パスカル・パオリ sideナポレオン(書籍版第15部相当)
グレゴリオ暦 1790年 9月15日
夕日に朱く染められたオレッツア(バスティアから南西に約10キロ)の街並み。
「――くそぉッ!」
街の一角にある黒ずんだ宿屋の一室では、ナポレオンの怒声が響いていた。
彼の怒りの発端は、およそ二ヵ月前に遡る。
「――祖国の父万歳!」
バスティアの港に詰めかけた人々は、歓迎の声を上げながら一人の初老の男性を囲んでいた。
彼こそが、コルシカ独立戦争の闘士パスカル・パオリである。
島民たちと旧交を温めているパオリの元に、親交のあったレティチアも挨拶に向かう。
その様子を遠目に眺めていた群衆の中には、ボナパルト兄弟の姿もあった。
「いやぁ、あの人が元気そうでよかった……な、ナブリオ?」
「……そうだな」
言葉とは裏腹に、ナポレオンの表情は面白くなさそうだった。
「なんだよ、もしかして嬉しくないのか?」
「もちろんコルシカ人として、コルシカの英雄帰還はうれしく思う」
と、僅かに嫉妬の入り混じった声音。
「だが、彼はもう過去の人ではないか」
幸いにも、その言葉はジョゼフの耳にしか聞こえなかったらしい。
しかし、あまりにも他人から反感を買いそうな言葉に、ジョゼフが諫めようと口を開こうとした。
直後、パオリはゆっくりと周囲を見回して、こう宣言した。
「私はこの9月にコルシカ行政政府の議員を選出するオレッツア会議を開催するつもりだ!そこで、私と志を同じくする同志たちに、皆の力をもう一度だけ貸してくれ!」
背筋を伸ばしたパオリは、すっと息を吸って胸を張る。
「コルシカの真の独立と自由を目指し、ともに歩もうではないか!」
瞬く間に、祖国の父万歳、と高い歓声が民衆から湧き上がる。
対するナポレオンは、その歓声を聞きながら、苦々しげにパオリを見つめていた。
かくして、ボナパルト家によるコルシカでの覇権を目論んでいたナポレオンにとって、最初の政治活動の場であるオレッツア会議が開催されたのだ。
そして、その結果は――。
「はぁ……はぁ……」
「やっと落ち着いたか?」
声を荒げ息を切らせたナポレオンに対し、ジョゼフは声をかけた。
「ッ!落ち着けるものか!これほど惨めな敗北をしておいて!」
オレッツア会議では、パオリが大方の予想通りにコルシカ県会議長とコルシカ義勇軍総司令官に任命され、パオリ派の候補者も数多く議員に選出された一方、立候補したボナパルト派の候補者は誰一人として選出されなかった。
「ジョゼッペ(ジョゼフのコルシカ名)こそ、アジャクシオの市長になれず悔しくないのか!?」
アジャクシオでも市長に就任したのはパオリ派の者であり、ボナパルト家代表として立候補したジョゼフは市の一役人に過ぎないという結果である。
「まあ、悔しくないわけではないけど、それよりもっと憂鬱なのは――」
言いながら、ジョゼフは黒い染みの広がる天井を仰ぐ。
「公然とパオリの対抗馬として立候補したことで、僕たちが身の程知らずと噂されている件だよ」
パオリを差し置いてコルシカの主権を握ろうとしたボナパルト家に、島民たちの間では不信感が広がっていた。
「チッ、ある程度は予想していたことだが、ここまでの反感を買うことになるとは予想していなかった」
明らかな形勢の不利に、ナポレオンは額に汗を滲ませて、静かにそれを口にした。
「……何とかしなければ、コルシカでブオナパルテ家は孤立してしまう」
年が明け、休暇が終わった6月半ば。
通りの両側には背の低い家屋がひしめき、窓からは三色旗が靡いている。
久しぶりに本国ヴァランスの街中を訪れたナポレオンは、懐かしさに目を細めた。
彼は革命により砲兵第一連隊と呼称を変えた元ラ・フェール砲兵連隊からヴァランス駐屯の砲兵第四連隊に転属となったのだ。
「しかし、ヴァランスに戻ってきただけでなく、あれほど休暇をとっていながら中尉に昇進するとはな」
以前は見られなかった自由の象徴であるフリジア帽をかぶっている買い物客の中を歩きながら、空に靡く三色旗を見て、思わず呟いた。
「……これも革命の恩恵か」
コルシカに帰省している間、貴族将校の大半が国外に亡命し、その恩恵を預かったボナパルト少尉は6月1日付で中尉へと昇進していた。
「やはり一将校でしかない俺は、もっと革命の力を積極的に利用すべきだ」
最後にそう締めくくり、ナポレオンは人ごみに紛れてある場所へと歩みを進めた。
その一ヶ月後の晩、下宿先の二階にある一室。
部屋の外からコンコン、と甲高いノック音が響く。
「よう、ナポリオーネ!」
「誰かとおもえば、アンリか。久しいな」
ナポレオンが扉を開ければ、そこに幼年学校と士官学校の同期であるアンリ・ド・エルラマジュが立っていた。
部屋の中に通すと、アンリはナポレオンの対面に腰かける。
「それで、どうしてここに?」
「いや、聞いてくれよ――」
話を聞けば、彼はナポレオンの卒業から遅れること三年で砲兵第二連隊に配属されたが、先日に砲兵第四連隊へ転属となり、昨日ヴァランスに着いたばかりとのことだ。
「それで、そっちの方は、ここ最近どうなんだ?」
「こっちは、政治活動に軍務にと何かと忙しい日々を送っているな」
「政治活動?」
「話は長くなるが――」
そう前置きし、ナポレオンはコルシカ島での経緯を語り始める。
「――と、いうことで、パオリに対抗する為、後ろ盾を求めてヴァランスの政治クラブである憲法友の会に入会したのだ」
「憲法友の会……たしか、そこはジャコバン・クラブ系列の政治クラブではなかったか?」
ジャコバン・クラブとは、多数の有力議員が所属し、憲法制定議会内外において最大勢力を誇る政治結社の通称である。
「ああ、いま一番勢いがあるのは、間違いなくジャコバン・クラブだからな」
「どこの党派に所属してるんだ?」
その巨大さ故に、勢力内では立憲君主派や共和派、王政派など沢山の党を抱えており、その中で多数を占めた党派が、そのまま議会の主導権を握る存在となっていた。
「コルシカの島民感情を考慮して、弾圧してきた王政より共和政の方が受け入れやすいだろうと、共和派に所属した」
「共和派か……それはいい方に付いたな。最近まで、あそこの主流は立憲君主派だったが、先日に国王がパリから逃亡した一件で、主流派からは追いやられたようだし」
6月20日の深夜、パリから国王が逃亡し、22日に東部国境沿いのヴァレンヌで拘束された一連の出来事、いわゆるヴァレンヌ事件が起きていた。
「だからこそ、最近は特に忙しい。ヴァレンヌの一件で立憲君主派を糾弾し、党内外での発言力を高める絶好の機会だからな」
それから、ひと月後の8月下旬。
軍務を終え下宿先へと続く、その帰り道で、アンリは心なしか表情の緩んだナポレオンと遭遇した。
「おっと、ナポリオーネか。どうしたんだ、そんな嬉しそうな顔して?」
「聞いてくれ!コルシカに帰れることになったのだ。三ヶ月だが休暇の許可が下りたからな」
何気ないナポレオンの一言に、アンリは双眸を瞬かせた。
「……よく許されたな、ここのところオーストリアとプロイセンがフランスに攻めてくるという噂で持ち切りなのに」
「ああ、ピルニッツ宣言のことか」
ピルニッツ宣言とは、8月27日にザクセンのピルニッツ城で会見していた神聖ローマ皇帝レオポルト二世とプロイセン王ヴェルヘルム二世が発した共同宣言だ。
その内容は、相互に連携して必要な場合は軍事力を用いて直ちに行動を起こす、というもので、要はフランスに対しての国王に危害を加えるなという恫喝である。
「あんなものは、ただの外交圧力に過ぎん」
「……それを差し引いても、ナポリオーネに休暇が許されるとは思えないが一体どうやったんだ?」
アンリは続けて問うた。
聞き及んでいた、この数年の帰省回数からすれば、情勢に関係なく休暇など許される筈がないと思ったからだ。
実際、今回ばかりはそう簡単に連隊長も首を縦に振らなかった。
「知己であるデュ・テイユ将軍の力を借りたのだ」
「お前、将軍と知り合いだったのか……」
「説明すると長くなるが、前回の休暇で二年ほど軍務から離れた時期があったのだ。それから原隊に復帰したはいいものの、砲術の腕がなまっていてな。それで当時のラ・フェール砲兵連隊の連隊長から砲術学校で一から学びなおしてこい、と実習を命じられ、そこで件の人物に出会ったんだ」
砲術学校の校長であったジャン=ピエール・デュ・テイユ少将は、当時のボナパルト少尉にとりわけ目をかけて、砲術の権威ある爆発物研究委員会にまで加えていたほどだ。
その縁から、現在は砲兵総監の要職にあったデュ・テイユ将軍に助力を仰ぎ、どうにか休暇を手に入れたという経緯があった。
「休暇が許された経緯は理解できたが、そこまでして今回は何のためにコルシカへと帰るんだ?」
「もちろん、次の選挙のためだ」
「選挙?」
「来月にいよいよ新憲法が制定されることは知っているな?」
9月3日、フランス史上初の憲法である1791年憲法が制定されることとなり、フランスは立憲君主制への第一歩を踏み出した。
「それに伴い、使命を終えた憲法制定議会は解散され、新憲法に基づいた新たな議会、立法議会が成立される運びになった。延いては、その新議会の新たな議員を選出するために、もうすぐフランス各地で立法議会議員選挙が行われるからな」
「それにまた、ナポリオーネの兄さんが立候補するのか?」
ナポレオンは大きく頷き、そのやる気に満ち溢れた表情のまま続けた。
「前回はパオリにしてやられたが、今回は負けるわけにはいかん!必ずやブオナパルテ派の者でコルシカ代表の議席を獲得し、この劣勢な形勢に楔を打ち込んでやる!」





