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 玄関のドアを開けたら、子供が倒れていた。



*****



 初めてのテストやレポート地獄に死にかけた大学一年生の前期試験。

 無計画で楽観的な質なのは自覚済みだ。でもやっちゃうよね。何とかなるって思っちゃうよね。ていうか追い込んだ方が頭冴えたしね。

 とにかく超短時間睡眠で試験週間を乗り切り、徹夜の末仕上げた最後のレポートを、今日出してきた。

 そして家に帰ったらあらびっくり。子供が倒れているではありませんか。


 うちは兄と私の2人兄妹。小学5、6年生くらいの子供なんていない。

 この子がまた友達がある日突然ハマりだした球体関節人形もかくやのド綺麗な顔していたもんだから、人形かと安心しかけたけどそんなわけもなく。

 慌てて近くの診療所まで運んだわけである。

 顔馴染みの先生が大丈夫サインを出した後は、待合室の長椅子に崩れるように倒れ込んだのだ。


 というのが眠る前の記憶だ。


 何か近くに気配があるなぁとうっすら目を開けたら、目が合った。

 赤みがかった目をパチパチとさせて、好奇心旺盛な子犬のように私の顔を覗き込んでいる。

 ぼんやりとそれを眺めていた私は、思考がはっきりするにつれてあまりの近さに驚き後退って――頭を打った。ソファの側に棚があるのを忘れていた。

 歴代類に見ぬ見事な音だった。

 幼い頃からひとつ上の兄や男子共と喧嘩する度に炸裂した石頭は、たまにこうしていい音を鳴らすのだ。

 ちょっと誇らしくなりながら後頭部をさすり起き上がる。この気持ちは未だ誰にも理解されない。

 ソファの前に膝立ちしていた少年は気遣わしげにした。


「大丈夫ですか?」

「いい音だったでしょ」


 少年は数拍空け、ふっと笑みをこぼした。花が綻んだようなそれに見惚れるのも無理はない。可愛い可愛いと撫で回したい。

 手の震えを抑えて隣に誘ったら、これまた愛らしい笑みが深まる。

 少年の顔は改めて見ても造り物めいた整い方だった。髪は黒いものの、長い睫毛は黄金色だ。

 顔のパーツひとつひとつが美しいながら、配置がまた絶妙だった。


「気分はどう?」


 大人風を吹かし冷静を装う。少年は相好を崩したまま大丈夫だと答えた。

 でも顔色悪いなぁ。

 先生を呼ぶべく腰を浮かせる。すると不安そうに此方を見上げられた。

 何とまあ庇護欲を掻き立てる眼差し。猫や犬をかまい倒す私には堪んない生物である。


「ああ。両方起きたんだね」


 待合室に来たのはこの診療所のお医者様だ。

 外で喧嘩したり遊んで怪我した時は、兄共々お世話になった。ちなみに風邪で来た事は一度もない。

 先生はひょいひょいやって来て、少年の前にしゃがむ。


「気分はどう?」

「あ……大丈夫です」

「そうかそうか」


 先生は少年の目の下を引っ張ったり、舌を出させたりする。

 うんと頷いてにっこり笑う。ごく自然にサラリととんでもない発言をした。


「君、ちゃんと血液飲んでる?吸血鬼に血液は必要不可欠なんだよねぇ?」


 半ば聞き流していた私は、しかし異物のように単語が耳に引っ掛かった。

 先生は沈黙し俯く少年の手を握り、ぽんぽんと軽く叩く。


「大丈夫だよ。君は悪くないんだから堂々としていなさい」


 なんか普通に会話が成立しているわけですが、ちょっと私に口を挟ませてください。


「あの……先生」

「ん?」

「吸血鬼って……この子が?」


 横に座る少年を指差すと、二人揃って目を丸くした。え、何なのむしろ何故お前が知らないみたいな顔は。知らないよ初耳だよ。

 困惑する私を、先生は更なる混乱へと導いた。


「この子は今凛子ちゃんの家で預かっているんだろう?」

「は?私の家で?」

「夏休みの間だけって。ねえ」


 少年は私の顔色を窺いながら恐る恐ると頷いた。

 え?マジで?どういう事?


「いつから?」

「三日前です」


 三日前、というとレポートの山に泣きたくなりながら部屋で缶詰めになって、学校に行って戻って書いてキレて寝てを繰り返していた頃だな。


「あの、僕が凛子さんの食事を運んだりしてました」

「え?そうなの?あぁどうりで。おかしいと思ったんだぁ。ウチの家族が随分親切だなぁと」


 部屋の前にご飯があり、随分と至れり尽くせりだった。お菓子や夜食まで置かれていたし。レポートやテスト勉強に必死すぎて深く考えていなかった。


「そっかぁ。おかげで試験期間乗り越えられたよ。ありがとう」

「……いえ」


 少年ははにかんで笑った。かぁわいいわぁ。


「ところで結局君誰なの?」


 居候ってどういう事?

 私が本気で知らないと分かった先生が、やれやれと首を横に振った。少年の頭にポンと手を乗せる。黒い毛並みはさらさらで触り心地良さそうだなぁ。

 とどうでもいい事を考えているのがバレたのか、脳天にチョップが落ちた。


「この子はねぇ、玲央君。ちょっと色々あって、落ち着くまで君の家に滞在する事になったって、君のお母さんから聞いてるよ」

「色々?」


 先生は口を噤んだ。だから代わりに玲央君とやらに視線を滑らせたら、玲央君は暗くくぐもった顔を俯けている。

 触れちゃダメな感じですね。分かりました。


「吸血鬼なんて初めて見た。歯は本当に尖ってるの?あ、削ってるんだっけ?」


 小学校の道徳の時間に習った情報を引っ張り出してみる。

 映画を始めとした創作には、吸血鬼を題材としたものが数多くある。日本の漫画やアニメも例に漏れない。

 狼男やゾンビと違うのは、吸血鬼が実在するという点だ。

 彼らは創作通りに血液を口にし、人を魅了するのに長け、馬鹿力で治癒能力もある。

 そうなればピラミッドの頂点に立ちそうなものだが、一方で非常に数が少ない。故に支配よりも人間との共存を選んだ種族だ。


 生物学的には人間の突然変異となっているらしい。

 学校では吸血鬼の生態について教え、如何に彼らが安全かを説き、差別はいけませんと締めくくる。

 とはいえあまりの数の少なさから一生に一度生でお目にかかれるかも分からない。海外ではモデルとして活躍している者もいるとは聞くものの、吸血鬼を名乗っているわけでもないので誰がそうなのかはあくまで噂でしかない。

 なので吸血鬼とは実在するのか疑うレベルの存在なのである。

 それが今目の前にいる。

 感動で不躾にも凝視してしまうのも許してほしい。

 玲央君はバッと顔を上げ、突然私に詰め寄った。縋るような眼差しには些か慄く。


「歯はちゃんと削ってます。だから噛んでも穴は空かないし、だから僕は人を襲ってません!」


 なに。なに。何か不味い聞き方したっけ。

 先生に助けを求める視線を送るが肩をすくめられるだけで終わった。助けてよ。

 唇を噛み締めて俯いてしまった玲央君。わけが分からないけど罪悪感だけはしっかり煽ってくる。


「……歯、見てもいい?」


 玲央は勿論ださあ自分の目で確かめろとばかりに口を大きく開けた。

 罪悪感を脇に寄せて、ほとんど好奇心から覗き込んだ。犬歯は多少長い気もするが人の範囲に収まり、先端だって丸みを帯びている。これなら人の肌に深くは刺さらないだろう。


「確かにこれで穴は空かないね」


 口を閉じた玲央君は安堵を滲ませた。

 もしかして学校で色々言われているのだろうか。そりゃあ口も閉ざすわ。無神経ですまんかった。

 お詫びに頭を撫でたら(自分が触りたかっただけ)、玲央君ははにかんで俯いてしまう。なにこの子。可愛いな。

 わしゃわしゃ掻き混ぜるように髪を撫でてやったら、嫌がるどころか擽ったそうに笑った。


「君達そろそろ帰んなさい。凛子ちゃんのお母さんも玲央君を心配してるだろうしね」

「あ。鍵開けっ放しで来たんだっけ」

「凛子ちゃんのそそっかしさは変わらんねぇ」

「緊急事態だったんですよ。そういえば玲央君の靴もないなぁ」


 そのまま抱えて来たから白い素足のままだ。

 立ち上がって伸びをして軽く準備体操をする。そうして玲央君の前に背を向けて膝をついた。


「どうぞ」


 玲央君はみるみるうちに目を丸くして、ぶんぶんと首を振る。


「大丈夫ですそんな女の人に」

「玲央君なら余裕だよ。こっち運ぶ時も思ったより軽くてびっくりしたし」


 女にしては力があると自負しているが、それだって小学5、6年生を軽く思う程でもない。だから抱えた時は余計に心配になったもんだ。


「玲央君ならお姫様抱っこもいけるよ」


 方向転換してポーズを取ったら、玲央は顔を赤くして困った顔をした。

 小学生とはいえ男の子だからねぇ。おんぶが恥ずかしいってのも分かるよ。でもここは我慢してくれ。

 葛藤を始めた玲央君を急かそうとした私を呼び、先生が診察室を指差す。

 中に入るなり額を叩かれた。


「もう大学生なんだからニュースくらい見ようね」

「ニュース?」

「玲央君が寝た後にでもお母さんに聞きなさい。今は家じゃまともにニュースも見れないだろうからねぇ」


 緩い口調とは裏腹に、先生の表情は痛ましく憂いていた。

 待合室に視線を移すと、玲央君が不安げにこちらを窺っている。

 世間で一体何が起こっているのだろうか。

 それが玲央君にまつわる事であり、あの子がうちに来た理由だという事だけは察しがつく。


「ちゃんと血液も飲ませるんだよ。吸血鬼にとって必要なものだからね」


 玲央君が血を拒否する理由を、その時の私は軽く考えていたのだ。

 待合室に戻ると玲央君が躊躇いがちに言う。


「あの、僕裸足で帰ります」

「え~、ダメだよ。その綺麗な足が怪我するじゃん」

「そんな事しなくとも僕のサンダルくらい貸すよ」

「水虫大丈夫?」


 先生に頭を叩かれた。



*****



「あんたねぇ。戻って鍵掛ける事くらい出来るでしょ」


 家に帰ると、パートから帰宅していた母が玲央君を心配し、一方で娘を呆れながら迎え入れた。

 母が冷蔵庫から赤い液体の入った輸血パックのような物を出した。


「玲央君。どんどん暑くなっていくんだから、飲まないとまた倒れるよ。ちゃんと飲みなさい」


 母が少しだけ強い口調で言い聞かす。

 玲央君は浮かない顔で私を窺った。そんな顔されたって、私が我が家最強の母を敵に回すわけがない。


「好き嫌いはダメだよ」


 母の味方につくと、玲央君は何故か戸惑い、そして目元を緩めた。

 始めの渋りは何だったのか。あっさりパックを受け取って飲み始める。

 母は「考え込みすぎちゃう子には何も考えないおバカが丁度良いのかもねぇ」としみじみと失礼な事を言った。


 私が玲央君の事情を聞いたのは、玲央君が寝た後だ。

 母は同じく寝ようとした私の後ろ襟を引っ付かんでテーブルに着かせる。そこには父も兄も揃っていた。何だろうこの家族会議は。

 口火を切ったのは父だった。


 父の話す内容は、暢気な私が想像していたよりもずっと深刻なものだった。



 

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