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22 : 帰心家族の如し

 ――ぴーちくぴー……ちちちちちちち


「平和だー」


 厳密に言うなら、二話前は何だったんだ? と思うぐらい、平和だった。


 奈枝は窓際から外を見つめる。視線の先で、木が揺れた。

 先ほど鳴いていた鳥が飛び立ったのだろうか。はぁ、と本日幾度目になるかわからない溜息をついた。


 窓の向こうはポカポカ陽気で、新緑が見事に広がっている。ここからは、聖域のサクラはほんの少ししか見えない。入れる人間は限られているのに、誰もが存在を知っているサクラの木――その木を見つめながら、セイクリッドに与えられた兵舎の一室で、奈枝は日がな一日のんびりとしている。


 秘密を秘密にするために、奈枝のことを知っている人間は最小限の人数に留められていた。


 奈枝が聖女だと知っているのは、頭目であるセイクリッド、隊長のウィル、奈枝を拘束していたクレイ、奈枝の首を刎ねようとしたジンの四人。彼らには厳しく緘口令が敷かれている。


 名目上、奈枝は田舎町から出てきたウィルの妹ということになっている。が――いくらウィルが隊長とは言え、一隊員の妹の部屋をずっと警護している不自然さを押し通せるのも、既に限界が近い。

 更には、クレイとジンは私兵隊の中でも中々の役職についているという。この二人が駆り出されているのも、隊員たちの興味を引いているらしい。

 秘密頓首のため、この二人が警護役に選ばれたのも仕方がないことだが―― 約一年間、一人暮らしをしていた奈枝にとって、ここでの生活は窮屈を極めた。


 しかし、不測の事態であることもわかっている。ひと段落つくまでは、彼らの言うことを聞いていたほうがいいだろう。

 幸いにして、「聖女」という肩書だけ、あのサクラの命と共に常世(とこよ)に返してくれたらしい。

 この事態さえ落ち着けば、どうにかなるだろうと奈枝は考えていた。例え住み慣れぬ異世界であっても、自分一人食わせていくぐらいの力はあるはずだ。そのための地盤は、幼い頃から祖父母に厳しく躾られていた。

 もし難しくとも、セイクリッドの協力を仰げば、何かしら職は手配してくれるだろう。朝起きて、仕事をして、彼を思って同じ大地で生きる。中々いいではないか、と奈枝は思っていた。


 日本への未練はもちろんのようにあった。

 けれど、あのサクラの木が無事だったとして――再び潜ろうとしたかは、わからなかった。


 お墓は、誰か掃除してくれるだろうか。開きっぱなしの玄関を、近所の皆は心配しただろう。

 店長、おかみさん、谷原君。急にシフト空けて悪かったな。教授も、あれだけ奢らせる奈枝に懲りずに、また飲みに行こうって誘ってくれてたのに。


 あぁそうか。奈枝はぼんやりと思った。あちらの世界で私はきっと、死んだことになるんだ。

 両親、祖父母が先立ち、天涯孤独の身。祖母の一周忌に墓参りを終えた後、身をくらましていれば――きっと誰もが同じ道筋に辿り着くだろう。沢山愛してもらって、沢山助けてもらったのに、お別れも言えなくてごめんなさい。


 だけど、それでいい。それがいい。

 奈枝は、家族の元へ旅立ったと……思ってくれればそれがいい。


 窓際で外を眺めていた奈枝が立ち上がる。

 壁を背にして立っていたクレイが、一歩動いた。彼の黒髪がさらりと揺れる。奈枝がどれだけ座っていていいと伝えても、クレイは決して座ろうとはしなかった。


 設置されているクローゼットの扉を開けて、緑色の包みを取り出す。

 奈枝が牢獄に入っている最中に検閲されたのか、あれほど綺麗に結ばれていたリボンは無残に切り刻まれていた。中にあるマフラーは無事だが、不機嫌顔の雪だるまが入っているスノードームは戻ってこなかった。不思議な魔法でも込められていると思い、割られたらしい。


 不機嫌な顔の雪だるまは、もういない。


 マフラーを取り出して、顔を埋める。濃い葡萄色の、柔らかな毛並み。

 あの日以来、一度も顔を見せない彼を思い出した。


 ここにいるのは、笑顔を張り付け、処世の術を知った、大人のセイクリッド。

 不器用な顔と言葉で、奈枝から愛を強請った彼は、もういない。




***




「セイクリッドさんに会いたいんだけど、お忙しいかな?」

 もぐもぐごっくん。

 隊員たちと同じ食事を取りつつ、奈枝はクレイに願った。そして、その希望は即時に叶えられた。

 あまりにも早急に整った準備に、奈枝の方が戸惑ったぐらいだ。


「今から?」

「はい。頭目も昼休憩を取っておりますので」

 なら急ごう、と奈枝は噛んでいたパンを慌てて飲み込んだ。


 マントを羽織るため、クローゼットを開ける。奈枝に貸し与えられた部屋のクローゼットには、ずらりと服が並んでいる。たった一人のために用意されたにしては多い量を見るたびに、奈枝は頬は引き攣らせた。

 いつまでも、喪服のままいるのは失礼だろうと、奈枝はこの部屋に案内された日に服を無心したのだ。その次の日には、ジンとクレイ二人がかりで山のように女性ものの服を奈枝の部屋まで運んできたのだ。その服の量に、奈枝は唖然としたことを覚えている。

「なにこれ、誰がこんな着るの? クレイさん? 似合いそうだけど」

「……隊長も頭を抱えてましたよ」

 ジンの零した単語に、奈枝はツキンと痛む胸をやりすごす。お礼を言いつつ、大量の服を奈枝はクローゼットに押し込んだのだった。


 そうしてクローゼットを圧迫している女性ものの服はひとまず置いておいて、奈枝は平時は皆と同じ隊服を身に付けることにした。

 隊員でもないのに、揃いの黒服に袖を通すのは申し訳ない気持ちにもなるが、こちらのほうが利便性がある。


 外出は必要最小限に、と言われているが、まさかトイレに行かないわけにもいかない。以前トイレに行くため廊下を歩いていたら、ちょっとした人だかりが以前できてしまったことがある。隊員の皆は、ウィルの妹らしい人物に興味津々らしい。

 けれど、トイレに出る度に囲まれたんじゃ安心して用も足せない。死活問題だ。情けない顔でクレイに泣き付いたところ、隊服を下賜された。以後、奈枝は隊服をいたく気に入っている。


 食事を中断した奈枝は、マントを羽織ると、セイクリッドの執務室に向かう。途中何人かの隊員とすれ違ったが、髪の短い奈枝は童顔で中性的な男の子のように見られているらしい。奈枝は堂々と廊下を闊歩した。




「クレイ・アルスターです」

「入れ、手が塞がっている」

 数回のノックの後にクレイが言うと、すぐに返事があった。何の変哲もない分厚い木の扉をクレイが押し開ける。中を見た時、奈枝はお盆によくテレビで見る光景だな、と思った。部屋の中はしっちゃかめっちゃかで、まるでワゴンが帰省ラッシュの渋滞のように行き詰まっていた。


 クレイは手慣れた様子でワゴンの隙間を歩く。奈枝はワゴンの上に置かれている書類を倒さないよう、慎重に体をすり抜けさせた。


「またこんなに溜まってるんですか。きちんと仕事しないからですよ」

「この姿を見てそれを言うか――それで、如何いたしました」

 書類の山に囲まれたセイクリッドは、奈枝を見てにこりと笑った。奈枝は固まって、動けずにいる。


 セイクリッドは片手にペンを、片手にサンドウィッチのような軽食を手にしていた。

 昼休憩と言っていたのではないか、慌ててクレイを見たが、クレイは何ら驚いている風ではなかった。これがいつもの光景だと知り、奈枝は申し訳なさに身を縮こまらせる。


 奈枝はセイクリッドの態度に、淋しさを感じていた。

 急に自分一人が大人になったような顔をして、奈枝を遠ざける彼に憤りさえ。


 けれど彼は、意地悪や気まずさから会いに来ないわけではなかったのだろう。遠足気分の奈枝と違い、彼はここに立ち、ここで生きている。奈枝にかまけている時間などない。

 それに、聞いていたはずではないか。


 ――万が一、奈枝さんが聖女だとばれた場合、私は規律に従います、と。


 なんてお行儀が悪いことを。なんて。弟だと言い張っていた頃なら言えていたかもしれない冗談を、彼に届けることもきっともう、ないのだろう。


 本当に大人になってしまった彼の立場に響かないように、奈枝はつとめて静かに声を発した。


「お時間を取らせて申し訳ないです。あの、色々とご配慮いただいて、ありがとうございます。それで、私って今後……どうなるのかなと思って」

「その件については一任していただきたい。現在、手筈を整えております」

 微笑まれ、一言で話し合いは終えた。

 しかしここで引いては、せっかく連れてきてもらった意味がないと、奈枝は更に言葉を重ねる。


「せめて、いつまでここにいるのかとか、時期だけでも教えてもらいたくて。準備とかもありますし」

「準備? 何か手配することが?」

 そりゃあ、もちろん、何もできることは、無いけど。

 奈枝は言葉に詰まった。その姿を見て、いつもより深い笑みをセイクリッドが刻む。


「ご用件はそれだけでしょうか? どうぞ、お心安らかにお過ごしください。何か入用であればすぐにおっしゃっていただければ整えます」

 言外に、部屋から出るなと言われ、奈枝は執務室から追い出された。笑顔のセイクリッドが、奈枝に手を振りながらバタンと扉を閉める。

 唖然とした顔で執務室を見つめていた奈枝が、ゆっくりクレイを見上げた。


「……あれ、本当にセイクリッドさん?」

 執務室を指さす奈枝を、クレイが訝しげに見下ろす。

「誰がどう見ても、頭目でしょう」

 気が済んだなら、帰りますよ。その言葉に、奈枝は自分が我儘を言ったことを知った。このほんの少しの時間は、捻りだして作られた時間だったのだ。


「……別人みたい」

「昔から、あんなでしたよ。頭目は」

 そうだっただろうか、もしそうだとしたら、奈枝の知っている「セイ君」は別にいることになる。


 言葉遣いが穏やかになった。笑顔が増えた。けれど、行動に隙がなくなり、愛想もなくなった。そして――奈枝の愛情を確かめるような、甘える天邪鬼さの一切を無くしていた。


 嫌われたかな。セイクリッドの年さえ、本人に聞くことが適わずに、こっそりとジンに聞いた。30歳。あの日から10年もこちらの世界では経っていたという。


 その間、セイクリッドはどのように過ごしたのだろうか。いつも3年も4年も待たせていたのだ。10年くらい、セイクリッドにはどうってことなかったのかもしれない。

 それどころか、その間に奈枝への情も薄れていたら? 今更現れて、面倒事をしょい込ませて、いい迷惑だと思われていたら?


 彼の皮肉に腹を立てたい。共に笑い合いたい。恋人でなくてもいいから寄り添いたい。


 ――家族のようだったあの頃に、

「……帰りたいな」


 執務室の外で、奈枝がぽつりと呟いた。







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