紋章術
「おはようございます!」
執務室に入ると、何故か先任の姿がない。
真っ黒鎧は指定席に鎮座しているというのに。
「あれ?」
その真っ黒鎧はというと何故か微動だにしない。
ひょっとして中身が無いのだろうか?
「ちょっと失礼します」
覗きこむと見えるのは閉じられた目蓋。
ふと聞こえてくるのは寝息。
どうやら眠っていたようだ。
……そういえば、准将の居室ってどこなんだろう?
まさかここで寝泊まりしているというわけではあるまい。
もう一度覗きこむと黒い瞳と目が合う。
「うわっ(性的な意味で)」
「ひゃっ」
目が覚めて目の前にいた私に驚いたのであろう。
彼はその場で派手な音を立てながら椅子ごとひっくり返る。
「き、来てたのか(性的な意味で)」
「はい。おはようございます、准将」
朝から実にいやらしい響きだが彼には非がないのだと普通に挨拶する。
ガシャガシャと金属音を立てながら立ち上がると、彼は何かを探すような動きをする。
「挨拶くらいは黒板越しでなくても大丈夫ですよ」
「そ、そうか。おはよう、シューストー少尉。今日は早いな(性的な意味で)」
足元に落ちていた黒板を拾い上げて手渡しながら言うと、安心したようにいやらしく返してきた。
やっぱりちょっと嫌だ。
「ところで、先任は?」
「先任? ああ、ビュートか。あー……今日は砦の方に行ってもらっている(性的な意味で)」
挨拶の流れで黒板を使わずに会話したことに途中で気付いたようだったが、そのまま話すことにしたようだ。
蠱惑的な響きが気にはなるが、気にならなく……はならないな、やっぱり。
先任→ビュートということは、先任のフルネームはビュート=サイオンか。
砦というのは王都の北側にある山脈の谷間に設置された要塞のこと。
天然の擁壁である山脈に阻まれて容易に攻めることができないために敵の戦力は谷間に集中する。
そこに要塞とともに軍を布陣すれば並の戦力では崩せない。
たまに山脈を越えてくるものがいるが大規模な戦力ではないために物量で圧倒的に有利なこちら側に軍配が上がる。
これがあるからこそルクセン中将の守りの態勢で十数年もの間、王都への侵攻を許したことはなかった。
黒騎士の力でかなり押し返せたため、十数年間ずっと最前線だった砦もいまや中継点。
いったいどんな用があるのだろうか?
『ということで、今日は二人きりだから』
「そうですか」
素っ気なく返したが、黒板越しの会話で良かった。
いつもの調子で言われていたら何をしたかわからない。
さすがに研修中に刃傷沙汰はまずかろう。
少し空気を変えよう。
「何か飲み物はありますか?」
『右の棚にお茶が入ってるよ』
さすがは准将の執務室、最高級の茶葉が当たり前のように並んでいる。
ヤカンを探してみたが見当たらない。ポットはあるのだが。
ふと思いついて蛇口をひねり、ポットに水を汲むと赤い紋章が浮かび上がってくる。
もしやと思っていたがやはり将官の執務室。
まさかポットに紋章術が施してあろうとは。
紋章術とは最近構築された術式理論。
おとぎ話によくある魔法の類と思ってもらっても……いや、ここは断言しておこう、魔法だ。
大事なことなので何度も言うが魔法だ。
なにしろ士官学校に入学した第一動機は「魔法を使ってみたい」だったからである。
紋章術は武具や道具に刻みこむことで紋章に込められた術式を発動するという代物。
ポットに浮かび出た赤い紋章に術力を与えると、紋章が輝いて術式を働かせる。
魔族を押し返しつつあるのは何も英雄だけの力ではない。
ここ最近になって出回り始めた紋章術が兵士の力を底上げしていることにも起因する。
矢に刻めば炎の矢や氷の矢、果ては雷の矢さえも可能なのだ……理論的には。
現在紋章術で出来ることは鎧の硬化、剣の耐久力アップ、湯を沸かす、虫除け、くらいの物。
ポットには『沸騰』と刻まれている。『ふっとう』と読むことは分かるし、その意味が『お湯を沸かすこと』というのは分かるのだが、この国の文字ではない。
王立図書館にはこの文字で書かれた書物も多かったために、一応読むことは出来る。
この国の言葉に翻訳された昔の本を基にして自分なりに辞書を作ってみたりしたことがあるだけだ。
何やら無駄に角ばった文字と逆に簡単な作りの丸っこい文字が並んでいて暗号のようではあったが、なかなかに楽しい作業ではあった。
私なりにこれらのどこの国の物かはわからない謎の書物を紐解くと恐るべきことが分かった。
なんと、その国の人間は果物から生まれ、動物と会話することさえ出来るというのだ。
かと思えば、海の中でも呼吸をし、時間移動すらも出来たという。
その謎の国の技術を使った紋章術なら最終的にそんなことまで出来てしまうのだ。魔法って素晴らしい!
……閑話休題。
湯が沸いたので二人分の茶葉を入れてしばし蒸らす。
茶漉しを使ってカップに注ぐと少し見とれる。
高級茶葉なだけあって香りはさることながらその澄んだ宝石のような色合いは素晴らしいの一言に尽きる。
「准将、お茶が入りました」
『ありがとう』
自分の机に座り、カップを傾ける。
口の中にスーッと抜けるような爽やかさ。
これ、本当に美味しい。
お茶の渋味さえ後味のサッパリ感を際立たせる。
今度、お菓子持ってこよう。
「准将はどうですか?」
そちらを見ると、カップを両手で挟むようにして持つ黒騎士の姿。
カップからはストローが伸びて兜の隙間、おそらく口元へと消えている。
「うん、美味しいよ(性的な意味で)」
どう返せば正解だったのか。
「えーと……よかったですねー」
とりあえず無難な返事でとどめた私だった。




