46:真実の印
お茶会の翌週、ディアナとアランはエルドレッド公爵邸に招かれた。
二人を出迎えたのは、ケイリーと、その兄──次期公爵クライド・エルドレッドその人だ。
「王弟殿下、ご無沙汰しております。ガザード令嬢には、お初にお目に掛かる」
「あらお兄様、もう令嬢ではなく、夫人と呼ぶべきよ」
「……そうか」
妹と同じ、蜂蜜色の柔らかな髪。
二人共にディアナよりも年上なはずだが、特に兄の方は、どこか幼さの残る甘い顔立ちをしていた。
「久しぶりだな、二人とも」
アランにとっては、王太子の婚約者であるケイリーも、その兄も、旧知の仲だ。
とはいえ、特別親しい訳ではない。
現王オスニエル、王太子ローレンス共にアランとは一線を引いており、その距離はローレンスの婚約者であるケイリーにも受け継がれていた。
「どうぞ、こちらへ」
ケイリーが先導し、エルドレッド邸を歩く。
質実剛健を由とするガザード家とは異なり、エルドレッド家の邸内は豪華な装飾に満ちていた。
壁を飾る燭台の一つ一つが、黄金色に輝いている。
長い廊下を歩いた、その先──厚い樫の扉に、ケイリーが手を掛けた。
「──クライド、お前どういうつもりだ!?」
扉を開けた瞬間、部屋の中から声が響いてきた。
先に応接間に通されていたらしい客人が、ソファーから腰を上げて、声を上擦らせている。
「叔父上、客人の前ですよ」
声を荒らげる男──実の叔父であるクールソン伯爵に、クライドが冷ややかな声を掛けた。
「客人だと? そんなもの──」
言いかけて、言葉が途切れる。
客人が誰かを知ったクールソン伯爵が、慌てて頭を下げた。
「こ、これは王弟殿下! 大変失礼をいたしました」
「良い、顔を上げてくれ」
アランに対するクールソン伯爵の態度は、ディアナに対する物とは全く違う。
そのあからさまな温度差に、ディアナは内心ため息を吐いた。
僅かに、クールソン伯爵の視線がディアナを捉える。
しかし、ディアナに対しては何も言わぬまま。
すぐさま視線は逸らされ、彼の意識は、再びアランにのみ向けられた。
「王弟殿下がお見えになると知っていれば、もっとちゃんと席を設けましたものを」
「──叔父上」
そんなクールソン伯爵を制したのは、甥のクライドだった。
「本日は、フィデス商会の会長であるディアナ嬢とお話し合いをしたく、屋敷にお招きしたのです」
「今の俺は、王弟殿下ではない──ガザード家の婿なものでな」
クライドだけではない、アランまでもが、苦笑を浮かべながら自らは付き添いであると主張する。
その様子に、クールソン伯爵が僅かに眉を寄せた。
「これはこれは……王弟殿下にお越しいただいては席に着かざるを得ませんが、果たしてまともな話し合いになるかどうか」
クールソンは、最初からディアナを下に見ていた。
それを察しながらも、アランは無言のまま、長身から伯爵を見下ろす。
「なにせ、奥方は知らぬ存ぜぬの一点張りですからなぁ」
「まずは、状況を確認しましょう」
ケイリーが声を掛け、全員がソファーに着く。
彼女はクールソン伯爵から封筒を受け取り、中の書類をテーブルに広げた。
「こちらが、ディアナ様と交わした書類──ということで、間違いありませんね?」
「如何にも」
ケイリーの言葉に、クールソン伯爵は頷きながらも、無意識に指を組み替えた。
書類の細部に目を通すまでもないと、ディアナだけではなく、アランまでもが苦笑を浮かべる。
「これは──ディアナが書いたものではないな」
「なっ」
アランの言葉に、クールソン伯爵の頬が引き攣る。
彼は内心の動揺をひた隠しにしたまま、笑みを浮かべた。
「よくご覧ください、殿下。奥方を庇いたいのは分かりますが──」
「ほう、俺が妻可愛さで庇っているとでも言うのか?」
「ヒッ」
ギロリと、アランの視線が伯爵を貫いた。
片や貴族社会に身を置き、権謀術数の中を生きてきた男。
片や己が実力を磨き、戦場で生きてきた男。
アランの鋭い眼差しに、クールソン伯爵が耐えられようはずがない。
「それに関しては、私から説明させていただきます」
怯える伯爵に代わって声を上げたのは、ディアナだった。
傍らに置いた鞄から、一枚の書面を取り出す。
「こちらをご覧ください」
そこには細い筆致で書かれた名前と、合わせるようにして押された印章があった。
複雑な意匠だけではない、押印に使われたであろうインクも、見る角度によって色を変える複雑な光を放っていた。
「これは……」
差し出された書面に書かれた文字を、ケイリーがそっと指でなぞる。
「ディアナ・ガザード……と、そう書かれておりますね」
「ええ、私のサインと、我が商会の印章です」
ガタンとソファーを鳴らして、クールソン伯爵が立ち上がった。
その額には、うっすらと汗が滲んでいる。
「そんなはずはない、令嬢のサインならば──」
「確かに、以前はこのようなサインを用いておりました」
ディアナの細くしなやかな指が、クールソン伯爵が持参した書面をつまみ上げる。
そこに書かれたサインは、ただ“ディアナ・ガザード”と文字を綴っただけのもの。
ディアナが持参した書類には、押印に重ねるようにして文字が躍っていた。
「ですが、商会の会長となったからには、念には念を入れまして……用いる印鑑も、インクも、全て特別にあしらえたものです」
「なるほど、確かにこのように色を変えるインクは、見たことがない」
「ありがとうございます」
クライドの言葉に、ディアナが笑みを浮かべる。
「朱肉も印鑑も、全て厳重に保管しております。特殊な配合をしておりますので、偽造すればすぐに分かるはずですわ。もっとも──」
ディアナの視線が、ちらりとクールソン伯爵に向けられる。
「今回の書類を偽造した方は、結婚前のことしか知らなかったようですわね」
「んな──っ」
汗に塗れた伯爵の顔は、すっかり血の気を失っていた。
「商会を起ち上げてからは、商会に関する書類には、このような形で署名捺印しております。これは、他の書面ですぐに確認いただけることですわ」
ディアナの言葉を裏付けるように、アランが重々しく頷く。
「……では、お聞かせくださいませ」
ディアナが微笑んだまま、伯爵を見つめる。
“月のディアナ”と称される、凍てついた美貌がそこにあった。
「一体どこの誰と、どのような契約を交わしたのでしょう?」
全員の目が、一斉にクールソン伯爵へと注がれた。









