それでも輝く様な想い出の数々があるのは事実だ。
まあ当時から高虎が七希にちょっかいを出しては返り討ちになる事が常ではあったが。
「懐かしいわ」
「あはは、なにそれ虎君、まだ高校1年だよ? あたしたち」
「つっても、あの七があんなだからなぁ。浦島太郎の気分だわ」
髪が伸び、胸も大きくなり、どこから観てもスタイル抜群の美少女然としている本条七希は男装(と当時の皆は思っている)していた頃とはギャップがあり過ぎる。
挙句の果てに、男を構っている。
あの、本条七希が。
「うっわ、七ちゃん、膝枕してる」
吐いて少しばかり落ち着いた桐生が七希から貰った水で口をすすいで、一息ついていた。
ベンチに横になろうとしていたところ、涼音が騒いで面倒くさくなった七希が渋々膝枕を受け入れたという状況である。
「まじかよ……同中のやつら見たら卒倒するんじゃね?」
「あたしは今、卒倒しそう」
ぷぷくぅっと頬を膨らませる由紀である。
「まだ七が好きなんかよ」
それは、何気ないようで真剣な口調だった。
「まあね。まだというか、ずっとかな? あたしの場合」
由紀は気付かないように軽く返す。
「……だってそりゃおかしいだろ。今の七を見りゃ分かんだろ」
「ん~? ここでマイノリティの話するの? あたしの心の在り方なんて聞いても面白くもないと思うけど」
心の在り様は人それぞれ。
その通りだね、と他人事なら責任も無く言える話だが高虎にとっては当事者の問題である。
だから聖人君子のように通り一遍の回答は出来ない。
「いや……あぁダセええ。今日はもう帰るわ、と言いてえところだけどよ」
頭に被ったタオルをがしがしさせてから肩にかけると、高虎は由紀に向き直った。
「話があるんだわ、由紀」
「ん……んん、今の会話で察してもらう事は?」
「ダメだ」
「だよねえ」
由紀が苦笑する。
「――こんな所で、こんななんでもなく言うつもりは無かった。それは本当に悪い。だけど俺にとっちゃ、そうないチャンスだ」
「うん」
由紀が地元を離れてしまったのだから、それは仕方ない。
健全な高校生の次の機会とかを待つのは恋愛においては負けも同然である。
ちなみに藤間由紀は高校でも既に5回ほど告白されている。
今はどうでも良い話だが、本条七希は18回くらい告白されている。
背負い投げまで食らったのは一人だが。
「好きだぜ由紀、昔からずっとだ。俺が七希を超えて見せる。だから付き合ってくれ」
加賀見高虎は、まっすぐ由紀を見て告白した。
由紀は一度七希の方を見た。
桐生を膝枕して、逆側から涼音にくっつかれて、なんとも言えない表情をして景色を眺めている。
こちらの視線にあの七希が気づいていないはずはないのだが、特に目が合う事もなかった。
それが少しだけ、本当に少しだけ寂しくもあったのだが恋愛においてはこれが惚れた弱みだな、と由紀は自分に苦笑した。
「――ごめんね、虎君。少しだけ色々考えちゃったけど。やっぱりあたしの心は独り占めされちゃってるみたい」
報われるか報われないかという話ではない。
心がそれ以外を受け入れないのだ。
自分でだってどうしようもない、由紀は泣き笑いのような顔をして頭を下げた。
「おう……まあ、その……元気だせよ、由紀。さんきゅな」
高虎はそれだけ言って、さっさと帰って行った。
これで子供の頃の純粋な幼馴染という関係が壊れたのかと思うと、いくら由紀でも心に刺さるものがある。
下げた顔を上げられなかった。
涙が滲んできていた。
自分で思った以上に、藤間由紀は加賀見高虎が好きだった。
それは惚れた腫れたという話ではなくとも、昔からの想い出がそうさせるのだ。
「――帰るぞ、由紀」
「わっ」
頭からタオルをかけられた。
いつの間にか、本条七希が目の前に立っていたらしい。
「なにこのタオル?」
「さっき虎から受け取った」
「中古じゃん。なんか汗臭いんだけど」
「幼馴染だろ、気にするな」
「う、ん……そうだね」
声が震えてしまった。
己の感情を恥じる。
藤間由紀はいつでも元気で朗らかで、自分の機嫌は自分で取れる人間だ。
だが――
「由紀は昔から泣き虫だな」
本条七希と藤間由紀は赤ちゃんの頃からの付き合いである。
「ふ、私の前ではいつも泣いてる」
思い出すように七希が笑い飛ばして言った。
その気安さと安心感で、タオルの中で由紀はくしゃっと笑顔を作った。
「七ちゃんの、ばか」
「怒った時と泣いた時の由紀は語彙力なくなるな」
「ばか……」
タオルを被ったまま、七希の腹に頭を付ける由紀。
「ばか」
「分かった分かった」
顔を上げた由紀の手を取って、七希が歩き出す。
その背中はとても遠く見えるが、掴んでくれた手はとても暖かかった。




