出張
腹立ちを誤魔化すように、落ち着けるためにソファに腰をおろして膝あたりに視線をやって呼吸をするが、むかむかするような感情の渦が収まらない。
腹が立つ。ここまで、真面目にやってきた。前の人生を反省した分、この世界にずっと奉仕してきたつもりだ。
領民から感謝されて、それは嬉しかったし、やりがいも感じていた。人に求められ喜ばれることに、自分も嬉しいのだと言うことを知った。張りぼてではなく、聖人として振る舞えていると思ったし、内面も変われていたはずだった。
だけど、努力の成果を、今まで築き上げてきた関係やそのほかあらゆるものを、全て取り上げられるのだと言う今になって、どう振る舞えばいいのかわからない。
腹の中は激しい怒りがある。だけどそれをそのまますぐに表に出そうとしないだけの理性はちゃんとあった。
今までのことが偉い人には認められなかったことへの憤り、領地からはなれなければいけない寂しさ、いつまでかかるか、どんなところか、どうなるのか、何もわからないことへの不安、そしてどうして俺がそんな目に合うのかと言う憤怒。
他にもいろいろと思うところはあったが、今私の心を占めている感情はそんなところだ。
こんな理不尽で、説得や反論もできなくて、かと言って無視して逃げても領地が人質にとられているようなもので、言われたとおりにできれば褒美もあるので一方的に弾劾できる内容でもないのが余計に腹立たしい。こんな時、聖人ならどうするのか。
本当に心が綺麗で、他の人を思いやれる人間なら? 他の人って、つまり、ここではリョンか。
そうだ。リョンだ。私よりずっと大きくなったとはいえ、年齢的にはずっと年下のリョン。彼女こそ、不安だろう。
向かいのソファに座ったリョンに、一呼吸してから顔をあげないまま声をかける。
「リョン、帰りですが、ポチに任せれば大丈夫でしょう。私がいない間、領地を頼みます」
そうだ。なんだか流れでリョンも行く前提で、リョンの旅装も城からの準備品に入っているが、リョンが行く必要はない。私がいない領地も不安だが、ドゥーチェもいるのだし頭脳面でこまることはない。急に悪くなることはないだろう。
なら私の代理としてリョンは申し分ない。リョンも知らない土地で強制労働なんかよりは、見知った弟もいる領地がいいに決まっている。どうせリョンの力が開拓で役立つことなんてないんだ。
だからこの選択が正しい。そうわかっているのに、リョンにそう言うのは、とても寂しく思えた。リョンを一人では帰せない。ポチも一緒だ。つまり正真正銘、一人になるのだ。
先ほど以上の不安感に包まれる。何でもできて、偉ぶって、師匠だ領主だ聖人だと呼ばれても、しょせんこれが私なのだ。
流されて人を殺してしまうクズで、そのくせ自分が怖くて泣いて震える。聖人になりたいなんて高い目標だけかかげているけど、頭が悪くて機転もきかなくてすぐ調子にのってしまう、愚図でビビりのチンピラだ。
ああ、あんなに変わりたいと願って、努力してきたのに。私はまだ、こんなに弱かったのか。
「……ふざけたことを言わないでください」
「ん?」
リョンの声がふるえていて、聞いたことのない声音に、もしや泣いているのかとはっとして顔をあげた。
が、泣いていなかった。リョンは眉をしかめ、顔を赤くして、怒っているのだと言わなくてもわかる顔をしていた。
「リョン?」
「私に帰れって、それでお師匠様一人だけ北へやって、私はのうのうと領地で過ごせって、本気で言っているんですか?」
「え、いや……でも、実際領地に私の代わりになる人が必要ですし?」
「そんなの、ドゥーチェさんがいるんですから、誰がやっても同じことです」
いや、それを言ったらもうそもそも領主(私)いる? ってなってしまうのだけど。
「だ、誰でもってわけにはいきませんよ。そこはほら、ね。信じて任せられる相手じゃないと。その点リョンなら」
「そんなのどうだっていいでしょうが! お師匠様がつらい時に傍でささえず、何が弟子ですか!」
ぎょっとした。リョンは感情豊かで、子供の時から一緒なのだ。怒ったりするのが珍しいわけではないし、私が馬鹿にされたり軽んじられたときは自分のことのように怒ってくれたりした。
だけど明確に私に対してだけの怒りで声を荒げたのは、初めてで、しかも泣き出してしまって、私は言葉を失う。
「っ、ずっ、く」
リョンはそのまま少し泣いた。怒りをかみしめるような静かな泣き方で、我慢せずに声を出して泣けばいいのに、と泣かせたくせに思った。
「、すみません。もう大丈夫です」
「いえ。私こそ、軽率な発言をしてすみません」
「謝るのはやめてください。どうせ、お師匠様はどうして私が怒っているのかもわからないのでしょう?」
「……」
そんなことを言われると、困ってしまう。どうして泣いたって、それは私がリョンを置いていこうとしたからだろう。それは会話の流れでわかる。
だけどもう小さな子供ではないのに。私が一人で行くのは寂しいと思って、それが顔に出ていたからついてきてくれると言うなら、それは気恥ずかしくも有り難いが、怒ることではないのではないだろうか。どうしてそれで、泣くほど怒るのか。それは確かに、わからない。
「すみません。確かに、考えずに謝りました。リョンが怒ったのは、私がリョンと離れたくないのに、無理にリョンを置いていこうとしたのが気に障ったということでしょうか」
「ん、そ、そう言われると、まぁ、えっと、そういうことですけど。お師匠様は、人を優先しようとしすぎです。聖人になりたいと頑張っていらっしゃるのはわかります。立派だと思いますし、そんなお師匠様に私もヨータも、みんなも救われたんです。だけど、もう少しくらい、せめて私にだけは、自分優先で、自分中心に考えてくれたっていいんです」
「……」
そんなわけには、いかない。聖人のふりをしない私は、ただの屑でしかないからだ。自分のことだけ考えた前世で、私は人を殺してから後悔するクズだったのだから。
だけど、そうは言っても、そう思ってくれていると言う事実は、私の胸をあたたかくさせた。
「……では、大変だと思います。何年かかるかもわかりません。それでも、私と一緒に来てくれますか?」
「はい。もちろん。私はずっとお師匠様の傍にいますから」
リョンは当然の様に微笑んだ。私が王から頼まれた時は絶望的で怒りにまみれた内容なのに、私に頼まれたリョンはまるで宝物を授かったみたいな顔をしていて、どうしてかたまらなくなって、私はソファの上で膝をかかえて丸まった。
ぎゅうと自信の膝を抱きしめながらそこに顔をうずめる。行き場のない力が体を巡り、体がはじけ飛びそうだ。だけどもちろん、悪い気持ちではない。
「ん……りょ、リョン」
「はい、なんでしょう、お師匠様」
「今後のことを頼む手紙を、書いてください。明日、伝令の人に一緒に渡しておきましょう。リョンがいない領地を任せられるのは、次はヨータです」
「ありがとうございます。ヨータなら、ヨータともう二人くらい、文官にも同席してもらった方がいいでしょうね」
最初から領民だった年寄連中のなかでも比較的学がありまだ元気な数人は文官として、領地運営の仕事にも関与してもらっている。
確かにヨータ一人なら、内容をしっかり聞いてくだす判断は信用するが、人を信用しすぎるところもあり目を通さずOKしそうなところもあるので、その方がいいだろう。
「ではそれで」
「はい。すぐに用意しますね」
リョンは先ほどの怒りや涙がなかったように、あっさりと立ち上がった。その気持ちの切り替えの早さに、やっぱり女は強いと思いながら、しばらく私はソファから動けなかった。




