「とろとろに溶かしてあげる」特製シチューを作っていたら、私の味見をした旦那様(宰相)の理性が飛びました。~デザートは君だと言われて、朝まで濃厚に愛されすぎて、私の方が溶かされてしまいそうです~
コトコト、コトコト。
静かなキッチンに、深鍋の中で具材が煮込まれる、優しくて温かい音が響いている。
重たい蓋の隙間からは白い湯気が立ち上り、芳醇な赤ワインと、飴色になるまでじっくり炒めた玉ねぎの甘い香りが、部屋いっぱいに広がっていく。
「うん、いい感じ」
私は木べらで鍋の中をゆっくり、底から返すようにかき混ぜながら、小さく味見をした。
口の中に広がるのは、濃厚なデミグラスソースのようなコクと、ほろほろに崩れる牛肉の旨味。
最後に隠し味として入れた、少量のチョコレートが
味に深みを与えている。
前世の記憶にある、洋食屋さんの「ビーフシチュー」の味だ。
「……美味しくできたかな。ロデリック、喜んでくれるといいけど」
私の名前はルーシェ・ルブレス。
この国の若き宰相を務める公爵、ロデリック・ルブレスの妻だ。
そして、少しだけ事情が変わっているのは、私が異世界からの転生者だということ。
私の前世は、しがないOLだった。
仕事に追われ、上司に叱られ、帰宅するのはいつも日付が変わる頃。
冷え切ったアパートの部屋で、コンビニで買ったお弁当を一人で食べる毎日。
「いただきます」と言っても、返事をしてくれる人はいない。
料理は好きだったけど、自分のためだけに作る気力なんて残ってなくて、休日にまとめて作り置きをするのが精一杯の楽しみだった。
誰かと温かい食卓を囲むなんて、夢のまた夢。
(……でも、今は違う)
私は視線を上げて、広いキッチンを見渡した。
ピカピカに磨かれた銅製の調理器具。
使い込まれたオーク材の作業台。
そして何より、この料理を「美味しい」と食べてくれる、愛する旦那様がいる。
使用人たちは「奥様がお料理をされる時は、旦那様がお二人きりになりたがるので……」と気を利かせて、みんな席を外してくれている。
つまり今、この広いキッチンには私一人。
そして……そろそろ、彼が帰ってくる時間だ。
カツ、カツ、カツ。
廊下の向こうから、規則正しい足音が近づいてくるのが聞こえた。
革靴が石床を叩く、硬質で、でもどこか急いているような足音。
私は胸が高鳴るのを抑えながら、火加減をとろ火にした。
コンコン。
「奥様、旦那様がお戻りになられました」
侍女が扉を開き、ロデリックが立っている。
「旦那様、コートをお預かりいたしましょうか」
「いい。構うな。下がれ」
「失礼いたします」
侍女が深々と頭を下げ、扉を閉める。
「全く……ここまでついてくることもないだろうに」
ロデリックがネクタイを緩めながらため息をつく。
「彼女達はそれが仕事なのですよ」
「……俺は君に会うために帰ってきてるんだ。最初に会話をするのは君がいいというのに」
ロデリックはそう言うと、私の髪を撫で、耳元で囁いた。
「……ただいま、ルーシェ」
「おかえりなさい。ロデリック」
体に吸い付くようにフィットした仕立ての良い黒のスーツ。
胸元には宰相の権威を示す銀の徽章が輝いている。
「完璧で隙のない宰相閣下」。
……外では、そう呼ばれているけれど。
「今日は早かったですね」
私が振り返って微笑むと、彼の端正な顔が、ふわりと雪解けのように柔らかく崩れた。
「ああ。君に早く会いたくて、ろくでもない貴族たちの会議を早々に切り上げてきた」
彼は迷いなく、真っ直ぐに私の方へと歩いてくる。
その瞳には、私しか映っていない。
熱い。
宰相という役職や、さっきの侍女への冷たい態度からは想像もできないほど、ドロドロとした熱烈な色が宿っている。
「お疲れ様です。……お着替えは?」
「あとでいい。まずは……」
ぎゅうぅぅぅ……。
背後から、私を丸ごと包み込むように抱きしめた。
「……ああ、君だ……君がいる」
「あ、あの……ロデリック? まだお料理の途中です」
「知ってる。……いい匂いだ」
彼は私の首筋に顔を埋め、深く私の匂いを確かめるように息を吸い込んだ。
私を抱きしめる手は、お腹に回され、私のお腹を撫でるように上下に動いている。
くすぐったい。
彼の黒髪が敏感なうなじに触れて、背筋がゾクゾクする。
背中から伝わってくる体温は、スーツ越しでも驚くほど高い。
「……シチュー、美味しくできましたよ。あなたの好きな赤ワイン煮込みです」
「シチュー? ……俺はルーシェ自身の匂いのことを言ってるんだが」
「もう……」
さらりと言ってのける彼に、私は顔が熱くなるのを感じた。
この人は、いつもこうだ。
外では「歩く法律書」「笑顔を見せたら嵐が来る」なんて言われているのに、家に帰って私と二人きりになった途端、甘えん坊の大型肉食獣に変貌する。
「少し離れてください。かき混ぜないと焦げちゃいます」
「やーだ」
即答だった。
国を動かす宰相ともあろうお方が、幼児みたいなことを言う。
「今日はずっと、話の通じない貴族たちの相手をして疲れたんだ。……癒してくれ」
「癒しって……」
彼は私のお腹の前で両手をガッチリと組み、さらに強く抱きしめてくる。
完全にロックされた。
これでは身動きが取れない。
バックハグされ、前には熱い鍋。
首筋には、旦那様の熱い唇が這う。
そしてすぐに、耳に吐息がかけられ、愛を囁かれる。
「……わかりました。じゃあ、このまま続けますから、手を出さないでくださいね?」
「……わかった」
絶対に邪魔する気だ、この間と、声は。
私は彼を背負ったまま、木べらを動かし始めた。
やりにくいことこの上ない。
彼が私の耳元で熱い吐息を漏らすたびに、背筋が震えて手元が狂いそうになる。
彼の手が、私の腰やお腹を無意識(?)に撫でてくるせいで、意識が料理に向かない。
「……ロデリック」
「ん?」
「手、じっとしててください。くすぐったいです」
「君のエプロンの紐が解けそうだったから、直そうとしただけだ」
「嘘ばっかり。さっき二重結びにしたばかりです」
「……えへ、バレたか」
彼は喉の奥で低く笑うと、私の耳たぶを甘噛みした。
「ひゃっ!?」
「可愛い反応だ。……もちもちしてる」
「か、からかわないでくださいっ!」
私は真っ赤になって抗議するけれど、彼は楽しそうにするばかりだ。
悔しい。
いつも私ばかり翻弄されている。
たまには、妻としての威厳を見せないと。
「……味見! 味見してみますか?」
私は話題を変えるために、鍋からシチューを少しすくった。
とろりとした濃厚なスープ。
ふうふう、と息を吹きかけて冷ます。
「はい、どうぞ。美味しいですよ?」
私は体を少し捻って、後ろにいる彼にスプーンを差し出した。
口に物が入れば、少しは大人しくなるはず。
そう思ったのに。
「……ああ、いいね」
ロデリックは、スプーンを見ようともしなかった。
彼の瞳は、とろりとした熱を帯びて、じっと私の唇を見つめている。
「え……あの、スプーンはこっちで……」
「味見したいのはそっちじゃないよ」
「へっ?」
彼の手が、スプーンを持つ私の手首を掴んだ。
そして、もう片方の手が、私の顎をすくい上げる。
「ルーシェ」
名前を呼ばれただけなのに、腰が抜けそうになるほど甘い響き。
逃げようとする間もなかった。
彼の顔が近づき、視界が彼の黒髪で埋め尽くされる。
唇が重なった。
「んっ……」
味見なんてレベルじゃない。
深く、絡め取るような、とろけるようなキス。
舌が絡まり、頭が真っ白になる。
持っていたスプーンから、ポタリとシチューの雫が床に落ちた気がしたけれど、確認する余裕なんて今の私にはない。
背中を支えられていないと、その場に崩れ落ちてしまいそうだから。
長い、長い、呼吸すら奪われるようなキスの後。
ようやく彼が唇を離した。
私の顔といったら、もう真っ赤で。
「……はぁ……っ」
息が切れて、肩が上下する。
ロデリックは、捕食者のような目で満足そうに目を細めていた。
「……うん、美味い」
「~~~~っ!!」
「最高の味だ。甘くて、とろけそうだ」
「そ、それはシチューの感想じゃないですよね!? 私はシチューの味見をと言ったんですけど!?」
「シチュー? ……ああ、そういえばそうだったっけ」
彼は悪びれる様子もなく、私の手首を引き寄せた。
そして、スプーンを持つ私の指先に口付けをする。
「次は、指をもらおうか」
「だ、ダメです! シチューを!!」
「シチューなら、ここに少しついてるだろ?」
彼は私の指先についた小さなシチューの跳ねを、舌でペロリと舐め取り、そのまま指を甘噛みしたあと口に含み、愛おしむように吸い上げた。
その感触が、背筋を駆け上がる。
色気がありすぎる。犯罪級だ。
このまま、抱かれてしまうんじゃないかと思ったその時だった。
ジュッ……ジュウウウゥ……。
鍋の底から、不穏な焦げ付き音が聞こえてきたのは。
「――っ!?」
私は我に返った。
キスに夢中になっている間に、煮込みすぎて水分が飛んでしまった。
「ああっ! こ、焦げちゃう! ロデリック、離して! 早く!」
私は慌てて彼の腕から抜け出そうと暴れた。
せっかく作った特製シチューが台無しになってしまう!
けれど、ロデリックは動じない。
むしろ、さらに強く抱きしめてきた。
「焦がせばいい。君の作ったものならなんでも美味い」
「よくないです!!」
「鍋の一つや二つ、俺がいくらでも買い直す。……今は、鍋より君だ」
「何言ってるんですかバカ公爵ー!!」
私は必死の思いで彼の腕をすり抜け(火事場の馬鹿力だ)、コンロの火を止めた。
ふぅ……。
間一髪。
底の方は少し危なかったかもしれないけれど、全体的にはセーフだ。
「……もう。心臓に悪いです」
「……続きは?」
「ありません! もうご飯にしますから、着替えてきてください!」
「……わかった。だが、着替え終わったら、続きをたっぷりとお願いする」
「却下です!」
ロデリックは不満そうにしながらも、私の頬に一度キスをしてから、ようやくキッチンを出て行った。
残された私は、その場にへたり込んだ。
「……はぁ。疲れた……」
でも、胸のドキドキは収まらない。
前世の私が見たら、腰を抜かすな。
一人ぼっちの食事をしていた私が、こんな風に誰かに求められて、幸せに満たされながら、てんやわんやしながら料理をしているなんて。
「……幸せすぎて、バチが当たりそう」
私は小さく呟いて、鍋の中のシチューをそっとかき混ぜた。
◇◆◇
その後。
ダイニングルームでの夕食は、平和に……見える光景だった。
着替えたロデリック(ラフな白シャツ姿も素敵だ)は、私が作ったシチューを一口食べて、目を見開いた。
「……これは、すごい……」
「お口に合いましたか?」
「素晴らしい……。肉が舌の上で解けるようだ。ソースの味も深みがあって……城の専属料理人が作るものより、遥かに美味い」
「ふふ、良かったです。あなたのために、三時間も煮込みましたから」
「俺のために、三時間……」
その言葉がスイッチだったのか、彼の瞳がまた妖しく光った。
食事中だというのに、彼の視線はずっと私に注がれている。
食べる口元、スプーンを持つ手、水を飲む喉元。
いちいち熱い視線で追われるので、私は食べた気がしない。
「あ、あの、ロデリック? そんなに見られると食べにくいんですが」
「すまない。食べている君があまりに可愛くて、目が離せないんだ。君に、魅了でもかけられたかな?」
「……っ」
素で言うからタチが悪い。
結局、私は顔を伏せて黙々とシチューを食べ、ロデリックはそれをオカズに(?)食事を楽しんだのだった。
「ごちそうさまでした。最高のシチューだった」
ロデリックがナプキンで口元を拭う。
お皿は綺麗に空っぽだ。
私も、ちょうど食べ終わったところだった。
「……さて」
彼は席を立つと、私の椅子のそばまで優雅に歩いてきた。
そして、有無を言わさず私をひょいっと持ち上げた。
お姫様抱っこだ。
「きゃっ! ロ、ロデリック!?」
「メインディッシュは堪能した。……素晴らしい味だったよ、ルーシェ」
彼は私の耳元で、甘く低く、とろけるような声で囁く。
「だから次は、デザートが食べたくなった」
「デ、デザートって……果物はまだ剥いてませんけど」
「……またまた。俺が欲しい甘いデザートは、一つしかない。分かってるだろ?」
彼の視線が、私の唇から鎖骨、そしてその下へと這うように動く。
その意味を理解して、私は頭が沸騰しそうになった。
「ま、待ってください! まだお皿洗いが残ってます!」
「そんなもの、侍女にやらせればいい」
「ダメです! 今日は私がやるって言っちゃったんです!」
「なら、明日の朝やればいい」
「明日の朝って……っ」
ロデリックは問答無用で歩き出した。
向かう先は、二階の主寝室。
「今夜は逃がさない。……キッチンでのお預け分も合わせて、たっぷりと味わわせてもらうからな」
「ううぅ……お、お手柔らかにお願いします……」
「……どうかな」
彼は楽しそうに笑って、私の額にキスをした。
その瞳は、シチューを煮込んでいた鍋よりも、ずっと熱く燃えている。
「君はシチューを三時間煮込んだと言ったが……俺は君を、朝までじっくり、とろとろに溶かしてあげるつもりだから」
「~~~~っ!!」
なんという宣言。
私は彼の胸に顔を埋めた。もう、抵抗しても無駄だ。
前世の私、見てますか?
今の私は、ちょっと困るくらい愛されて、世界で一番幸せだよ。
……そうだ。
明日の朝ごはんは、しょっぱいお漬物にしよう。
今夜の私が、甘くなりすぎちゃうのは確定だから。
ここまでお読みいただきありがとうございました!
いつも変なのばかりなので、たまにはこういうなんの捻りもない、普通のシンプルな甘々が書きたくなりました。
ざまぁや重苦しい話もいいですが、日常の甘い話を書くのが一番好きで楽しいです。




