【完】青い封筒が運ぶ想い
小湊鉄道は今年で開業100周年を迎える。
五井駅から上総中野駅まで、穏やかに走るローカル列車。
春には菜の花、秋には黄金色の稲穂が風に揺れ、訪れる人々を優しく包み込む。
窓の外に広がる菜の花畑をみると、
春子とリュカが交わした手紙の時間を、まざまざと思い浮かべる。
当時はまだ、スマホもSNSもなかった。
遠くの誰かと心を通わせる唯一の手段は、封筒に託す「手紙」だった。
言葉も文化も違う。大陸と海が隔てる距離は、簡単に越えられるものではなかった。
それでも――文字は想いを運んだ。
風の香りや季節の色までも一緒に連れて、相手の心にそっと届いていった。
それは、電話にもメールにも真似できない、静かで確かな奇跡だった。
封筒は数カ月に一度だけ届く。
返事を待つ時間は長く、不安になることもある。
けれど、その長い時間こそが、相手を思う尊い時間だった。
便箋に向かうとき、人は言葉を丁寧に選ぶ。
急がず、飾らず、嘘もつけない。
一文字一文字が、その人の人柄とぬくもりを映し出す。
手紙は形として残る。
震える文字、インクのにじみ、押し花のかすかな香り――
そのすべてが、「たしかに相手がそこにいた」という証になる。
だからこそ、手紙は時を超えて生き続けるのだ。
もし、誰かを想う気持ちがあるのなら――
どうか、その想いを手紙に託してほしい。
短くてもいい、不器用でもいい。
あなたが誰かを想った証は、いつかきっと誰かの心を温める。
小湊鉄道の車窓に映る春の光と菜の花の景色のように、
文通はゆっくりと、でも確かに、人の心をつないでいく。
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リュカさんへ
お元気ですか。
あなたと手紙を交わしはじめて、もう三年が経ちました。
届かなくなってから、一年が経とうとします。
青い封筒がポストに届くたび、私は季節よりも先に、あなたのぬくもりが遠くからやって来るのを感じていました。
けれど、この手紙を最後にしようと思います。
春の風が菜の花畑を揺らすたび、あなたを想います。
あなたの笑顔も、声も、私は知りません。
それでも、あなたがどんな人かはわかります。
数枚の便箋にこめられた言葉の温もりが、それを教えてくれました。
私たちはこの先も会うことはないでしょう。
それでも、心は届くと信じています。
あなたが遠い国で同じ空を見上げていると思うだけで、不思議と勇気が湧くのです。
どうか、あなたがこれからも幸せでありますように。
封筒を通して、
あなたに出会えたこと。
あなたという人の存在を知れたこと。
それが、私の人生の宝物です。
大好きでした。
本当に、ありがとう。
春子より
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春子さんへ
お元気ですか?
きっとこの手紙も読むことはないのかもしれません。
それでも春子さんに書かずにいることの方が、耐えられなかった。
でも、これで最後の手紙にします。
いつからでしょう。
春子さんの手紙を待つ時間が、私の一日の一部になっていったのは。
朝、ポストを開けるときの静かな期待。
見慣れた青い封筒があるだけで、世界が少し優しく見えたのです。
互いに会ったことがなく、ただ文字だけで心を交わしてきました。
けれど私は知っています。
春子さんがどんな花を好きで、どんな景色に心を留める人なのか。
誰かを想うとき、すぐに言葉にしないで、ゆっくり大事に温めてから伝える人だということも。
いつか春子さんが教えてくれた、黄色の菜の花を必ず見に行くよ。
その時、隣にいてくれたら嬉しいけれど…きっとそれは叶わないだろうな。
どうか、あなたが穏やかでありますように。
遠い国にいる私の願いなど、風に溶けて消えてしまうかもしれません。
けれど祈らずにはいられないのです。
あなたが誰かに優しくされ、愛される人生でありますように。
春子さん。
あなたに出会えてよかった。
言葉を信じることを、あなたが教えてくれました。
心から愛していました。
本当にありがとう。
リュカ
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終わり。
リュカはその後、生涯独身を貫きながらも一冊の本を書き上げました。
タイトルは――『青い封筒』。
著者名は リュカ・ローラン。
それは、遠い日本に生きた一人の女性へと宛てられた、決して届くことのない恋文の記録でした。
ページを開くたびに、彼の言葉は静かに春子を探しています。
会えなかったふたりの物語は終わりではなく、読む人の胸の中でそっと続いていくのかもしれません。
――いつかこの世界のどこかで、
リュカが書いた春子への純愛小説を手に取る日が来ることを、私は願っています。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。




