狂気の黒
それは悪夢を体現したかのようだった。
姿を現したのは茶色の肌を持った巨人。
頭頂部には角が生え、何よりもその顔には大きな目が一つあるだけ。
単眼の巨人が唸り声を上げる。
やがてその唸り声は言葉を紡ぎ始めた。
「クろきシ、魔王サマの命にヨり、きさマのイノちはもらウ」
発音のせいか聞き取りにくい部分もあるが、言葉を話す魔物がいるなんて聞いたことがない。
准将はその言葉に、剣を鞘に収めた体勢で応える。
左手に鞘を持ち、右手を柄に添えて、身体全体を弓のように引き絞る。
「きさマはすグには殺さナい。手足をもガれて這いツクバりながら部下ドもを殺ス様を存分に眺めルガいい」
魔物の不気味な宣言によって重く立ち込めた空気の中、カチンという軽い金属音が響く。
場違いに思えた涼やかな音が私達を悪夢から現実へと引き戻した。
「散開! 距離を取って、皆!」
ミラ少尉が叫ぶと弾かれたように走りだす隊員たち。
准将は先ほどの姿勢のまま、動こうとはしない。
私は自分でもよく分からない思いに動かされながら彼に向かって走りだす。
「准将ーー!」
「シねぇェェェェ!」
私が准将を呼ぶ声とほぼ同時に呪詛の如き雄叫びと共に巨人がその筋骨隆々とした右腕を振り上げる。
その瞬間、あらぬ方向へと吹き飛んでいく右腕。
地面に落ちて軽い地響きを起こす。
「え?」
それは誰が上げた驚愕の声か。
ありえない状況に皆の顔が驚愕に染まる。
もっとも、この中で一番驚愕に彩られたのは右腕が吹き飛んだ当の本人だろう。
肩から先が無くなり、血を吹き出すのをきょとんとした顔で見つめている。
「おレの腕ガーー!?」
やっと意識が現実に追いついたのだろう。
血が流れ出る傷口を押さえようとして左腕を伸ばす。
そしてその左腕もまた、肩のあたりから切り離されたように地面に落ちる。
「アが?!」
驚愕と痛みによるものか、短い悲鳴を上げる巨人。
身を捩った瞬間、地面を踏みしめる両足の膝上に真一文字に緑色の直線が走る。
捩らせたままに地面に倒れ込む巨人。
その足は地面に立ったまま、緑色の血液を噴水のように吹き上げていた。
「ナ、なニ? 足、足ガぁーーーー!」
両手両足が完全に切り離されていた。
それをやったのは他でもない准将だったのだろう。
一瞬のうちに勝敗が決していた。
「俺の手足をもぐんじゃなかったのか?(性的な意味で)」
その声が聞こえたのは私と、当の巨人だけだっただろう。
准将の声はいつものいやらしさと常にはない愉悦を大いに含んでいた。
「ヒッ……タスけて、死にたくナイ」
「そう言って命乞いをした人間を何人殺した?(性的な意味で)」
准将の手の中で再びあの金属音が鳴る。
巨人の角が根本から落ちる。
「ヤメ……やめテ」
「何人殺したかと聞いてるんだ(性的な意味で)」
今度は右の耳。
准将が問い掛け、巨人が答えられないと体の一部が喪失していく。
相手が魔物だからってこんなことは許されない。
相手が魔物だからって嬲り殺しにするようなことはしてはいけない。
「止めて下さい、准将!」
「邪魔をするな(性的な意味で)」
後ろから飛び付いてみたはいいが、にべもなく振り払われる。
それでも、准将にこんなことをさせるわけには行かない。
あの優しかった准将に戻って欲しい。
その一心で魔物と准将の間に立ちはだかる。
「シューストー少尉、三度は言わない。邪魔をするな(性的な意味で)」
冷たい声色に挫けかけた心を奮い立たせる。
こんなのはおかしい。こんな准将は嫌だ。
「ダメです。もう止めてください。こんなの准将じゃない」
「俺は俺だ。三度は無いと言ったぞ?(性的な意味で)」
胸の装甲の下側、腹のあたりに衝撃。
鈍い痛みと同時に息が詰まる。
殴られたと気付いたのはいつだったか。
その場に崩れ、喘ぐ私に准将は冷ややかな視線で見つめてくる。
昼間食べたものを吐き戻し、咽ぶ私を一顧だにすることなく再び剣に手を掛けた。
「……ダメです、准将」
吐瀉物にまみれた手を准将に向かって伸ばす。
ダメだ、殺させてはダメだ。
そんなことをすれば、私たちは魔物と同じになってしまう。
動かない死体を嬲る小型の魔物の姿が頭によぎる。
狂気と殺気に満ちたあの眼。
准将はあんな眼に染まって欲しくはない。
「女の子の頼みは聞くべきだと思うよ、英雄どの?」
再び光の柱が立ち昇る。
その中から聞こえた声が准将の動きを止めた。
言葉こそ優しいが、その声色は嘲るような色に染められ、嫌悪感を催す。
治まったはずの嘔吐感が再び首をもたげてくる。
「魔王サマ……」
地面に倒れた一つ目の巨人が呻く。
これが魔王の声?!
驚く私の前でその巨人が柱の中に吸い込まれるようにして姿を消す。
「私の可愛い部下にこれほどの仕打ちとは。君は歴代の円卓の騎士の中でも最強と謳われた初代にも匹敵するかもしれないね」
若い男の、けれど嫌悪感を催す声で魔王はただ話し続ける。
「でも私も歴代魔王の中では最強でね」
キィィィンと甲高い金属音が鳴った。
准将が剣を振り抜いた姿勢で固まっている。
「おやおや、話の途中で斬り掛かってくるとは気の早い英雄だ。様式美というものを理解してくれないと困るな」
准将の剣を防いだ? どうやって?
近くにいた私でさえ気が付かなかったほどの剣撃を物ともしない光の柱。
単純にとんでもなく硬いとかだろうか?
「これはいわばゲームのイベントだよ。中ボスを倒して浮かれている勇者一行にラスボスが警告するんだ。『お前らごときでは私を倒すことは出来ない』とね」
「黙れ。これはゲームなんかじゃない。紛れも無い現実だ。貴様の尺度で物を言うな(性的な意味で)」
二人が何を話しているのかは理解出来なかった。
どんな言葉を話しているかは分かる。
けれども、分からない単語が多すぎて理解が出来ない。
「どっちでもいいよ。私のやることは変わらない。貴様ら人間を根絶やしにして、私の可愛い魔物達で世界を埋め尽くすんだ。美しい光景だろう?」
「させないと言っている(性的な意味で)」
准将は何度も剣を振り下ろす。
狂気を感じさせるほどに何度も、何度も、何度も。
金属同士がぶつかり合うような音が荒野に、街に、戦場に響き渡る。
「掴んだよ」
突然の魔王の言葉がその動きを止めさせた。
掴んだとはいったい何のことだろうか?
「君の心は美しいね。繊細で光り輝いている。それでいて狂気の黒もまた蠢いている」
「くっ……貴様、何をした?(性的な意味で)」
胸のあたりを掻き毟るようにして剣を取り落とす准将。
鎧に包まれた身体では何が起こっているのかは分からないがずいぶん苦しそうだ。
「この黒にちょっとだけ私の黒を足しただけだよ」
「准将っ!」
近付こうとした私に准将が拒絶の声を上げる。
「来るな! 僕は君を、アイナを殺したくない!(性的な意味で)」
准将はうずくまったまま、荒い呼吸をしている。
やがて、剣を拾うと私の方に切っ先を向けた。
「准将?! どうしたんですか、准将!」
「ろうそくは消える前のほんの一瞬、明るく輝くって言うからね。狂気から逃れる一瞬を君のために使い果たしたんだよ」
魔王の声が私の背後でいやらしく響く。
准将とはまた違う、嫌悪感を呼び起こす声で囁く。
「さあ、第三戦の始まりだ。相手は狂気に染まった英雄どの。彼を止めてみせたまえ」
振り下ろされた剣はゆっくりとした速度で私に迫る。
間に差し出されたのはミラ少尉の大剣。
耳をつんざくような音と共に襟元を掴まれて放り投げられた。
「どういうこと?! どうして准将が?!」
准将の剣を自らの大剣で受けながら彼女が疑問の声を上げる。
魔王が准将の狂気を増幅させた、私はそう理解している。
立ち上がって叫ぶ。
「魔王が、准将の心を操っているんです! どうにかして正気に戻さないと!」
「成功報酬は私の居城の位置。失敗報酬は君たちの命でどうかな?」
その声を最後に光の柱が姿を消した。
残されたのは狂気に染まった黒騎士。
魔物相手とはまた違う絶望的な戦いが始まろうとしていた。




