魔力が無いので大丈夫なのです。
レイノルドは一瞬唖然とした表情を浮かべたあと、すぐさまフラウリーナから小瓶をひったくった。
「おい、フラウ! 何故飲んだ……!」
「レノ様、静かに。大きな声を出すと、気づかれてしまいますわ」
「い、いや、そうだが、しかし」
「甘くて美味しいのですね、これ」
「……体は、大丈夫か。なんともないのか」
「はい。問題ありません。魔力増幅薬のようなものなのですよね? 私、魔力がありませんもの」
ただの甘いジュースのようなものだ。
魔力があれば、この薬にあてられて体の様子がおかしくなるのだろうか。
フラウリーナには特に影響がない。
「ルヴィアは大丈夫ですの?」
『問題ない。この程度はそよ風のようなものじゃ』
どこからともなくルヴィアの声がする。
姿は見えないが、ルヴィアはいつもフラウリーナの傍にいる。
屋敷の中に入れないほどの巨体ではあるが、どこに存在しているのか不思議だとフラウリーナはいつも思っている。
「なんともないのか。それは、よかった」
「レノ様、残念そう……」
「いや、気のせいだ」
「そうでしょうか」
本当になんでもないのかと念を押してくるレイノルドに、フラウリーナは首を傾げる。
特に変化はないようだ。大丈夫だと伝えるとレイノルドは心なしかがっかりしたように見えた。
「レノ様。そんなことよりも――レノ様にひどい恥をかかせようとしていたこと、許せませんのよ」
「憶測だがな」
「憶測ではありません。だって、はっきり聞きましたもの。あの方、高笑いをしていましたわよ?」
「そうだな。あんな奴に陥れられた自分が恥ずかしい」
レイノルドが額を手で押える。
シャルノワールがレイノルドよりも頭がいいなんてことはありはしないだろうが、何でも完璧で、非の打ち所のないぐらいに天才肌のレイノルドと庶民の出でずる賢いシャルノワールなら、シャルノワールに味方をしてしまうものなのかもしれない。
フラウリーナにはあまり理解できないことだけれど。
「仕返しをしましょう、レノ様」
「仕返しとは?」
「人前に顔を出したくなくなるぐらいの、恥をかかせるのですわ。とりあえず、この瓶の中身はさしかえておきましょう。色合いが似ていますので、苺水にしておきますわね」
植物と水の精霊さんにお願いして、フラウリーナは瓶詰め苺水をぽんっと出して貰う。
あいた小瓶の中にそれを移し替えると、元の机の上に戻した。
「一先ずこれで、レノ様が私以外の女性を襲う心配はなくなりました。帰りましょう」
「あぁ。そうだな」
「どうやって仕返しをするかは、まだ時間がありますのでゆっくり考えますわね。王都の現状も知りたいですし。本当に水を薬と偽っているのか、確認したいのです」
「……あぁ。俺も実際見たわけではないからな。俺の言葉は全て憶測にしかすぎない」
「レノ様が言うことは正しいのだと思いますわ。でも、私も長らく王都からは離れていましたし……公爵領は平穏でしたもの。国王陛下のお膝元がそのような惨状だとは、あまり考えたくないことですけれど」
地下室で密やかな声で話をして、フラウリーナとレイノルドは口を閉じると静かに上階へとあがった。
家の者たちが寝静まっている真夜中に、階段や床の微かに軋む音が異様に大きく聞こえるような気がした。
正面入り口には見張りがいて、床に座って居眠りをしている。
裏口から出ようとして廊下を奥に進んでいくと、階段を降りてくる足音が聞こえる。
立ち止まるフラウリーナの口をレイノルドは塞ぐようにしながら背後から抱きしめて、廊下の曲がり角まで連れて行くと、壁にへばりついて身を潜める。
「……レイノルド様の声が、聞こえた気がしたのだけれど、そんなわけがないわよね」
密やかな声と共に、寝衣を着た華奢な影が廊下の手前からフラウリーナ達の方へとのびる。
燭台に刺さる太い蝋燭の炎が揺れて、影がゆらりと動いた。
この人がイリス姫――と、フラウリーナは体が動かないので、瞳を懸命に動かしてその姿を確認した。
どこか儚げで、美しい人だ。
レイノルドはこの人が好きだったのかと思うと、針で心臓を刺されたような痛みがはしった。
レイノルドのことが大好きだから、レイノルドに幸せになってもらいたい。
レイノルドがイリス姫との幸せを求めるのなら、それは仕方のないこと。
辺境の屋敷でレイノルドの手記を見つけた時に、フラウリーナはそう思った。
けれど実際、イリスの姿を目にしてしまうと、なんとも言えない痛みが体を巡る。
「レイノルド様……早く、お会いしたい」
夢を見るようにうっとりと、イリスは呟く。
レイノルドもイリスに、会いたかったのではないだろうか。
会えて嬉しいと、本当は駆け寄りたいのではないか。
レイノルドはイリスが去るまで、フラウリーナを抱きしめてじっとしていた。
鼓動が早いのは、フラウリーナばかりだ。どくどくと脈打つのは自分の心臓の音で、レイノルドの息づかいも心音も、驚くほどに落ち着いている。
背中に回った手があつく、腰のあたりに触れられるとぞわりとした。
「……行くぞ、フラウ」
腕の中で動かないように、身を硬くしてじっとしていたフラウリーナの耳元で、掠れた低い声が響いた。




