57話 その数字の意味を知る
時は少し遡る。
ぽんこつロイズが防御壁を出す前のことだ。時刻は8:40。ユアが転移をしてくる18分前である。一睡もしていないまま朝を迎えてしまったロイズは、研究部屋をウロウロしていた。
「どうしよう。うわぁ、もうすぐ来る~」
どうしよう、どうしよう、と焦っているのは他でもない。抱きしめたくて、キスをしたくて仕方がないからだ。
絶対嫌われたというショックと、人生で初めましての欲まみれの衝動と、『魔力相性の異常値がそうさせるんだ』というもはや無理矢理な言い訳と、教師としての罪悪感と、もうぐっちゃぐちゃの一晩を過ごした。
一度、触れてしまったら最後。もう忘れることなんて出来やしない。それが好みの魔力であろうが、好みの女の子であろうが、センスあふれる天才魔法使いにとっては、どちらも大差ない。
性欲皆無の魔法バカであるため、誰かに触れたいという欲が出たのは初めてのことだった。触らないだけなら簡単だが、その欲をゼロにして彼女と向き合えるようにコントロールするには、たった一晩では時間が足りない。難しすぎた。
何よりも困惑したのが、ロイズ自身の気持ちだ。これが本当に魔力相性の異常値からくる感情なのか、本当に彼女を好きになってしまっただけなのか、彼にはもう分からなかった。
いや、違う。本当は分かってはいるのだ。ユアの血だらけの姿を見たとき、彼女自身を愛していると深く解ってしまった。
でも、それで良いんだと認めることはまだ難しかった。何にせよ、慣れない複雑なことをこなすには、一晩では足りないのだ。
「ぇえーい! どのみちユラリスは俺を好きなわけではないから、ちゃんとしないとっ! 理性、大事。お触り、ダメ、絶対。俺は教師、彼女は生徒! オールライト、オールクリア!」
そして時刻は8:49。ロイズは時計をチラチラ見ながら、そこでハッとした。
―― これって、ユラリスから触られた場合、俺はどういう感じになるんだろう?
彼女はいつもゼロ距離で転移をしてきて、ぎゅっと抱き締めてくる。しばらくそのまま会話をして、ニコニコ笑ってみたり、ずっと引っ付いているのだ。
こんな精神が不安定な状態で引っ付かれでもしたら。果たして我慢ができるだろうか。抱き締め返してしまうのではないだろうか。ロイズだって男だ。抱き締めたらキスだってしたくなるし、触りたくなるだろう。
「マズい。非常にマズいっ!」
時計を見る。8:50。もういつ転移されてきてもおかしくない時間だ。もうすぐユアが来るのだと思ったら、ロイズの心臓がドキドキと高鳴った。
―― うわ、何これ
彼女に会えると思っただけで、鼓動が速くなる。ゼロ距離転移だったらと思うと、もっと速くなった。
―― ちょっと待って。今転移されたら、かなりマズい
このドキドキがそのまま彼女に伝わって、とんでもないことになりそう。歯止めが効かない自信があった。このままでは、彼女に何をするか分からない。
「どうしよう! 一旦落ち着きたい~! 予約キャンセルする!? あぁ~、それはやっちゃいけない気がするー!!」
ロイズの焦りも虚しく、チクタクチクタクと時計の針は進んでいく。8:54、8:55、8:56、8:57……。その瞬間、身体の中心が引っ張られる感覚がした。
―― あ、来る!
「うわぁ、もう無理! 『防御壁!』」
そして、出してはならぬ防御壁を出してしまったというわけだった。
「きゃ、びっくりした……あ、ロイズ先生。おはようござ……」
淡い光と共に現れた彼女は、驚くほど可愛かった。心臓がドキドキして言葉を失う。今まで毎日のように抱きつかれていたわけだが、よく大丈夫だったなと自分を誉めたし、心底呆れた。
―― なんだぁ。ゼロ距離転移じゃなかった。助かった~
「防御壁……?」
ところが、ここからがまずかった。ロイズの周りを取り巻く防御壁に、彼女はとても驚いた様子。その表情を見て、自分の仕出かしたことを自覚する。
―― あれ……これじゃあまるで、俺がユラリスを拒否したみたいな感じになって……る!?
防御壁を出したのは、ユアを守りたかったからだ。囚人を閉じ込める牢屋のつもりで防御壁を出したのに、逆だと思われている様子。かなり焦った。
「あ、ごめん!」
ロイズは慌てて謝るが、ユアは今にも泣き出しそうな顔をして、そのまま背を向けてしまう。その背中が寂しそうで、悲しそうで、自分はとんでもない間違えをしたんだと理解する。
「あ……! うわ! 違う、ごめん、間違えた! 防御壁は違くて、間違えました、ごめん!」
「いえ、そのままで全然大丈夫です。……ロイズ先生、ごめんなさい。今日はちょっと用事が出来てしまって、お休みにしてもらってもいいですか?」
「え」
―― 帰りたいってこと!? 泣きそうな顔してたのに、今そのまま帰したら一人で泣くじゃん! 絶対そうじゃん!! そんなの無理無理無理!
「先生? あの、出来れば帰りたいのですが……」
泣き出しそうな顔はどこへやら。振り向いて機械的にニコッと笑うユアを見て、『あ、これ相当ヤバいやつだ』と逆に焦った。
「うん、えーっと」
どうにか引き止めたい。誤解を解いて昨日のことを謝り倒して、失った信頼をどうにか回復させたい。簡単に言えば、仲直りしたかった。ケンカすらしていないのに。
「ロイズ先生?」
ユアの急かすような問い掛けに、ぽんこつロイズは何を言えば良いか分からなかった。だけど、このまま帰すわけにはいかなくて、どうにか言葉を絞り出す。
「ご、ごめん。このまま帰せない、です」
「?? なんでですか?」
「それは、その、ちゃんと話をしたくて」
「その話は今日じゃないといけませんか?」
「え……」
―― うわぁ、ユラリスが塩対応だ……キツい。ツラい。絶対嫌われてる。どうしよう、一旦帰す? いや、ダメだ。それは絶対やっちゃいけないやつだ。がんばれ、俺! 巻き返せ!
ザッカスを召喚したかったが、それは叶わない。絞り出せるものを、全部出し切るしかない。
「できれば、今日が良いです! それに、ほら、採血もしたいし」
シドロモドロに『採血』という言葉を使った。採血自体は必要ではあるが、今すぐ採血がしたかったわけではない。彼女を引き止められるなら、理由は何でも良かった。
「分かりました。採血、どうぞ」
ユアがすんなりと左手を差し出してくれたので、いくらかホッとする。「ありがとう」と言いながら、魔導具を取り出した。いつもならユアの左手をそっと取るところを、触ったらいけないと思ってしまい、触れないように気をつけた。やたら慎重に魔導具を取り付ける、丁寧なぽんこつ。逆効果であった。
ちょうど三拍後。ユアの血液の色は。
「思った通り……青紫色だ!」
「わぁ!」
―― すっごいキレイな青紫色
赤紫色も好きだったけれど、青紫色も驚くほど綺麗だった。彼女の可愛らしい瞳の色と同じ色。この青紫色が愛しくて仕方がなかった。色が変わっても、やっぱり気持ちは変わらない。
「私、完全に魔法使いになったってことですよね!?」
「うん! そうだよ! すごい、本当に青紫色になった!」
「解は、魔力相性が異常に良いペアでの」
「魔力共有!」
「ロイズ先生~~っ!」
「ユラリス~~っ!」
嬉しさがこみ上げる。自分一人でこの解に辿り着いたとして、ここまで喜びを感じられただろうか。きっと、彼女がいるからだ。二人の嬉しさが重なり合って強め合う。心で感じた喜びが、身体中からあふれ出す。彼女を抱き締めて、宙を舞って踊り出したいくらいだった。思わず一歩近付いて抱き締めそうになって、『ダメだ!』と気付いて衝動を抑える。
「嬉しいですね! ……ロイズ先生、それじゃあ目的達成ということで、帰ってもいいですか?」
「え!?」
「?? 採血がしたかったんですよね?」
「いや、そういうわけじゃなくて、その」
―― 違います! 採血は口実で、ユラリスを帰したくなかっただけです、とは言えない~
言ってしまえば丸く収まるのに、そんなこと言えるわけない。訝しげにしているユアを真っ直ぐに見られなくて、ロイズはあたふたしていた。天才魔法使いのノースキルが過ぎる。
「ロイズ先生。眠くなったので、ベッドをお借りしてもいいですか!?」
「え……」
突然、ベッドを借りたいなんて珍しいこともあるもんだと、少し不思議に思った。だが、これならユアを確実に足止めすることができるし、寝ている間に誤解の解き方や話の仕方を考えておけるのでは。
「あ、そうだね! 使ってどうぞ!」
結果、全力で乗っかった。『目の前の問題は即解決』が恋愛の鉄則であるにも関わらず、先送りにした。ノースキルだった。
「ありがとうございます」
ユアはそう言って、鞄を持って研究部屋を出ていった。
バタン。
「ふーーぅ、危なく帰宅されるところだったぁ」
ロイズは大きく息を吐いて、ドキドキと鳴りっぱなしの心臓に手を当てた。
「すっごい心拍が速い……早死にしそう~」
そこで、ロイズはハタと気付く。
「あれ? こんなに心拍が速いのに、今日は……確か8:58、距離5mでズレが少なかったなぁ」
転移の位置ズレと時間のズレは、二人の心臓の挙動――即ち、心拍数に大きな差が生じたときに、仲良しの魔力同士がズレを補正しようと引っ張り合う力が原因だ。
「……俺の心拍数が、どえらいことになってるのは確かだよね」
ロイズはドキドキと鳴っている心臓に、もう一度手を当てる。こんなに胸がドキドキするのは生まれて初めてのことで、慣れない振動がくすぐったい。
「今日は、8:58、5mということは、ユラリスと俺の心拍数のズレは、少なかったということだよ……ね?」
その考えに至ったロイズは、急激に顔が熱くなる。
―― ユラリスも、同じくらいドキドキしてたってことだ
嬉しいような、恥ずかしいような、叫び出したいような。それを逃がすように、ロイズは足をバタバタとさせる。ユアがこの事実に気付いているかもしれないと思うと、恥ずかしくて逃げ出したくなった。
「二人ともドキドキしてたのかぁ」
ニヤニヤしながらも『彼女は、どういうドキドキだったのかな』とか考え出して楽しくなってしまった。少しくらいは、男として見てもらえてるのかな、とか。
そんなことを色々考えながら、心拍数といえばと何の気なしに実験テーブルの上に置いてあったノートを手に取った。魔力相性の謎を解明するに至った、ユアの心拍数が記録されたノートだ。ロイズはそれをパラパラと見て、今更ながらに気づく。
「あれ? え、待って。どういうこと?」
当時は全く気にならなかったが、考えてみればおかしい。予約転移の際は、『転移前に運動をしているから、心拍数が上がってゼロ距離転移をしてしまう』と、ユアは言っていた。健康的でいいなと思ったから間違いない。
「でも、初めのときは? あの実験のときは? 人間都市でユラリスが初転移したときは? なんで距離が近かったんだろう」
初講義のとき。岩壁に穴を開けるチャレンジで、見事な穴を開けたご褒美に学食を奢るからと、学食前で待ち合わせをしたとき。転移距離は、すでに10cmだった。
助手になった初日、転移実験をしたときは少しずつ距離が近付いていき、ゼロ距離転移になった。
人間都市の魔力補充タンクの前でユアが転移したときも、当たり前に運動なんてしていなかったが、ゼロ距離転移。
「俺の心拍数は普通だった。ということは」
ロイズは、この事実にやっと気付いた。自分が恋をして、相手のことを考えるだけでこんなにも胸がドキドキするのだということを知って、やっと気付いたのだ。気付いた瞬間、両手で顔を隠して、へたり込んだ。
―― うわぁ、ユラリスの好きな人って……
記録ノートの心拍数が、その距離が、彼女の気持ちを伝えてきた。
並んでいる無機質な数字が、『大好きです』『ずっと好きでした』『いつもドキドキしています』『あなたに近付きたい』と、一生懸命に伝えてくれていた。
それでもロイズはロイズだから、彼女の気持ちに対しても、この身体に流れる青紫色に惹かれているだけなのではないかとも思った。魔力相性が見て分かるからこその、天才魔法使いの彼だけが抱えるシガラミだ。
そんなシガラミを抱えていても、ノートに並んだ綺麗な数字がすごく愛しくて。指を滑らせるように、その数字をそっと撫でる。彼女の波打つ心臓の挙動を辿るように、彼女の気持ちを味わうように、二人の距離を測るように、優しく撫でた。
そこで、勢いよく立ち上がる。
「会いたい」
愛しく思うと、どうしても会いたくなる。ユアが寝室に行ってから、まだ10分程度。もしかしたら、まだ起きてるかもしれない。寝ていても、遠目からでもいいから顔を見たかった。ロイズは足早に寝室に向かう。
トン、トン、トン。
「ユラリス?」
ノックをしても返事がない。寝ているのだろうと思い、「少しだけ、失礼しまーす」と誰向けの断りなのか、そう言ってからドアをそっと開けた。
「……え、いない」
ベッドには誰もいなかった。使った形跡もない。
「ユラリス?」
研究部屋以外はやたら狭い家だ。家の中にいないことなど、すぐに確認ができる。すぐさま外に出て砂浜を確認したが、どこにもいない。大声で呼んでみたが、波の音が返ってきただけ。
「禁止魔法があるから、外には出られないはずだし……」
すぐさま浮遊して、海上にある侵入禁止魔法を確認する。驚くべきことに、ロイズの魔法は解除されていた。人が通れるくらいの穴が開いたまま、修復されることなく放置されているのだ。
「ぇえ!? どうやって……!?」
ロイズお手製の侵入禁止魔法。ユアには転移での出入りができないとだけ伝えているが、事実は異なる。
とても物騒なことに、ロイズの侵入禁止魔法は転移だけでなく、浮遊や徒歩、さらには海中を泳いだとしても出入りは不可能。ロイズの魔力を使用している場合のみ、出入りが許可される。
これだけでは不十分で、過去には人間都市の魔力タンクにあるロイズの魔力を悪用して入り込もうとするやつらもいた。当然、浅慮な方法で通過できるわけもなく、悪事は不発に終わったが。念のためと思って、ロイズ以外の魔力を使って出入りしようとすると弾かれるという条件も追加してあった。
これらの条件は、ここに招いた人物に裏切られたり、彼らが操られていた場合を想定しているとも言える。もし研究結果を持ち出されるようなことがあっても、絶対に逃がさないということだ。ユアを信頼していないという誤解を与えたくなくて、彼女には転移だけができないと説明をしていた。
そんな厳重な侵入禁止魔法が、解除されているわけだ。ロイズは破られた箇所をじっと見る。
「これ……ユラリスは、普通に浮遊で通り抜けたんだ。そうか、魔力共有をしたから……ユラリスの魔力は、俺の魔力でもあるのか……」
通常の魔力共有では、こんなことは起きない。しかし、異常値のペアである二人の魔力は、引き合い強め合い、そして重なり合って一つになる。そうして、ロイズの魔力が彼女を魔法使いにしたのだ。
「そうなると、魔法陣の条件に矛盾が出ちゃう……だから、禁止魔法が解除されたのか」
魔法陣というものは存外難しく、考え得る条件を細かく設定して描き込まなければならない。細かい条件を描くのであれば、より美しく描く技術が求められるし、頭の中で条件を整理整頓する能力が必要になる。条件を取りこぼしていたり、矛盾している条件を描いてしまえば、そこが弱点になるのだ。
そして、このときロイズは条件を取りこぼしていた。
ロイズの魔力を持っているユアが、彼女自身の魔力を使って脱出する。これは『ロイズの魔力を使えば通過できる』という許可条件と『ロイズ以外の魔力を使ったら通過できない』という禁止条件が両立しない希有な状況。ユアの魔力は、ロイズのそれであり、彼女のそれでもあるのだ。
この世で、たった一人だけ。その矛盾した存在を前にして、侵入禁止魔法は脆くも解除されてしまったというわけだ。
禁止するものがなくなった自由な海。ロイズは波の音を聞きながら立ち尽くす。
「海の上を浮遊してまで……そんなに帰りたかったんだ……」
さっきまで有頂天だったロイズは、一気に叩き落とされた。そんなに傷つけてしまったのかと、そんなにこの家に居たくないのかと、ショックで目の前が暗くなる。
防御壁なんか出したせいでこんなことになるだなんて、自分は一体何を防ぎたかったのか。どうしようもない自分の頭を、強めに殴った。
頭がグラリと揺れて、そこでハッとする。
「あの子、採血してる!」
採血後は、どんな魔法使いだって眠くなる。お腹が減るよりも先に眠くなるのだ。そんな中で魔法を使ったりしたら、急激に眠くなって……。
「ダメだ! 海に落ちる!」
ロイズは浮遊魔法を加速させ、ユアを追いかけた。




