砲術練習 sideナポレオン(書籍版第11部相当)
グレゴリオ暦 1789年 1月27日
人類史の大転換期として知られるこの年のフランスは、猛烈な寒波の到来とともに幕を開けた。
部隊から指定された下宿先の一部屋で、デ・マジと共に肩を震わせながら暖をとっていたナポレオンは苛立った声音で吐き捨てる。
「――なんて寒さだ。オーソンヌでこれほどの寒さなど信じられん!?」
二年前の12月からラ・フェール砲兵連隊はヴァランスからブルゴーニュ地方にある人口3000人ほどの小さな町オーソンヌ(中部フランスの東寄りにある町)に駐屯地を移していた。
「……セーヌ川なんて河口のル・アーヴルまで氷が張っているらしいね」
「だとすれば、今年もパンの値段が上がりそうだな」
寒波による凶作はもとより、小麦粉を作るのに不可欠な水車とパンを運送する川が厚い氷に覆われたことで、物価の上昇は避けられない情勢であった。
「いや、パンだけではなく果物も野菜もろくに取れないか」
「ああ、だから去年の8月に就任したネッケル財務総監が穀物の輸出を禁止して、イングランドから大量の保存食を買い付けているとの話だ」
「保存食というと、たしかフレッド・ボーナムとかというイングランドの商人が開発したあの缶詰のことか……」
記憶を辿るような返しに、デ・マジは不意に片眉を上げた。
「そういえば、フレッド・ボーナムに関しておかしな噂を聞いた覚えがある」
「おかしな噂?」
「えっと、どうも本当の開発者は支援者であるヘンリー・アルフォードなんていう紳士だって噂だよ。なんでも、この人物は新大陸独立戦争の結末やラキ火山噴火をあたかも予言していたかのように行動して、莫大な富を築き上げたらしい」
「予言だと?」
ナポレオンの胡散臭いものを見るような目つき。
「いや、僕も最初は予言なんて胡散臭い噂信じていなかったけど、どうも只の噂とも言い切れないみたいなんだ」
デ・マジは神妙な顔をして、声を潜めて続けた。
「事実、フレッド・ボーナムもアルフォード家の元執事だったって話だし、偶然にしては出来すぎとは思わないかい?」
「ふん、馬鹿馬鹿しい」
どこか気に食わなさそうに、鼻を鳴らして答える。
「運命を切り開く方法は、与えられた運命の中で最善を尽くすことだけだ」
「……」
「予言などという噂も周囲の愚物が嫉妬から口にしているだけのこと。フレッド・ボーナムやらヘンリー・アルフォードが成功したのも、それを実践しただけに過ぎない」
そこまで言って、ナポレオンは皮肉気に口の端を吊り上げた。
「だからこそ、もし仮に予言とやらが本当だとしても、与えられた運命に使われているような愚物であるなら、そのうち醜態を晒すことになるだろう」
愉しげな褐色の双眸から、デ・マジは気後れして目を逸らす。
視線の先には、真っ白な氷雪で凍った窓ガラス。
ラキ火山噴火以降、異常気象には慣れていたはずなのに――。
デ・マジは、そのことが堪らなく不吉な予感に思えて、自らの運命に思いを馳せた。
時折吹く風が肌寒さを感じさせる三月末。
オーソンヌの街外れある砲兵射撃演習場。平らな草地と盛り上がる標的、地平線に続く青い空の下には、何十数門もの野砲が並んでいた。
そられはフランスで開発され、遅れずに歩兵との随伴が可能となった新式の野砲である。
野砲一門の周囲には、六人組の砲兵班。
彼らは、ねじ式装置であるスクリューを回して、水準器を基準に砲を水平に合わせている。
やがて水準器で砲身の一番上にあたる箇所を発見し、そこにチョークで印をつけた。
これらの一連作業が終わると各班員がそれぞれ定位置に着く。
「――装填位置へ!」
それを見届け、ナポレオンは砲術演習の号令をかける。
命令に従って、カノン担当兵と砲手が野砲を砲撃位置から一メートルほど後ろに引き下げると、
「装填!」
班員は、掃除棒を射し込む者と装填しやすい角度に砲身を調整する者に別れる。
「清掃を始めよ!」
砲身の内壁を掃除棒で擦り終えた者が、押し込み具と持ち替えた。
すると他の班員が、砲膣に砲弾と弾薬が一つになっている一体型砲弾を入れる。
「押し込め!」
指示に従った担当者が一体型砲弾を奥まで押し込んでいる隙に、砲手が針を点火口から射し込んで火薬袋を破った。
「砲撃位置へ!」
砲手と班員が野砲を元の位置に戻し、車止めで砲架(砲身を乗せる台)の車輪を停止させる。
「よーし、狙え!」
二人組の班員がてこを架尾の下にあてがうと、砲手の指示で左右に動かし、チョークの線上に置いた砲尾照準を覗き込みながら、スクリューで上下の調節を済ませる。
「――準備完了です!」
各班の砲手が両手で合図し、砲煙が流れてこない風上まで移動したのを確認したナポレオンは、一つ頷いて胸を逸らした。
一呼吸の間。
「――撃てぇ!」
号令に合わせて、班員の一人が引き紐を引いた――刹那。
閃光と共に大地を震わせる轟音。
後には、大きく後退した砲架と火薬の臭い漂う砲煙に、取り外した砲尾照準を覗き込んだ砲手たち。
それらを一瞥したナポレオンは、一つ息を吐き青く潤む春の空を仰いだ。
砲術練習を終えたナポレオンの元に、くたびれた軍服を纏う壮年の軍曹が近寄ってきた。
「ブオナパルテ少尉、身体の調子はどうですかい?」
「……たった今、気分が悪くなってきた」
声をかけてきた者の顔を見て、ナポレオンは反射的に顔をしかめる。
ラ・フェール砲兵連隊のベテラン軍人、ジャコブ・ラウルト軍曹だ。
「そらりゃ大変だ、なんたって少尉は着任して一年経たずに二年近く休暇を取るほどの難病を患っていたのですからな?」
言葉とは裏腹に、軍曹の口元には隠し切れない笑み。
「貴様、一体いつまでそのことを蒸し返すつもりだ!?」
彼はナポレオンが仮病で休暇の延長を重ねていたのを察して以来、こうして何度もからかってくるのである。
「そうですな、俺が昇進するまででしょうか?」
「戦死するまでいってろ!」
大砲に関する知識や砲撃の腕は抜群なのだが、しばしば問題行動を繰り返すので、ここ何年ほど昇進を見送られていた。
そのことを言外に含めた返しに、ラウルト軍曹はゲラゲラと笑い声を上げる。
そうして一頻り笑ったあと、不意に何かを思い出す眼差しで野砲を見やった。
「しかし、砲術練習の風景も変わりましたな」
「何がだ?」
「少尉どのがまだ生まれてもない頃は、装填に火薬すくいは必要不可欠でしたが、いまでは影も形もない」
一体型砲弾が開発されるまで、砲弾と弾薬は別々なのが当たり前であり、その為、装填の際には適正な量の火薬をすくい砲口から押し込むレードルが必需品であった。
「まして、発砲速度なんて倍近くは速くなっている」
それに加え、砲弾と火薬を順次押し込む手間が省けた分、以前の二倍速で砲撃が可能になるという発砲速度面での著しい向上にも寄与していた。
「何より、今の照準装置なら砲弾がどこに落ちるのか、撃つ前から正確に予測できるときたもんだ、いやはや時代は変わりましたな……」
また砲身の仰角を正確に定めることが出来るネジ式装置と照準線の位置を動かせる新しい照準装置を採用したことで、砲弾を発射する前から正確な着弾地点の予想まで可能となった。
「ふん、そんなに過去が懐かしいなら、他国に亡命すればよかろう」
遠い目のラウルト軍曹に対し、ナポレオンは淡々と言葉を返す。
「フランス以外の国ではまだまだ旧式の大砲がほとんどなのだからな」
ラウルト軍曹が言及したそれらは、全てグリボーヴァル・システムによるものであった。
「それは勘弁ですな……今更、埃をかぶった大砲を扱うなど」
つまるところ、グリボーヴァルの革命はフランスが砲術分野において他国の20年先を進んでいることに他ならない。
「それよりも、この新式大砲を思う存分、他国の軍勢にぶちかましてやりたいもんです」
「……他国の軍勢になればいいがな」
軍人気質なナポレオンにしては珍しい、どこか気乗りしない口調にはある懸念が含まれていた。
軍曹がそれについての疑問を口にする前に、遠くから呼び声が割り込んだ。
「お~い!ナポリオーネ!」
「どうした、デ・マジ」
駆け寄ってきたデ・マジが、ナポレオンを見とめて、こう告げた。
「僕とナポリオーネに連隊長から重要な話があるそうだ。すぐにでも向かおう」





