王立士官学校 sideナポレオン(書籍版第6部相当)
グレゴリオ歴 1784年 10月18日
時を10年ほど遡る。
准男爵に叙されたヘンリーを祝うため、アルフォード家でパーティーが催されていたころ。
パリの東南約100キロに位置し、セーヌ川のほとりにある町ノジャン。
川が町中を流れるノジャンは、森に覆われ獣除けに柵が巡らされた西側と、セーヌ川の恩恵を受け田園地帯が広がる東側の二つの顔を併せ持つ。
そんな自然豊かな小さな町に一台の駅馬車が到着した。
茜色に反射する馬車から、ぞくぞくと降り立つ乗客たち。
その中に、赤い襟と青い上着に黒の半ズボンという服装で統一された少年の一団が姿を見せる。
引率と思われる壮年の神父以外は、皆10代半ばぐらいの年齢であろうか。
彼らは、王立士官学校への入校を許されたブリエンヌ幼年学校の生徒たちだ。
そして、少し間を置くようにして馬車から現れたひとりの少年。
濃い茶褐色の髪とブラウンの瞳。端整な顔立ちに見合わぬ鋭利な眼光に、どこか影を匂わせる雰囲気を纏っている。
軍人志望の15歳という年齢にしては小柄な躯体なこともあり、彼の存在は周囲から浮いていた。
ブリエンヌ幼年学校の一行は、一夜を明かすため宿泊へと向かう。
神父に先導される生徒たちに遅れる形で少年も歩きだす。
行きかう人の間を器用に縫って歩いていた、その道中。
「――おい、ラパイヨーネ(わら鼻)」
何気ない仕草で生徒の一人が振り返る。
「俺の名は、ナポリオーネ・デ・ブオナパルテだ」
いい加減覚えたらどうだフランス人、と続けた少年――後のナポレオン・ボナパルトは怒りを秘めた眼差しで応えた。
「もう何年繰り返していると思っている?」
ラパイヨーネ(わら鼻)とは、ナポレオンが幼年学校に入校したその日――。
自己紹介の際に口にした、ナポリオーネというフランス人には馴染みのない名と出身地であるコルシカ(地中海に浮かぶ島)特有の強いアクセントから、フランス語でラ・パイユ・オ・ネ(鼻にくっついたわら屑)と聞き間違えたことで生徒たちの間に広まったあだ名である。
「その鳥頭でよく王立陸軍士官学校に入校する許可が出たな」
あんまりな物言いに、その生徒――アンリ・ド・エルラマジュが強い口調で言い返す。
「だったら、お前こそ俺の名前を知っているのかよ!」
ナポレオンとはクラスメートであったアンリ。
けれど幼年学校では、貴様やお前、としか呼ばれなかった反発心から、怒りに満ちた声音で問い返した。
すると何を今更と言いたげに、ナポレオンが眉を寄せる。
「――アンリ・ド・エルラマジュ、だろう?」
「な、なんだ知っていたのか」
「当然だ、お前と違って頭の出来が違うからな」
「――ッ!ラパイヨーネじゃなくてナポリオーネだろう!俺だって知ってるよ!」
気恥ずかしげなアンリの顔を見やって、ナポレオンは口元を緩ませる。
それから、ふと気づいて問うた。
「それで何の用だ?」
「え?」
「……本当に鳥頭なのか?」
皮肉というより、呆れたといった口調。
「用があったから声をかけたのだろう?」
「あ、ああ、そうだった」
と、そこで初めて当初の目的を思い出したアンリ。
気恥ずかしさで目を逸らしつつ、話を戻した。
「あと三日もすればパリに到着だけど、ナポリオーネは楽しみじゃないか?」
「何がだ?」
「何がって、パリだぞパリ!建物だってブリエンヌと違ってものすごく高いだろうし、見たことない外国人もたくさんいるという話だ!」
「……ふん、くだらん」
興味なさげにナポレオンはそう言って、夕焼けに染まったセーヌ川を見やる。
しかし淡々とした態度とは裏腹に、内心では彼もまた噂でしか知らない花の都パリでの生活に思いを馳せている一人であった。
それでも無関心を装っているのには事情がある。
ナポレオンの実家ボナパルト家は、コルシカ島で100年以上の家柄を誇る貴族とはいっても、まともな財産など家長シャルル(ナポレオンの父)の棒給(王立裁判所の陪席判事)ぐらいというありさま。
重ねて、子宝に恵まれたレティチア(ナポレオンの母)が5男3女をもうけた結果、ボナパルト家は両親含め10人を超える大家族になっていた。
当然、家計は火の車で小遣いに回せるほどの余裕はない。
ナポレオンがブリエンヌ幼年学校に入校できたのも、フランスの貧乏貴族は国王の給費生(特待生)に採用されれば学費が免除されるという恩典があったからだ。
そのような背景と元来のプライドの高さから、周囲に遊ぶ金もないほど貧乏なのだと悟らせたくないボナパルト少年は――。
「そもそも俺たちは、パリに遊びに行くのではないんだぞ?」
あえてパリでの遊びに、まるで興味がないとも言いたげに振舞う。
アンリはナポレオンの澄ました態度に目をしばたたかせて。
「なんだよ、優等生ぶって……だったらナポリオーネは何に興味があるんだ?」
そこで何かを思い出したように、問い返す。
「やっぱり軍務や海軍に関することか?」
ナポレオンのブリエンヌ幼年学校での成績は、他の生徒と比べ取り立てて優秀というわけではない。
なかでも、コルシカ人というハンディキャップから、ラテン語やフランス語など語学の授業では劣等生と呼んで差し支えないものである。
引き換えに、別の分野では既に頭角を現していた。
「ブリエンヌの授業で歴史と地理はまあまあだったが、級友の中でも数学は飛びぬけて優秀だったし、海軍士官になるつもりなのだろう?」
公開試験では、毎年のように数学関係の賞を受賞していたもんな、と。
ブリエンヌ幼年学校では、学年末の9月初めに公開試験がおこなわれ、特に優秀な生徒には地元の名士から優等賞を授与される。
その公開試験で三年連続、数学関係の賞を獲得したナポレオンには、優秀な海軍士官となる素質がうかがえた。
「たしかに、俺は海の国コルシカの生まれだ……紺碧の海を自由に航海できる海軍に興味がないかといえば嘘になる」
わずかに歯切れ悪そうに、先を告げた。
「だが、海軍になるつもりはない」
「どうしてだよ?」
「海軍はよしてくれと、母に懇願されたからな」
まあ、そう言いたくなる気持ちもわかる、とナポレオンは短く息を吐く。
「最近は父も体調が悪いという話だ。海軍士官になれば毎回のような遠征でそう簡単に帰省することもできない」
「……そういう事情なら海軍士官より、何かあればすぐに帰れる陸軍の方が都合はいいか」
アンリの静かな呟きに、ナポレオンは神妙な顔で双眸を伏せる。
だが、憂愁の気配は一瞬。
再び上げられた瞳に野心を秘めて、精強な声で応じた。
「だから、砲兵将校になるつもりだ」
「砲兵?」
「歩兵は一日中歩き回るだけの能無しで、家柄ですべてが左右される騎兵では外国人の俺は成り上がれない」
また1781年にフランス陸軍省は、歩兵及び騎兵の将校任用資格を得るためには、貴族身分であることを証明しなければならないという省令を発していた。
それだけ平民、よそ者の昇進を疎ましく思っているという証に他ならない。
そんな旧制度時代では、辛うじて四代続いたコルシカ人貴族の家柄などでは昇進の望みなどなかった。
「その点、砲兵であればしかるべき数学の技能さえ備えていれば平民だろうが貴族だろうが、それこそ外国人だろうが昇進できる」
それは、専門的技術が要求されるという性質上の理由以外に、軍内で砲兵のヒエラルキーが最底辺であったというのが大きい。
――いまなお騎士的武勇を崇拝する貴族たちにとって、砲兵の地位は独占するほどの魅力を感じるものではなかったのだ。
「なにより、これから先の戦争は、砲兵の援護なくして最終的な勝利など得られない。どれだけ、貴族たちが騎兵であることを誇ったところで、砲兵の援護がなければ、遥か彼方から飛んでくる砲弾の前には只の的でしかないのだ。そしてそれは、敵より騎兵や歩兵で劣っていようとも、砲兵の優位があれば戦場を支配できることを示している」
まっすぐに向けられた冷徹な眼差し。
ふっと見返した漆黒の瞳に、アンリは秋風とは別のうすら寒さを覚えた。
1772年に貴族たちの軍幹部養成施設として開校されたパリの王立陸軍士官学校。
その中の一つであるシャン=ド=マルス陸軍士官学校は、王都パリの中心部ルーブル宮殿(現ルーブル美術館)からセーヌ川を挟んで南西に2キロほどの位置にある。
ナポレオンの同期生として入校した計215名は、先ず中隊として四個区隊に分けられ、さらに優等、中間、劣等の三クラスに学力編成された。
それらは手始めとして、新入生たちに規律と競争心を植え付けることが目的である。
そんな士官学校での生活にも慣れ、季節が秋から冬に移り変わったある日。
寒風吹きすさぶ校庭で、教官と上級生による執銃教練がおこなわれていた。
「ボナパルト生徒、はやくキビキビ動かんか!」
暗雲が垂れ込める空の下に、軋むような怒鳴り声。
彼はナポレオンより二年早く入校したピエール=クレマン・ド・シャルポー上級生だ。
しかし、とにかく早口で聴き取りにくい指示なため、外国人であるナポレオンの動作は酷くぎこちないものであった。
――直後に、飛んできた槊杖の一撃。
「ほら、のろのろしているからそうなるんだ!」
マスケット銃を持っていた指に激痛が走り、ナポレオンの双眸に憤怒の炎が燃え上がる。
その一部始終を隣で見ていたアンリが、まずいっと制止するより先に、逆上したナポレオンはマスケット銃を相手に向かって叩きつけた。
空気が固まる。
間一髪、相手が受けとめたからよかったものの、もう少しで大怪我をさせるところであったのだ。
――この馬鹿!上官侮辱で営倉入りだぞ!
緊迫はそのまま騒然となり、アンリも固唾を飲んで周囲の生徒たちと成り行きを見守った。
それを見ていた教官はやってくるなり、一人の生徒を呼び出す。
やってきたのは、中性的な顔つきに灰色の髪をした青年。
軍人らしからぬ穏やかな目つきが印象的であった。
新入生の証である緋色の襟とは異なり青色の襟の軍服であることから、ナポレオンより一つ年上の上級生なのだろう。
「アレクサンドル・デ・マジ。今の担当に変わって、貴様がこやつの指導にあたれ」
予想外の言葉に、周囲のだれもが目を丸くする。
「こやつは気性が荒く厳しくしたところで逆効果だろう。そうなると貴様の方が適任だ。ここはひとつ、指導してみろ!」
こうして思いもよらない決着の結果、ナポレオンの教練担当はデ・マジということになった。
その出来事から、数ヶ月後の執銃教練。
「やあ、ナポリオーネ」
「ああ、デ・マジ。今日もいつのも場所でいいか?」
校庭で顔を合わせた二人は気さくに挨拶を交わすと、お気に入りの教練場所へと歩みだす。
その手慣れたやり取りに、デ・マジはふと懐かしむように口にした。
「しかし、改めて思い返すと不思議な気分になるよ」
「何がだ?」
「正直、ピエール上級生に噛みついていたのを見たときは、ナポリオーネのことをもっと気難しい奴かと思っていたんだ」
デ・マジは問題児で有名であったナポレオンの担当になって、当初は気苦労が増えるだろうと思っていた。だが、そんな本人の決意は杞憂に終わり、気がつくと士官学校での生活や将来を語り合う仲になっていた。
「ああ、あの時のことか」
と、ナポレオンは苦虫を嚙み潰したような顔を見せる。
「……あの日のことは、これからも大いに反省しなければならん」
「それはどういう心境の変化なんだい?」
珍しく反省の弁を口にしたナポレオンに、デ・マジは目をまたたかせる。
「その場で感情のままに動いていては、どれだけ才覚があろうと匹夫の勇に過ぎん。我々将校に必要なのは、本能的な強さではなく、理性的な強さというもの」
もっともそれを明確に自覚できたのは、今日の午前中のことなのだが、と自嘲気味に言った。
「午前中というと、アンリとフェンシングをしていたらしいけど?」
ナポレオンとの付き合いから、アンリとも親交があったデ・マジ。
「……俺のフェンシングの腕前はお世辞にも上手いといえるものではない。その一因がどうも、技量面ではなく、精神面で冷静さを失ってしまうからのようだ」
シャン=ド=マス陸軍士官学校では、格闘競技の一環としてフェンシングが採用されている。
その授業の中でナポレオンは、少しでもいい突きを貰うと、仕返しに気が逸り隙だらけになってしまうという弱点があった。
「あの、ピエール上級生との一件にも同じことが言えよう」
この世界のボナパルト少年にはあずかり知らぬことだが、史実においてもナポレオンはあの諍いを大いに反省し、のちに執政となったあとも、何かとシャルポーに目をかけては引き立て、戦闘の負傷が原因で亡くなった際にはいたくその死を惜しんだ、と伝えられている。
そこでふと、ナポレオンの目つきが変わり、毅然とした口調で言い切った。
「それにコルシカの悲願を果たすためにも、こんなことではいかん!」
「コルシカの悲願?」
「……コルシカ島の扱いは以前に伝えたな?」
爆発寸前の何かを押し殺したような、軋むような声音。
「フランスの役人どもは、正式にフランス領として併合されたあともコルシカを植民地扱いだ!だからといって、この情勢では独立など夢物語でしかないッ。ならばせめて、コルシカをフランスの一部とはっきりと認めさせ、コルシカ人の手に実権を取り戻す必要がある!」
全身から嵐のような激情が溢れ、ブラウンの瞳が紅く染まりだす。
――ナポレオンの瞳は、極度の興奮状態に陥ると血液の色が透過し見た目に影響を与える、という身体的特徴が存在したという一説がある。
「そのためには、どんな突発的な事態にも動じぬだけの精神力と判断力を養わねばならんッ」
目的地である校庭の隅に到着し足を止めたナポレオンは、デ・マジに向き直る。
「俺は只の一将校として、生涯を終えるわけにはいかんのだから――……!」
自らに課した責務を語るナポレオンのその姿が、デ・マジには全てを焼き尽くす悪竜の影を幻視させた。





