中等部!
「ねーねー聞いた? マジやばいって、本条先輩!」
「何でも崖を走って、みやび様をお助けしたとか!」
「かっこいいよねぇ~~」
「どうやったらあんな風になれるんだろ~? やばいよやばいよ~!」
やべえのはこっちだよ。
光陵館学園中等部の教室では、先日の高等部のレクリエーションの噂話で持ちきりだ。
お昼休みともなると、それが顕著だ。
桐生涼音は憤慨する。
崖を走ってお姫様抱っこ?
「忍者か!」
涼音はやきそばぱんを握り潰した。
しかしカウンターでソースが飛び出した。
ほっぺたを汚した涼音は、因果応報を恨みながらハンカチで頬を拭いた。
「もったいね、涼音」
涼音は現在、友人の葛城玲奈と食事中である。
涼音の机でお弁当を広げているが、購買のパンにコンビニのお弁当と手作り感はまるでない。
侘しいお昼ではあった。
「ちゃんと食べるからいーのっ」
玲奈は涼音を信号機のような子だと認識している。
つまり、はっきりと分かりやすい人間だと。
玲奈にそう評される涼音の信号は、絶賛赤信号である。
寄るな危険の猛獣注意だ。
実際は短めのツインテールを水色のリボンで結んだ、釣り目が可愛らしい小動物のような少女なのだが。
とにかく、そんな涼音にとって本条七希の賞賛など聞きたくも無い。
それなのに、右を向いても左を向いても何かにつけてそればかり。
強制的に。
逃げ場なく。
オリンピックの結果がどうだったとか、そんな国民的行事の如く話題を攫うとは何事か。
「レジェンドか!」
涼音はメロンパンを握り潰した。
食べ物もびっくりの八つ当たりである。
メロンパンはもふもふ力を失った。
「何をそんなに怒ってんの、あんた四楓院側だっけ? アンチ本条?」
クールな玲奈には本条だの四楓院だの、そんな高等部の覇権争いなどどうでも良い事だった。
よくもまあ、他人の事でそこまで盛り上がれるものだと。
この辺りの発想は、実は七希と通じるものがある。
「んなの、どっちでも無いに決まってんでしょ! 涼音は、単に、本条七希が、どぅあいっきらいなだけよ! ふんっ!」
若さに任せて衝動をぶつけた惣菜パンと菓子パンの成れの果てを、涼音が眉をハの字にして見つめた。
食べられるか?
食べられるよね、うん、そうに違いない。
涼音はパンを千切って口に運んだ。
「あ~美味し! ふわふわの生地がぎゅっと凝縮されて、美味し!! 濃縮還元ってやつね!」
「還元してないし、水でもかけたげようか?」
「やめなさいよ! 泣くわよ!」
「はいはい、じっとしてな、涼音」
玲奈は袋に入った紙おしぼりをポケットから出した。
それを破って、涼音の頬を軽く拭いてから口元も拭ってやる。
「ん……玲奈、こんなのいつも持ってんの?」」
「コンビニで弁当買った時に付いてたやつな」
ごろごろと喉が鳴る様に、満足そうに涼音は玲奈の厚意を受け入れる。
「あんがと。玲奈こそ食べる前に使えばよかったのに、清潔にしといた方が良いよ」
「さっき手洗ったしね。屋外ではブルーシートは使うから、大丈夫だよ」
「……は?」
「ま、お姉さんからの忠告だよ、涼音」
「変なの……」
玲奈はこの学園の生徒としては、少し異質である。
パーマのかかった髪に、ピアスの痕。
シャツの一番上はボタンをかけないし、その首にはネックレスをしている。
品行方正な生徒の多いこの学園では浮いた存在だ。
表だって何か騒ぎを起こすことは無いし、服装もぎりぎりやり過ぎないラインに纏めるものだから、教師もあまり注意はしない。
何よりこれで抜群に成績が良いときているから、周りも何も言えない。
「んなことより! 玲奈はどう思うのよ、本条七希!」
黒髪ツインテールを揺らして眉を寄せる涼音は愛らしい。
玲奈はただ一人の友人の微笑ましい振る舞いに小さく笑った。
「別に、なんとも。涼音が嫌いなんだったら、私も嫌いで良いけど」
「そーゆーの却下! 右に倣うとか、涼音大嫌いなんだから!」
相変わらず涼音という少女は正直である。
いつだって真剣で、物怖じせず、きゃんきゃん元気に騒いでいる。
玲奈が浮いた存在とか、そうでないとか、そんなことはどうでも良いのだ。
他人の評価、周りの目など問題外。
七希に駄犬と評される涼音は、小さく纏まった小賢しい輩とは違った愛らしさがある。
「そりゃそうだ。涼音は嫌いな事多いもんな、アンチ世の中だもんな」
「そーそー、涼音はお兄ちゃんが居ればそれで……て、違うわよ! 涼音を中二の代表みたいに言わないでよ! 泣くわよ!」
そして欠点はブラコンだった。
「――た、大変よ桐生さん!」
そんな、いつも通りと言えばいつも通りの和やかなお昼休みの教室が吃驚した。
血相変えて涼音の教室に飛び込んできたのは、別のクラスの女子生徒だ。
名前を呼ばれた涼音は目を瞬かせる。
「なによ、どしたの?」
「桐生さんのお兄さんが、足を怪我したって! 今、中等部の保健室に来てるって!」
「え!? 怪我!? お兄ちゃん?」
「足を挫いたって話なんだけど、中等部の保健室の方が近いからって!」
「わ、分かった! あんがと! ちょっと行ってくる!」
「私も行くよ、涼音」
席を立った2人に、その情報を持ってきた生徒はまだ興奮した面持ちを崩さない。
話と様子を聞く限り、桐生の足の怪我はそれほど酷くない。
それは何となく伝わっていた。
だから、この生徒の興奮は桐生が中等部にやって来た事だけではない。
興奮したまま、生徒は続けた。
「それも、本条先輩に付き添われて!!」
「――は? はああああああああああっ!?」
かくして、本条七希、中等部の乱が始まった。
◇■◇■◇
「……」
「……」
七希と桐生は中等部の廊下を歩いていた。
経緯としては、桐生の爽やかさ全開なエピソードである。
昼休み、校庭の木陰で羽原とお昼を取っていた桐生は、猫の鳴き声を聞いた。
中等部に近い木の枝に上った、子猫のものである。
子猫にとっては良くある話で、登ったは良いが降りられない。
そんな子猫を助ける為、桐生は木登りをし、小枝から子猫を救出し――枝が折れて真っ逆さまとなった。
何とか子猫を庇ったものの、無理に足で着地しようとしたのが災いして、勢いを殺し切れず捻ってしまったのだ。
本当に偶然だが、そこに七希が通りかかった。
実は昼休みに学園を抜け出して、近くのコンビニにアイスを買いに行っていたのだ。
むろん、校則違反である。
知る人ぞ知る学園の抜け道から校内に戻ってきた七希と、桐生の様子を見ていた羽原の目が合った。
「おやおやおやぁ? 本条七希ともあろう人が、校則違反ですか?」
ウザったらしくニヤついた羽原を血祭りに上げようか真剣に検討していた七希は、考える暇も無く選択を叩き付けられた。
桐生に付き添って保健室まで面倒を見てやるか、校則違反をばらされるか。
七希としては、別にばらされても揉み消す気満々だった。
馬鹿の羽原と、生徒会所属の優等生(だと思われている)の七希。
しかも最近、理事長ともつながりのある四楓院みやびとも、若干いい感じである。
実際は、ただみやびが突っかかってこなくなっただけだが。
そんな2人の言い分を比べて、どちらが信用されるか?
世論は無情である。
しかし七希が返事をする前に、羽原はその場から去って行った。
「そんじゃ、あと宜しくな!」
いい仕事したな~、と満足そうに去る羽原には倍返し。
それは決定事項だが、さすがの七希もうずくまる桐生に一人で頑張れ、と去るほど無情でもなかった。
つまりそんな経緯で、2人は距離の近い中等部の保健室に向かったのだった。
「あの……ごめんね、達也の奴が」
「……いい。黙って掴まってろ」
「う、うん」
捻った足を使う訳にもいかない桐生は、現在七希の肩を借りていた。
というか、肩を組んでいた。
片方の肩だけ借りても、けんけんの要領で動けるのは動ける。
だがそれも面倒だと、体重を預けるように七希が提案したのだ。
桐生は顔が熱くなった。
回した肩の、なんと華奢な事。
それに密着することによって、どうしたって七希の身体から香る甘やかな匂いを吸い込んでしまう。
ほんのり温かい体温を感じてしまう。
頭が蕩けそうになる。
「あ、あのっ!」
「ぁ……! く、黙ってろ! 耳に息がかかるんだ!」
七希が擽ったそうに首を縮めた。
確認しておくが、桐生誠也は紳士である。
だがしかし、健全な青少年である。
想い人と肩を組み、密着して、擽ったそうに顔を赤くする七希を見て衝動に身を任せてしまいたくなるのも無理はない。
そこで堪えるのも、桐生という人間だが。
「ごめん」
「……はぁ、お前は謝ってばかりだな」
「女の子が、実は苦手で。何を話していいのか分からないんだ……」
「そうか、ならば話は簡単だ。私を男だと思え」
「それは無理だよ」
至近から見る七希の横顔は、男と呼ばれる生き物とは創りが違い過ぎた。
きめ細やかな白磁の肌。
長いまつ毛。
触れると折れてしまいそうな細い首。
そのどれもが桐生の男を刺激してしまう。
少女漫画の主人公なら余裕顔で「俺の女になれ」と、キスでも強引に迫るところだろうか?
割と真面目に桐生はそんな事を考えていた。
「……無理、か。ふむ、そういえばお前、確か妹がいなかったか?」
「涼音の事かな?」
「ああ、あいつは可愛い奴じゃないか。慣れたりはしないのか」
「そうだね、でも妹は妹だから」
「……ちょっと聞きたいのだが、お前、妹と中学くらいまで一緒に風呂に入っていたか?」
「ええ!? それって、僕が中学って事?」
「いや、妹が」
「涼音は今、中学2年だよ!? 去年までって事? 殺されるから!」
やはりそういうものか。
世間の一般常識を、七希は今確認した。
一華はちょっとおかしい。
そして由紀は恐らく常識は持っているが、それを正そうとは微塵も思っていない。
そんな七希にとってはくだらない、桐生にとってはそれがどんな会話であっても胸の躍る一時を経て、中等部の保健室に到着した。
室内には、たまたま校医が居なかった。
「待っていればすぐに帰ってくると思うが……どうだ、痛みはひどいか?」
「骨や靭帯までって事は無いと思うけど」
「ならば、応急処置くらいはしておくか。座ってろ」
桐生を椅子に座らせて、七希はバケツに水を汲んだ。
保健室の冷凍庫を開けてみると、袋に入った氷が用意されていたのでそれを破ってバケツの中に放り込む。
キンキンに冷えた水のできあがりだ。
「とりあえず、冷やしておけ」
「ありがとう――いっ」
靴下を脱ごうとした桐生は痛みに顔をしかめた。
「大したことない、か。怪我の強度を虚偽申告するな」
七希は桐生の前に座って、靴下をゆっくり脱がせてやった。
同級生の女の子、それも想い人に靴下を脱がされる。
通常有り得ないような状況に、桐生の心拍数が上がる。
心臓の強度が心配された。
それも冷たい氷水の中に足を突っ込むと、気持ち良くて頭の火照りまで取れてしまったが。
「はぁ、気持ちいいね」
「しばらく冷やしてろ。それが終わったらテーピングくらいはしてやる」
そう言って、七希は近くの椅子に座ってポケットの中から文庫本を取り出した。
表紙にはカバーがかかっていて桐生からは何を読んでいるのか不明だったが、七希が読んでいるのは得体の知れない殺戮者が蔓延る、海の孤島からの脱出劇が手に汗握るサスペンスホラーだった。
内容はともかく、その文学少女然とした七希を見て桐生はほう、とため息をついた。
七希の側に特別な感情は何もなかったが、気になる女の子にここまで甲斐甲斐しく世話をされた桐生は居ても立っても居られない。
「……七希さんは、誰か好きな人、いないの?」
「いるぞ」
「ええ!?」
桐生の学園生活が、今、暗闇に沈みかけた。
「家族に、由紀。それにみやびとお前の妹も、嫌いではない」
「あ、そうなんだ……」
そういう?
桐生の学園生活は首の皮一枚つながった。
七希の感性からすれば、好意が男に向かう方が難しい。
それからは特に言葉が出てこなくなった桐生が押し黙ると、無言の時が流れた。
七希は本に目を落として反応が無いし、桐生は申告通り何を話して良いのか分からない。
ただ、その無言は居心地の悪い物ではなかった。
何か話さないと間が持たない、という空気を七希は出さないからだ。
文庫本のページをめくる音だけが響き、保健室の窓から流れ込む風が七希の長い髪を揺らす。
桐生は無遠慮に七希を見つめていた。
こんな子が自分の彼女になってくれたら、どんなに幸せだろう。
そう夢想する。
もっとも、七希からすれば精神崩壊である。
「そろそろか」
しばらくして腕時計を確認した七希は、バケツから桐生の足を出してタオルで拭いてやった。
そして用意していたテーピングを上手に施していく。
よくボッコボコにした団十郎の手当をしていたので、七希にとっては朝飯前の処置だった。
本当に何でもできるんだと、桐生は感心しきりだったが。
「こんな所か。午後からの授業は欠席して、ベッドで安静にしているがいい」
「そこまで大袈裟じゃないよ」
「お前、サッカー部なんだろう? なら、少しでも早く治るように努力した方がいいのではないか?」
「それは……」
「お前のクラスの午後の授業は何だ?」
「数学と英語」
割とハードなのが残っていた。
桐生誠也は若干幸薄い少年である。
「ノートは確保しておいてやる、分からなければ私が教えてやる。乗りかかった船だ」
本条七希はこれで意外に面倒見が良い。
だからこそ良く誤解が生まれる訳だが。
「ありがとう、七希さん……俺――」
「――こんの、泥棒猫ーーーーっ!!」
キンキンした声が保健室に響き渡る。
犯人は威勢よく保健室のドアを開け、突進した。
その駄犬、もとい桐生涼音の勢いを、七希は指先一つで押しとどめた。
「ふぐあっ!?」
涼音は、額に当てられた七希の指先をピクリとも押し返すことが出来ない。
「ぐぬぬぅっ! この、相変わらず人外!! どんな力してんのよ!」
「コツを掴めば簡単だ」
「んな訳ねーでしょ!?」
身体の小さい涼音は、額を押さえられてコントのように腕をくるくる回すが七希に触れる事もできない。
「涼音! 何を!」
「おにーちゃんは、この女に騙されてんのよ! 女なんて、腹の底では何考えてるか分っかんないんだからね!?」
「お前もな」
ブーメランにも程があるだろ、と七希は肩を竦めた。
「いいわ! 涼音があんたの化けの皮を剥いであげる! ――決闘よ!!」
「おっけー」
「ちょ! 待ちなさいよ! 構えないでよ! 暴力に訴えるな、この野蛮人!」
「うるさい駄犬だな、なら決闘とは何だ?」
「そ、それは……」
涼音が腕を組んで唸り出した。
こいつ、何も考えてない。
七希、桐生、付いて来た玲奈。
周りの人間は生温かい目で、涼音の様子を伺った。
待つことしばし、花が咲いたような笑顔で涼音は顔を上げた。
「――女子力よ!!」
こうして涼音の思いつきから、得体の知れない戦いが始まった。




