お母さん
「……?」
目を開ける。寝具の上で寝ていたようだ。日差しが差し込み、朝であることを主張している。
時間が飛んでいるこの現象に、一瞬頭が混乱した。だがすぐに思い出す。この世界に来るまで、毎日当たり前にあったことだ。
私は眠り、朝を迎えた。ただそれだけだ。
どうして突然、寝たのか。眠る機能がでてきたのか。わからないが、寝起きの何とも言えない心地よさが、眠ると言うのはこんなにいいものだったかと思い出させてくれた。
私がこの体を得たのは神の思し召しだと思い込んでいた。きっと神がそうしたのだろうと。なら、これもそうなのだろう。人の身で理解できないことは神がなしたことなのだ。
きっと、もう私は不眠不休でなさなければならないことはない、と。そういうことなのだろう。今まで寝なかったのはあの北での夜の侵攻を防ぐためだったのかもしれない。
何はともあれ、これからは夜は寝るのだろう。それは、仕事をできる時間が半分になることになる。
だけどそれ以上に、毎日このすがすがしい心地を味わえるのかと思うと、とても楽しい気分になった。
「お師匠様? 起きてますか?」
「あ、ああ、リョンか。起きていますよ」
こんこんとノックされ、その声にびくついてしまった。リョン。私の弟子で、昨日、お母さんと呼んで胸の中で眠ってしまった相手。
その情報が一気に脳内を駆け巡る。そうだった。言われたからと言って、お母さんって。今思い返しても、恥ずかしい。
入ってきたリョンは、私の顔を見てほっとしたように微笑んだ。
「お顔の色もいいようで、よかったです。眠られるのをはじめてみましたけど、可愛い寝顔でしたよ」
「リョン、からかうのはやめてください」
「からかってませんよ。朝食の用意はできています。食事にしましょうか」
「はい、ありがとうございます」
リョンは昨夜のことは何も言わず、ごく普通にお師匠様と呼んでいる。
きっとあれは、あの沈んだ私を慰めるためにしてくれたのだろう。強引すぎる気もするけれど、確かに、優しい母がいたらあんなふうに抱きしめてくれるのだろうと言う疑似体験には十分だった。
……だけど、少しだけ、もう、あれで終わりなのだと思うと、残念な気になってしまった。
恥ずかしいし、リョンが母親とか、やっぱりありえないだろうと思うが、あんなふうに受け止められる心地よさは他になく、すぐ寝てしまったのはおしいな、と思った。
どうせ恥をかいた一晩だけのことならば、もう少し、なりきって子供のころを取り戻すように甘えればよかった。
なんて、ありえないことだ。
そんな風に考えた自分に自嘲しながら、私は昨日と同じように、仕事をすることにした。
それからもリョンは、夜のことなんておくびにも出さず、なんならなかったのではないかと思わせるようないつも通りの態度で、ヨータにもおかしく思われることもなく、安心して師匠面することができた。
○
「お師匠様? 今、大丈夫ですか?」
「はい、どうぞ」
夜になり、またリョンが訪ねてきた。昨日の今日なので、すこしドキリとするが、昼間は普通だったのだから、今更昨夜のことをからかってきたりしないだろう。
招き入れると、リョンはニコニコしながら私の隣に座った。
「リョン? 今日はどうされました?」
「リョン、じゃありません。お母さん、でしょう?」
「え、そ、それはもう終わったでしょう」
「何言ってるんですか。親と子の関係なんて一日で終わるものではないでしょう。これからずっとですよ。もちろん、さすがに人前では、ほしの立場もありますから、今まで通りにしますけど。夜はちゃんと、甘えていいんですよ」
「んぐ……」
微笑んで抱きしめられた。どうすればいい? 普通にちょっと、嬉しいと思ってしまった。だが、素面で親子プレイをするのは厳しくないか。私が酔ってなくても、リョンが酔っていれば多少セーフなところあったが。
「りょ、リョン。気持ちは嬉しいですが、恥ずかしいですし、無理に親をしてくれなくても、昨日のだけで嬉しかったですよ」
「何言ってるんですか。ぜんぜん足りません。ほしがちゃんと大人になるまでは、お母さんが傍にいますからね」
「……」
「本当に嫌なら、話は別ですけど。でも、そうじゃないでしょう? お母さんには、お見通しですよ。私の前では、聖人ぶったり、大人ぶる必要はありません」
「お、お母さん……」
「やっと呼んでくれましたね。はい。お母さんですよ」
ぐぐぐぐ。恥ずかしい。恥ずかしいが、なんだ、この、何とも言えない安心感は。ずっとリョンの腕の中にいたい。
「お母さん」
「はい。今日もお仕事頑張りましたね。偉いですよ。いい子いい子」
「う、うん……うん、頑張った」
頭を撫でられていると、なんだかうっとりしてしまう。こんなに心地よいものなのか。
ぽかぽかと胸があたたかく、本当に子供のころに戻ってしまったような気になる。
「休憩もちゃんととってましたね。偉いですよ」
「う、うん。睡眠をとるようになった以上、他の面も変わる可能性があると思いまして」
「敬語、つかわなくて大丈夫ですよ。好きな言葉でいいんです。怒ったりしませんから」
「あ、うん……うん。ありがとう。あの、えっと……」
「慌てなくてもいいですよ。これから毎晩、寝るまで傍にいますからね」
「うん……」
それから本当にずっとリョンは私を抱きしめていて、眠くなったら子守歌をうたってくれて、気が付いたら眠っていた。
そしてまたなんでもないみたいに、お師匠様と呼んでくれる。こうしてリョンは、私の母親になった。
「お、お母さん、今日の夕ご飯、すごく、美味しかったよ」
「本当? ありがとう。じゃあ、またつくりますね」
「うん、お願い……」
最初は抵抗があったが、それでも母と呼び慕い、そしてその相手から優しく可愛がられるのは、何とも言えない幸せな気持ちになった。
もっと、もっと褒められたい。もっと、ずっと、ぎゅっとしていてほしい。
「ほし、今日はたくさん食べてましたね。偉いですよ」
「うん。最近、お腹が空くようになってきたんだ」
「成長期ですもんね。ほしは好き嫌いなく何でも食べれて、いい子ですね」
「えへへ」
少しずつ、私の体は普通の人間に近づいていった。
半年もすれば、食事と睡眠は普通にとらないといけなくなった。体力と腕力はまだまだ人外だったが、生活リズムは普通の人間だ。
「お師匠様、なんだか最近、背、のびました?」
「え、そ、そうですか? リョンもそう思いますか?」
「そうですね。少し大きくなられた気はしていました」
ヨータに指摘され、身長をはかってみた。だが、そもそも元の身長を計っていなかったので、わからない。ちょうどいいので、記録しておくことにした。
「お師匠様も大きくなるんですね。あ、もしかしてお師匠様、聖人だから成長が遅かったんですかね」
「どうですかねぇ」
「お師匠様、久しぶりに背中流しますよ! 俺が成長度合いをみてあげます!」
「ありがとうございます。ふふ、なんだか、ヨータ、私以上に喜んでますね」
「嬉しいですよ! 変わらなくてもお師匠様はお師匠様だけど、お師匠様がおっきくなったら、お酒とか、もっと色々なことが一緒にできるじゃないですか」
「ヨータ……そうですね」
眠るようになってからは、お酒も飲まないことにした。体に影響が出たら困るからだ。
こんな風に大人になるのを待っててくれる人がいるのは、なんだか照れくさいが、嬉しいものなんだな。
「お母さん、背が伸びたの気が付いてたの?」
「もちろん。抱きしめたときに、成長しているなっていつも思ってましたよ。もう少し大きくなったら、服も手直ししましょうね」
「うん。ありがとう」
だけどもう少し、子供でいたい。昔は早く大人になりたくて仕方なかったのに。どこか不思議な心地だった。




