ダンケルク攻囲戦 四
グレゴリオ暦 1793年 9月6日
『――頭は冷やせた。そろそろ貴様を拘束するとしよう!』
「ッ!?」
その言葉が開幕の合図となり、彼は間合いを一息で詰めると力任せにサーベルを振り下ろす。
一見して大振りなそれは、本来なら避けるのも容易なもの。
しかし、一連の会話で主導権を奪われていたレイは、一瞬の間隙を突かれ受け止めることを選択した。
「――がッ!?」
反射的に、口から零れる言葉にならない悲鳴。
受け止めた一撃の衝撃が、重く左脇腹の傷に響いたのだ。
咄嗟に距離を取ろうと後ろに逃げるも、瞬時に距離を詰められる。そこから始まった烈火の如き攻めに、レイは防ぐだけで手いっぱいとなった。
(――こいつ、強い!)
レイは、必死になって足を運びつつ感嘆した。
的確に脇腹の弱点を攻める位置取りも然ることながら、小柄な躯体からは考えられない力強さがある。
繰り出される鋭い斬撃を受け流し、レイは活路を見出そうと相手の一挙一動を観察する。
ほどなく、ふとあることに気づく。
時折、刺突を牽制として繰り出すと、その直後の反撃が雑になる傾向が見られたのだ。
(……もしかすると、頭に血が上りやすいのは本当なのか)
それが、性格的なものなのか、技術的なものなのかははっきりと断言できない。だが、隙であるのは間違いなかった。
負傷しているレイは、一秒たりとも無駄には出来ない。
(ならば、短期決戦しかない!)
勝負を決するべく、牽制としての刺突を放つ。
レイが狙うは、相手の大振りを誘い、それを回避しながらのカウンター。
そして、目論み通り相手の攻撃動作が大きくなる。
(――かかった!)
右斜めから振り下ろされる一撃。
迫りくるサーベルを、上半身を逸らしながら回避し、本命の一撃を繰り出す。
一度目のような腕だけによる牽制としての刺突ではなく、全身を伸ばし顔面に目掛けて放つ二度目の刺突。
(タイミングは完璧――!)
勝利を確信した、刹那。
レイの瞳に、信じられない光景が映った。
「――ッ!?」
相手は振り下ろしていた最中のサーベルを手放すことで攻撃を中断したのだ。
さらにはあろう事か、頬をやや深く裂かれながらも、僅かに首を傾け刺突を回避。
「な――!?」
――馬鹿な、避けられるタイミングではなかったはず、とレイは目を剥く。
実際、攻撃を見てからサーベルを手放すのでは間に合わない。
それでも避けられたのは攻撃を読まれていた――否、大振りの隙そのものがカウンターを誘う罠であったからだ。
となれば、彼の行動がそこで終わるはずもなく、低姿勢でこちらの懐に潜り込む。
「しまっ」
自らの失態を悟るも、もはや手遅れ。
突きを繰り出したレイは、身体が伸び切っており咄嗟の回避行動など不可能だった。
『――っシ!』
「――かはっっ!」
弱点である左脇腹に、高速で撃ち込まれた拳。
レイは、あまりの衝撃と激痛に空気を吐きだして膝をつく。
(まずい……早く立たなければ――)
しかし、激しい運動で血を流し過ぎたのか、足に力を込めるも立ち上がれない。それどころか全身が小刻みに震え初め、額には尋常でない量の汗。酷使と疲労で、身体はもはや限界に達していた。
目が霞み始めたレイの喉元に、拾い直したサーベルが突きつけられる。
『――終わりだ』
相手に事実を告げられ、光の消えた瞳で彼を見上げた。
勝利の笑みでも浮かべていると思ったが、予想と異なる不機嫌な表情。
勝ったはずなのになぜ、と――。
頭を埋め尽くした疑問の答えは、相手の口から提示された。
『とはいえ、お前たちの企みは半ば成功したようだ』
周囲に意識を向ければ、陣地の奥から重なり合う悲鳴と爆発音。
――あちらは上手く、野砲陣地を混乱に貶められたのか。
戦闘中は気づけなかったが、作戦自体は成功していたのだと理解する。
『これで、お前の価値は少なくなったが、そこらの一兵卒よりは情報も抱えているだろう』
「……」
『ここまで私を手古摺らせてくれたのだ。たとえ殺してでも貴様にはそのすべてを吐かせてやる』
彼は黙秘など許さぬとも言いたげに、薄皮一枚分ほど喉を刺す。
喉元にじわりと血を滲ませたレイは、圧倒的強者の風格を纏う青年に敗北感を抱いていた。
――持ちうる限りのすべての力を尽くしたが、彼には遠く及ばなかったな。
結果が証明するように、戦略も、戦術も、技量も、天運も、全てが劣っていた。
――もしかすれば、自分が知らないだけでこの青年は将来の英傑なのかもしれない。
よくよく観察すれば、彼のローランド・ヒルに勝るとも劣らない存在感を放っている。
――これが贔屓目によるものではなく、本当にそうならまだ救われる。
そうであれば、この結末も当然の帰路。
――これなら、少しは満足して逝けるか。
否、あれほど前世で渇望した五体満足な人生をそう簡単に道半ばで諦められるはずなどなかった。
「――……ッ!」
届かなかった?だからどうした?
そもそも、自分の器量を信じて歴史に名を残そうと思ったのではない。
死してなお諦めきれなかったから、ここまで足掻いてきたのだ。
だったら、相手との力量など関係あるか!
仮に相手が本当に英傑だったとしても、こんなところで躓いている者が、誰かの記憶にも心にも、ましてや歴史などに欠片でも残るものか!
不治の病で寝たきりだった前世に比べれば、この程度の危機的状況など絶望というには甘すぎる――。
(今度こそ生きてやるッ!泥水を啜ろうが。悪足掻きが過ぎようが。意味があったと心の底から思えるような生涯を)
灰色の双眸に宿る、爛々と輝く闘志。
レイが相手の隙を窺いつつサーベルを握る手に力を込めた、直後だった。
タァン、という銃声を伴いながら、取り囲んでいた敵の二人が崩れ落ちる。
「――なッ!?」
思わず視線を外した青年少佐。
(好機だ!ここしかない!)
期せずして訪れた千載一遇のチャンスを逃さず、レイがサーベルを振り払う。
「――シ!」
『……ぐッ!?』
恐るべき反射神経で飛び退くも、避けきれず彼は斬撃を身に受けていた。
(深いとは言い切れないが、浅くはない)
斬りつけた際に、返ってきた確かな手応え。
敵を見れば身体を泳がして、跪く寸前だった。
致命傷には届かないが、条件を五分にするには十分な一撃――。
レイは、サーベルを杖にして立ち上がる。
「――アルフォード大尉!」
少し離れた場所からすぐ隣まで駆け寄ってきたハバード軍曹とセリニー中尉。
先ほどの銃声は二人による狙撃だったのか。
彼らは険しい顔で周囲を警戒しつつ、続けて言った。
『……ボロボロのようだが、無事でよかった。こっちも潜入工作は上手くいったぞ』
「野砲陣地は混乱に陥っています。我々も、撤退を開始しましょう」
セリニー中尉が肩を貸すようにしてレイを立たせ、その背後をハバード軍曹ともう一人の部下が固める。
それを見て硬直していた敵の一人が、慌てて青年少佐の傍に寄った。
『――ボナパルト少佐殿!』
瞬間、その呼びかけに目を見開いたレイが、後方の彼らを振り返る。
彼は傷を負いながらも倒れず、その身に纏う超然とした雰囲気を強め、鷹のような鋭い双眸を向けていた。
そのただならぬ気配が、ただの聞き間違えである可能性を否定して、レイは驚きのあまり足を止める。
(馬鹿な、あり得ない!なぜ貴様がここにいる!)
レイの知る史実とは、階級も戦場も全く異なる目前の現実。
(今頃はトゥーロンに向かっているはずだ。何故ならあの英傑は史実で――……)
ふと、それが何もおかしくないことに、ようやくレイは思い至った。
(これまで俺は知識が正しくとも、この世界が史実通りの過去ではないと言い聞かせ、戒めてきたつもりだった)
しかし、そう自らに言い聞かせてきた事実そのものが、歴史など簡単に変わるわけないと盲信していた何よりの証明ではないか。
(少なくとも、直接手出しをしなければ、ナポレオン・ボナパルトという歴史的重要人物の過去改変が行われるはずない、と)
――この時、この瞬間では、彼はまだ何者でのなく、フランスの一将校でしかないというのに。
(愚かな。そんな当たり前のことを今更理解するとは、何という愚かさだッ)
人間が、その身をもって実感するまで、どこまでも盲信的な生き物だと言ったのは誰だったか――。
まさにその先入観に囚われていたレイは、ここで初めて、前世のような傍観者ではなく当事者の一人になったのだと本当の意味で実感した。
『――アルフォード大尉!』
隣から聞き覚えのある声が耳を打ち、レイはやっと我に返る。
『足を止めるな!死にたいのか!』
「あ、ああ、すまない」
そう言って歩みを再開しつつ、レイは最後にもう一度だけ背を見やる。
地獄の劫火に照らされた、紅い瞳。
「――……」
「――……」
レイは目を逸らさず、一秒でも長くその姿を焼き付ける。
――前世から憧れ続けた偶像であり、戦史史上最大の英傑にして、それでも超えるべき存在を。
ほんの数秒、お互いの視線が交錯するも、その姿が煙幕に紛れたことで視界から消えていく。
そのあと、レイとの戦闘や後始末に時間を要したボナパルト少佐は、敵中での孤立を恐れレクスポエドの村を占領することなく撤退し、連合軍の退路が断たれるという最悪の事態は免れた。
しかし、二日後の9月8日――。
オンショットに籠城していた連合軍は、フランス軍の激しい攻勢の前に撤退に追い込まれ、ダンケルクの攻略と多くの物資を放棄し、夜の闇に紛れる形で戦線を大きく後退することになる。
かくして、ダンケルク攻囲戦は終結した。
総勢30000名のイギリス・ハノーヴァー連合軍は、死傷者約13000名という史実以上の甚大な損害を被り、戦争始まって以来の大敗を喫して。





