66話 もどかしく、髪を撫でる
宙に浮いて喜びを分かち合った二人は、ふわりと床に着地した。
「あ、もう22時すぎてる! ごめん、引き留めちゃって」
「こちらこそ夜分にお邪魔してしまって、すみませんでした」
「ううん、それはむしろ大歓迎だから!」
「ふふ、良かったです。ところで、先生は明日本当にお休みなさるんですか?」
「え!?」
ロイズはギクリとした。フレイルやカリラに明日は休みだと告げたのは、たった今実験をした『魔力共有の効果』を根掘り葉掘り調べたかったからだ。
異常値のペアがもたらす効果について、フレイルやカリラには、おいそれと話すことはできない。それを話してしまったら、この先どこかでユアが元人間である事実に行き着く可能性があるからだ。特にフレイルは、ロイズとユアの異常な魔力相性に感づいている。
だから、明日を休みにして、こっそり実験をしようとしていたのだが。
―― 本当はユラリスも誘って一緒に実験したかったけど、明日は用事があるって言ってたからなぁ
「うん、明日は休みにするよ~」
ロイズが明日の休みを肯定すると、ユアは「そうなんですね」と、少し気落ちした様子を見せた。
「もしかしたら、今の実験をもう少し深堀して、再現性なども確かめるのかと思っていました」
「!? それって、俺と実験するかもしれないと思ったから、明日は用事があるって言って、フライスたちの誘いを断ったってこと?」
「はい、そうです」
「じゃあ、本当は用事ないの?」
「はい、そうですけど……」
ロイズは、思わずにやつきそうな口元を手で隠して、この何とも言えない喜びを噛み締めた。単純な喜悦の中に、優越を含む満足感が混ざった喜びだったものだから、ロイズはそれを押し込めた。
でも、そんなことを知ってしまったら、もう誘うしかない。ロイズは少し気恥ずかしい気持ちをそっと乗せて、誘い文句をぽつりと落とした。
「じゃあ、実験する?」
そりゃあ、ロイズだってユアとピザを食べに行きたい。仲良しの同級生になって、朝まで彼女とトランプをしたい。
あるいは、ただの23歳と19歳になって、カフェのテラス席に座って二人でお喋りをしたい。アイスレモンティーをストローでクルクルと掻き回す彼女を、ずっと見つめていたい。そして、買い物をしてみたり、可愛い雑貨屋とやらに行ってみたい。目的地ありきの転移ではなく、手を繋いで一日中街を歩いてみたい。
でも、それは出来ないって分かっているから、これが彼の最大の誘い文句。
「します! 先生と実験したいです」
それでも、ユアが嬉し恥ずかし恋する乙女の顔で答えてくれるものだから、これはれっきとしたデートなのだと、ロイズも嬉しくなる。
「じゃあ、9時に呼ぶね」
「はい、9時に」
待ち合わせの時間を決めて、二人の視線が熱っぽく絡まったところで、もう22時半。
「帰ろっか」
「はい、お願いします」
月灯り、海の真ん中、白い家、二人きりの仕事部屋。甘くなりすぎた雰囲気に少し危機感を抱いたロイズは、慌てて彼女に帰宅を促した。
「あ!」
そこでユアが、何かを思い出したように声をあげた。
「部屋に鍵をかけちゃったんだわ。どうしよう、窓も開いてないし、部屋に入れない……」
勢いでロイズの家に来てしまったことを思い出し、ユアはどうしようか考えを巡らせた。
母に頼めばスペアキーで鍵を開けてもらうことは出来る。でも、こんな時間に抜け出したことも併せてバレてしまう。母にバレたところで嬉々として根掘り葉掘り聞こうとするだけだが、問題は超仲良しの夫婦関係にある。要するに、母から父に丸ごと筒抜けなのだ。そうしたら、父の中のロイズの評価が落ちてしまう。それは避けたかった。
「ロイズ先生、私の部屋に直接転移することは出来ますか?」
「私の部屋」
あまりのパワーワードに、ロイズは念のため復唱してみた。やはり強烈であった。
「ごめんなさい、難しいですよね。訪れたことのない場所にピンポイントで転移するのは、とても難しいと教本に載っていました。細かい座標情報がなければ、ほぼ不可能だと。どうしようかしら……」
「できるよ!」
やたらキリッとした顔で、ロイズは答えた。
「え! 出来るんですか?」
「まあね。できるよ」
ものすごくキリッと答えた。『まあね』なんてドヤワード、人生で初めて使った。ドヤァ。
「さすがロイズ先生っ! 凄すぎますっ!」
―― ユラリスが尊敬してくれているっ!! 天才魔法使いで良かった。ユラリスの私室にピンポイントに転移するために、俺は天才魔法使いになったのかもしれない……!
過言である。高尚な大望があっただろうに。
「とは言え、間違えたら大変だからフィルターをかませておこうかな~。部屋の雰囲気とか教えてくれる?」
「は、はい。えっと、二階の東側の部屋で、デスクとイス、本棚が壁一面にあります。デスクの上に白い花と先生の魔力入りネックレスが置いてあります。あとは窓際にベッドがあって、シーツは淡い桃色です」
―― 淡い桃色……
「りょーかい! じゃあ行くね、『家にいる全員、ユア・ユラリスの私室、転移』」
ふわり、ストン。
「わぁ! 本当に転移できましたね、すごいです」
「ここがユラリスの部屋かぁ、可愛……って、うわぁ、ごごごめん!!」
ふわりストンで驚いた。まさかのベッドの上に転移してしまった。勿論、ロイズは超スピードでベッドから降りて、壁際の本棚まで後ずさった。
―― 淡い桃色に捕らわれすぎて、そこに転移してしまうとは……修行が足りないっ!!
後ずさった背中が触れた本棚には、本がビッシリ。上級魔法学園に入学するために死ぬほど勉強したという、ユアの努力が見て分かる。思わずロイズは、その本の背表紙をスーッと撫でた。
デスクの上には、ロイズの魔力入りネックレスが大事そうにケースに入れられている。その横に白い小さな小花が飾られていて、デスクの上には夏休みの課題が置いてあった。
あまりジロジロ見ては失礼だと思い直し、彼女の方へと視線を戻す。ベッドは淡い桃色のシーツにキレイに包まれていて、彼女はベッドに座ったまま、挙動不審なロイズを不思議そうに見ていた。
その彼女の隣の部分のシーツが少し皺になっていて、そこに自分が転移してきたのだとすぐ分かる。その皺に、何とも言えない情欲を掻き立てられた。
ロイズは、その欲に封をするために、ふぅっと息を吐いて、何でもない風に話を振った。
「そういえば、課題は進んでる?」
「はい、もう殆ど終わってます。今はトレーニングをこつこつやってます」
「さすがだね、えらいえらい!」
ロイズが誉めると、ユアは嬉しそうにはにかんだ。そんなものを見せられては、もっと誉めたくなってしまう。これが純粋な教師としての感情ではないのは分かっているから、それもそっと押し込んだ。
「じゃあ、帰るね」
「あ、はい! お疲れ様です」
ベッドから慌てて立ち上がる彼女に向き合って、「また明日」と挨拶をした。
「はい、ありがとうございました」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
本当はおやすみのキスの一つでもしたいけど、それだって出来もしないから、ギリギリ許されるだろう『頭なでなで』だけした。
「おやすみ」
もう一回そう言って、名残惜しい気持ちを添えた。
お風呂上がりの焦げ茶色の髪が、気持ち良いくらいにサラサラで、撫でていた手がツルリと滑り降りる。手の平だけでは足りなくて、指の間に彼女の髪をスーッと通した。指先で髪の先まで味わってから「家、転移」と呟いて、ふわりストン。
ふわりふわりと漂う気持ちが淡い桃色のシーツの間を通り抜け、ストンと落ちつくことはない。
彼女の家と彼の家。
本当はもっと近付きたい、その距離30km。




