56話 防御壁は心を折る
ユアは自室に入った瞬間、声にならない声で叫んだ。
「~~~~っ!!」
―― すっっっごく、『男』って感じでしたぁぁあ!
熱っぽい飴色の瞳。キスの間に漏れる吐息。キスを深くしようと、求めるように掛けられた体重。いつの間にか外されていたワンピースのボタンと、その手つき。左手と右手が別々に動く、あの感じ。
キスをして見つめられたとき、まるで自分が彼のものになったような充足感が身体を支配した。
「くっ……! ストップかけなきゃ良かった!」
あのとき、ロイズと手を離した瞬間に、急に意識がハッキリして、魔力切れの症状もなくなっていた。
それまでは、ふわふわ~のぼんやり~とした記憶しかなく、キスをしていたことは覚えているが、いつ北の荒野からロイズのベッドに移動したのかも分からないくらいだ。
ロイズにストップをかけたのは、意識が戻ったことで、汗をかいていたことを思い出したり、下着はどんなのだったかなとか思ってしまって、思わず『先生』と呼んでしまっただけだ。
「小さいことなど気にせずに、あのまま突っ走っておけば……! なんてもったいないことをっ! 悔やまれるわね」
真面目で不真面目なユアは、やる気マンマンであった。本当に処女だろうか。きっと心は処女ではない。
「でも、あそこで帰さなくても良くない!? 最後までしてくれても良くない!? もー!」
ロイズの心配とは裏腹に、全くの別方向で憤慨していた。
彼氏がいたこともない非モテのユアは、当たり前にファーストキスであった。初めてのキスが大人のキス。しかも、相手はずっと片思いをしていた担任教師。欲を抑えきれない様子で、ワンピースを脱がしに掛かってきたところも含めて、こんな満点なシチュエーションはなかった。欲求不満の十代女子にとって、ロマンチックとかどうでもいい。
そうして、脳内でリピート再生をしまくってキャーキャー言った後、ユアは真面目スイッチを入れる。
「魔力の共有をすると、誰でもあんな感じになる……ってことはないわよね。そんな話、聞いたこともないわ。となると、ロイズ先生と私だけ? 異常な魔力相性から来るものなのかしら……。それに、魔力共有の影響がどこまであるのか、確かめたいところよね。他に魔力相性が異常なペアがいればいいのに」
そして、気になるのは。
「現在の血液の色、何色かしら。大幅に魔力量が上がってることを考慮すると、やっぱり青紫色かしら」
ユアは魔力共有後、しばらくして自分の魔力量が大幅に上昇していることに気付いた。感覚的には、今まで薄かった魔力の濃度が濃くなったような感じだ。
「明日の採血が楽しみ~! とは言え、どんな感じでロイズ先生と会ったら良いかしら。抱きついても良い? やめとくべき? 悩むわね」
ロイズが自分のことをどう思っているのかイマイチ掴みきれていないユアであったが、キスまでしておいて『君のことは何とも思ってないよ』なんてことは、さすがに無いだろう。もうほぼ恋人みたいなものだろうと、真面目で素直なユアは信じ切っていた。
唯一の懸念として、ロイズが女性恐怖症という点だ。キスをしたことで、ユアのことを嫌だと思ったりするのだろうか。
「でも、今までも、私が触れたときに嫌がるような素振りはなかったのよね。本当に女性恐怖症なのかしら……明日、聞いてみようかな」
胸がいっぱいで、夕食は少しだけ食べて、明日に備えて早めに寝た。いい夢を見れた。ロイズと違って、グッスリであった。
翌日。ユアは早起きして、服を選んだり、下着を選んだり、大忙しであった。とうとう下着を選ぶ必要が出てきたことに乾杯。
同じく帰省中の妹を叩き起こして、髪のセッティングを手伝ってもらったりした。
お姉ちゃん大好きっ子の妹は、ニヤニヤしながら『ロイズ先生とアレね? お泊まりしちゃいなよ。アリバイは任せて。パパにはテキトーに言っとく♪』と、力一杯に茶化してきた。パパが可哀想。
予約転移が差し迫った、8:50。
それはもう胸がドキドキして、会いたくて触れたくて、仕方がなかった。この心拍数ならば、10分前であっても転移されることだろう。
ユアは一番お気に入りのワンピースを着て、鞄を持って、胸に手を当てて転移を待った。だが、転移がされない。8:55、8:56、8:57……時計はチクタク進んでいくが、転移がされない。
「え、もしかして、予約転移がキャンセルされてる!?」
ロイズがユアを嫌ってしまった場合、助手は即解雇の上で、予約転移などすぐにキャンセルされるだろう。人間を魔法使いにする解が見えてきた今、助手解雇も大いに有り得る。
ユアはその可能性を考えてしまい、血の気が引いた。その瞬間、8:58。
ふわり、ストン。
「きゃ、びっくりした……あ、ロイズ先生。おはようござ……」
ロイズの家の研究部屋。夏休みに入って以降、学園ではなく、ここに予約転移されるように設定変更がされていた。この真っ白な研究部屋で、ユアは毎朝、ゼロ距離転移でおはようの挨拶をしていたのだが。
今日は距離があった。その距離、5mと。
「防御壁……?」
ロイズを中心として、囲われるように防御壁が施されていた。『俺に触れないで』と突きつけてくる分厚い壁に、ユアは頭をガツーンと殴られた心地がした。
―― キスしたの、嫌だったんだわ……
目を見開いたままロイズと視線を合わせると、真っ青な顔で「あ、ごめん!」と謝られた。きっと、思わず防御壁を出してしまったのだろう。キスも、抱きつかれるのも、嫌だったから。
そびえ立つ防御壁を見て、ユアは思ってしまった。ロイズは自分のことを異性として好きなのではない。元人間の魔法使いだから側に置いていただけで、そこに特別な感情があるわけではないのでは、と。
愛おしそうにしていたのは、きっとユアの魔力に対してなのだろう。ロイズの過去の話をしてくれたのは、研究へのモチベーションを上げるため。家に呼びたがったのも、いつもお菓子を用意してくれていたのも、両親に『これからは僕も守ります』と言ってくれたのも、そこに愛とか恋とかそういうものがあったわけじゃない。
彼にとって、自分は貴重だけど、大切ではない。ユアはそう思ってしまった。防御壁越しに見る彼は、とても遠い存在だった。
―― あ、ダメ。泣きそう
ここで泣いたら彼を困らせるだけだ。グッと堪えて、実験テーブルに荷物を置くのを装って、何でもない風に背を向ける。堪え切れなかった涙を一滴だけ流して、あとは耐えた。
「あ……! うわ! 違う、ごめん、間違えた! 防御壁は違くて、間違えました、ごめん!」
ロイズは慌てた様子で防御壁を消していた。でも、ユアは「いえ、そのままで全然大丈夫です」と、俯いて答えるしかなかった。
―― ダメだわ、耐えられない。これ以上、ここにいたら泣く、今日は無理
「ロイズ先生、ごめんなさい。今日はちょっと用事が出来てしまって、お休みにしてもらってもいいですか?」
背を向けたまま明るい声で言うと、ロイズは「え」と戸惑うような声を出すだけで返事をしてくれない。
ユアはふーっと息を吐いて悲しい気持ちを逃がしてから、一度ニコッと笑った。笑えるか試した。そして、そのままロイズの方を見て「先生?」と、何でもない顔で声をかける。
「あの、出来れば帰りたいのですが……」
「うん、えーっと」
歯切れの悪いロイズに、ユアは段々と腹が立ってきた。魔力共有の影響なのかもしれないが、そっちから勝手にキスをしたくせに。転移で呼びつけておきながら防御壁でブロックして、しまいには帰してくれない。なんという仕打ち。
「ロイズ先生?」
「ご、ごめん。このまま帰せない、です」
「?? なんでですか?」
「それは、その、ちゃんと話をしたくて」
―― もう触ってこないでほしいって話よね。もしくは助手解雇の話かな。……そのどっちもかしら
心が毛羽立つ。防御壁は、心の壁。話なんて聞きたくなかった。完全にへそを曲げていた。
「その話は今日じゃないといけませんか?」
「え……、できれば、今日が良いです! それに、ほら、採血もしたいし」
採血という言葉が、ユアに重く深く刺さる。
―― 採血したいだけってこと?
「分かりました。採血、どうぞ」
ユアが左手を差し出しと、ロイズは「……ありがとう」と言いながら、左手に触れないように魔導具を取り付ける。いつもは優しく手を取ってくれるのに。
―― なにこれ。触りたくもないって感じが、ダダ漏れですけどーー!?
腹が立った。さっさと採血をして帰りたかった。
ちょうど三拍後。ユアの血液の色は。
「思った通り……青紫色だ!」
「わぁ!」
へそを曲げていても、さすがにユアも感動の声を上げてしまった。
「私、完全に魔法使いになったってことですよね!?」
「うん! そうだよ!! すごい、本当に青紫色になった!」
「解は、魔力相性が異常値を叩き出すペアでの」
「魔力共有!!」
「ロイズ先生~~っ!!」
「ユラリス~~っ!!」
じんわりと心が温かくなる。ずっと隠してきた赤紫色。一生、隠して生きていかなければならないと思っていたのに、それが青紫色になったのだ。
ずっとずっと、何者でもなかった。魔法使いでも人間でもない、中途半端な自分。でも、とうとう青紫色になったのだ。目の前の飴色の瞳を潤ませる魔法使いと同じ、本物の魔法使いになれた。嬉しさが込み上げてくる。
思わず抱きつこうと、ロイズに一歩近づいた。しかし、彼がビクッとしたのを見て思いとどまる。
―― もう、ギュッとすることなんて、ないのよね
防御壁が消えたって、それを出した事実が消えるわけじゃない。「嬉しいですね!」なんて言いながら、笑顔で誤魔化しておいた。
―― 泣きそう。帰りたい
嬉しい気持ちは半減。こんなことにならなければ、手放しで喜びを共有できたのに。今の自分は赤紫色ではない。貴重でもなんでもない、どこにでもいる青紫色になったのだ。お役御免というやつなのかもしれない。
「ロイズ先生、それじゃあ目的達成ということで、帰ってもいいですか?」
「え!!?」
「?? 採血がしたかったんですよね?」
「いや、そういうわけじゃなくて、その」
またもや歯切れが悪いロイズに、またもやイラッとした。
―― なんで帰してくれないのよ!?
通常の侵入禁止魔法であれば、外から中に入ることができないだけで、中から外に出ることは簡単だ。
しかし、ロイズの家や研究室に施されている侵入禁止魔法は通常のそれとは異なる。その条件はとても厳しく、ロイズ本人が発動した転移魔法、すなわちロイズの魔力を使用したときのみ通過できるという条件が施されている。ロイズからは、そう説明を受けていた。
ユアも転移魔法を少しずつ使えるようにはなっているが、ロイズが転移してくれない限り、ユアは帰れない。立派な軟禁である。
―― でも、抜けがあることくらい知ってるわ。転移をしなければいいのよ。そっちがその気なら、こっちはこっちで勝手に帰ります!
「ロイズ先生。眠くなったので、ベッドお借りしてもいいですか!?」
「え……あ、そうだね! 使ってどうぞ!」
「ありがとうございます」
ユアはそう言って、鞄を持って研究部屋を出た。
バタン。
研究部屋のドアの音が、やたら響いた。




