コルシカ島 sideナポレオン(書籍版第9部相当)
グレゴリオ暦 1786年 9月15日
ナポレオンの出身地コルシカ島は、今から60年ほど前――。
当時、島を植民地支配していた宗主国ジェノヴァ共和国との徴税トラブルをきっかけに島民たちは反旗を翻し、コルシカ王国として独立。
13世紀以来、圧政と重税で島民を苦しめてきたジェノヴァも、この頃には大きく衰退しており反乱を鎮圧する軍事力はすでになかったため、オーストリアやフランスに派兵を依頼するも数十年にも及ぶ島民の激しい抵抗と膨れ上がる多額の借金から、1768年5月コルシカ島の領有権をフランス政府に売却(ヴェルサイユ条約)した。
かねてから地中海制覇の基地としてコルシカ島を狙っていたフランスとの利害が一致した形である。
けれども、両国の思惑など関係ない島民たちにとっては屈辱でしかない。
結果、島民感情を逆なでにする結果となり、コルシカ王国は真の独立を目指してフランスに宣戦布告。
今度は援軍ではなく主力として侵攻するフランス軍に対して、コルシカ軍を率い相対したのが、コルシカ王国の最高職であり英雄(長期間の戦役で内部分裂していたコルシカを再統一)と称されたパスカル・パオリ将軍(事実上の元首)とその副官シャルル・ボナパルトであった。
しかし、当初は地の利から小さな勝利を得ることもあったコルシカ軍も、しだいに装備と兵力で勝るフランス軍に押し返され、1769年5月、島の山間部であるポンデ・ノーヴォの決戦で大敗を喫すると、パオリはイギリスへと亡命し、シャルルはフランスに降伏。
こうして島を占領したフランスは、その年のうちにコルシカ島の併合を宣言した。
――これにより、40年間という長きにわたったコルシカ独立戦争はコルシカの敗北という形で幕を下ろしたのだ。
そんな歴史の乱流に翻弄され、弾圧を強いられたコルシカ島西岸アジャクシオの港に、フランスからの定期船が着いたのは陽も傾き始めたころ。
ゆっくりと停泊した船舶から、引き出される艀。
乗客が乗ったそれを、波止場では一人の女性が落ち着かない様子で見つめている。
年の頃は、30代後半といったところか。
肩口で切り揃えられた黒髪と、引き締まった唇に細い顎。
フランスやイタリア系というより、スペイン的な美しさで調和のとれた顔立ち。
強いて言えば、鋭すぎる眼光が欠点ともいえるが、彼女の美貌を損ないうるものではない。
むしろ、そのパーツも相まって、他者の視線を捉えて離さない超然とした空気を纏っている。
ほどなくして、横付けされた艀から凛々しい青年将校が降り立った。
「ああ、ナブリオ(家族内での愛称)!」
それを見て、居ても立っても居られず駆け出した女性――レティチア・ボナパルトは感極まったように、我が子を抱きしめる。
「母さんっ」
7年9ヵ月ぶりとなる祖国と母親との再会。
これには、さすがのナポレオンも胸中から湧き上がる感情を抑えきれない。
たっぷり数秒間の熱い抱擁。どこか遠い、波のさざめきと、それに紛れたすすり泣き。
ついで腕の中に収まる温もりから、レティチアはしみじみとした口調で呟いた。
「何年ぶりだろうね……こんなに大きく立派になって」
真っ赤な折り襟の青い上着に、やはり青い膝丈の半ズボンと黒の靴下。
金色で煌びやかな菱形の肩章が、砲兵少尉の地位を示している。
「家ではほかの兄弟たちもナブリオに会うのを楽しみにしているし、積もる話は歩きながらでも話そうか」
港からボナパルト邸までの帰路。
人口一万弱の小都市に過ぎないアジャクシオの沿岸沿いを、二人は時折吹き付ける潮風に目を細めながら足を進めていた。
ナポレオンは懐かしい故郷の光景に視線を彷徨わせる。
「ブリエンヌには何度か面会に行ったから、パリでのことを聞かせておくれよ」
その様子をちらりと見て、レティチアがそう切り出す。
「そうですね……何から話しましょうか」
ナポレオンは、あの頃を思い出すように語り始めた。
ある日の放課後。
士官学校の自習室で、勉強中であったナポレオンの向こう脛が蹴り上げられた。
息が詰まるほどの激痛。
激昂に顔を歪めたナポレオンは、反射的に目つきを鋭くする。
犯人は、向かいに座っている赤毛の少年――ピカール・ド・フェリッポー生徒であった。
「貴様、何のつもりだ!」
その叫びと同時に、フェリッポーの脛を蹴り返す。
「やったな!」
「そっちが先に仕掛けたのだろう!」
二人は入校当初から、特にこれという理由もなく敵意を剥き出に、些細なことで衝突していた。
史実の世界で、後に敵対したこの二人の運命は、この頃から宿命づけられていたのかもしれない。
――ナポレオンにとってデ・マジが馬の合う友人だとするなら、虫が好かないのがフェリッポーであったのだ。
普段はどこか不機嫌そうな表情を崩さないナポレオン。
けれども、久しぶりとなる母とのお喋りに、今回ばかりは年齢相応な子供っぽい顔を見せ、自然と口も軽くなる。
「――と、そのうち何時ものような殴り合いにまで発展したのですが、上級生が仲裁に入った時には、奴の顔はボロボロで見るに堪えないものでしたよ」
本当は、ナポレオン本人もフェリッポーと変わらない状態であったのだが、大好きな母(生前の記録で、多数の母礼賛を残したナポレオン)の手前、そんなことは口にしない。
「……大丈夫だったのかい?」
「ええ、もちろん勝負は私の勝ちといっていいものでしたよ?コルシカ人の一人として、いけ好かないフランス野郎になど負けるはずもないのですから」
「そういうことを聞いているのではないんだけどね……」
純粋に心配していたレティチアは、複雑そうな顔でそう突っ込む。
――コルシカ人気質の負けん気に呆れればいいのか、長年のフランス生活でも面影を色濃く残していることに安堵すればいいのか、悩んでいる様子であった。
とはいえ、フェリッポーとの喧嘩もシャルポーの一件以来、少しずつ自制が効くようになっていったのだが、それを知らないレティチアからすれば何の気休めにもならない。
言外に含まれた意を察して、ナポレオンは話題を逸らそうと記憶をあさる。
しかし、学生生活で思い出されたのは、不遇な扱いに反発しフランス上級貴族の子弟と喧嘩に明け暮れた日々だけであった。
一瞬、苦い思いが胸によぎるも、一つ頭を振って切り替える。
「……まあ、学業に励んでいたので士官学校のことはあまり、お話しできるようなことはありませんね」
「そういえば、一年と経たずに士官学校を卒業したんだってね?」
レティチアの言葉に大きく頷き返し、ナポレオンは弾むような口振りで告げる。
「ええ!母さんの名を辱めるわけにはいけませんから!」
1785年9月、士官候補生試験(実質的な卒業試験)が実施された。
この試験に合格した砲兵科の生徒は、次に士官候補生として一年間メス(フランス北東部の国境にほど近い都市)の砲術学校で再教育を受けてから、最終段階の任官試験に進むのが通例である。
しかしながら、試験結果が特に優秀な者についてはその限りでなく、一足飛びでの任官が許されていた。
そして、受験者202名中136名の合格者(砲兵科14名)のうち、58名は士官候補生の過程を挟まずに任官され、シャン=ド=マルス陸軍士官学校出身ではナポレオンと他3名 (フェリッポーとデ・マジ)だけがその中に含まれていた。
「……ただ、フェリッポーの奴に成績で負けたことだけは気に食いませんが」
試験のあと、嫌見たらしく自慢されたフェリッポーとのやり取りを思い出して、ナポレオンは唇をかむ。
――試験結果の順位は、ナポレオンが58位中の42位だったのに対し、フェリッポーは一つ上の41位であった。
「しかし、奴は士官学校に入校して4年目の合格ですからね」
そう言って、威勢良く胸を張り思い直す。
確かに数字だけ見るとナポレオンの順位は、下から数えた方が早い。だが、この58名の殆どはフェリッポーやデ・マジのように、3年あるいは4年の歳月をかけて合格している。
この事実を考慮すれば、わずか11ヶ月の短期間で必要な全課程を修了し、士官候補生試験に合格というのは驚異的な優秀さの証に他ならない。
「それにデ・マジとも同じヴァランス(フランスの東部ローヌ川沿いの町)のラ・フェール砲兵連隊に配属されたことを考えれば、やはり試験結果はそう悪くないものでした」
「ラ・フェール砲兵連隊って?」
そういえば、詳細な配属先は手紙で伝えていなかったか、とナポレオンは内心で呟く。
「フランスには王国砲兵軍団を構成する7個連隊がありますが、その中でも、あのグリボーヴァル将軍が指揮をとり最強の呼び声高いのが、私の配属先であるラ・フェール砲兵連隊なのです!」
「グリボーヴァル将軍って名は、私も聞いたことがあるぐらいだし、大層なお方なんだろうね……」
グリボーヴァル将軍とは、グリボーヴァル・システムの生みの親であり、砲兵たちの地位向上や合理的な砲術教練の導入などにも精力的に取り組む、フランス砲術家の第一人者である。
「それで、軍人としての生活はどうなんだい?」
「連隊に着任したばかりのころは隊付勤務として、砲術演習と砲術講義ばかりの退屈な一日でしたね」
隊付勤務は、幹部候補生としての実地訓練にあたり、砲手、伍長、軍曹という三階級を経て、少尉として正式に任官されるまでの下積みのようなものである。
「軍務に慣熟したと認められ少尉に任官されたあとは、中隊付き将校として中隊の指揮をとり、私の号令のもとで、100人に届こうかという兵士たちを手足のように動かしましたよ。この時ほど、軍人の道を選んだ喜びに身体を震わせた経験はありません」
ナポレオンは、紺碧の海に浮かぶ小さな漁船に目を向けたまま、微かに相好を崩す。
「休日の大半は読書をして過ごしました。特にジャン=ジャック・ルソーの著書はお気に入りで読み漁っていましたね」
「そう、ナブリオがあっちでも楽しんでいるようでなによりだねぇ」
「はい。ですが――」
安堵から顔をほころばせるレティチアを見据えながら、きっぱりと言い切る。
「母さんや家族たち、そして祖国コルシカのことを、一日たりとも忘れたことなどありません」
事実、コルシカ島のバスティアにラ・フェール砲兵連隊から派遣されている一個中隊の分遣隊に、ナポレオンは何度も異動を嘆願していた。
――今回の半期休暇を利用したコルシカ島への帰省も、元をたどればその異動願いが受け入れられなかった結果である。
「あくまでも私はフランス人ではなくコルシカ人なのですから」
タカのような精悍な横顔で、ナポレオンは淡々とそう返す。
そのことをレティチアが内心で喜んでいるうちに、海岸沿いから一歩外れた場所に建つボナパルト邸へと辿り着いていた。
初対面となる幼い弟妹をはじめ、昔懐かしい親戚たちとの再会。
けれども、そのことに感動している暇もなくナポレオンはある問題に直面した。
「何ですか、この山羊たちは……」
顔見せを終えて早々に足を運んだミレーリ(ボナパルト家が所有する別荘)の耕作地。
しかし、以前は作物を栽培する畑であったその場所は山羊の牧場へと姿を変えていた。
「これでは土地が荒れ放題になるのも当たり前です!」
ボナパルト家の家計が想像以上に苦しかった原因の一つを突き止めた、と言外に含ましてナポレオンは告げる。
「コルシカはもともと農業の地なのですから牧畜では生きていけませんッ。速やかに土地を開墾し直して、養蚕も始めましょう!」
となりで顔を曇らせて押し黙るレティチア。
更に言い募ろうとナポレオンは、しかめた顔を近づける。
「そのためにも山羊は一刻も早く追い払わなければ!こいつらは桑の木や植物を食い荒らすだけの害獣なのですから!」
「そうは言うけどねぇ……シャルルは去年に逝っちまったし、コルシカ島総督で親しくしていたマルブフ伯爵ももう先が長くないらしい」
1785年2月ナポレオンの父、シャルル・ボナパルトは、ガンを患い旅の途中で息を引き取っていた。
「それに何より、ミレーリの経営を主導していたリュシアン伯父さんも、高齢と膝の持病でベッドに寝たきりだろう?頼れる人がいないから伯父さんも、羊飼いたちの言いなりになってしまってねぇ」
度重なる不運から、諦念に彩られたレティチアの呟きに、ナポレオンは胸を張りながら、こう断言した。
「分かりました。私が何とかしてみましょう」





