ダンケルク攻囲戦 三
グレゴリオ暦 1793年 9月6日
小高い丘の斜面が夕暮れとともに紅く染まった頃。
森林の縁にあった木陰から四人の人影が飛び出した。
緩んでいた見張りの顔つきが緊迫を帯び、レイたちに視線が集まる。
瞬時に彼らは、警戒するように小銃を構えた。
『おい、動くな! 所属を確認するから、一度止まれ!』
『――馬鹿言うな!そんな暇はない!敵だ!連合軍が来たんだ!』
見張りに向かって叫んだ途端、ライフル銃の鋭い発砲音が響き渡った。
『――がッ!』
刹那、左の脇腹に燃えるような激痛が走る。
レイは危うく膝が崩れ落ちそうになった。
『――ッ!』
どうにか意思の力で耐え忍び、左脇腹を押えた右手を見れば血で真っ赤に染まっている。
(たしかに、ギリギリを攻めるように命じたが、本当に当てろとまでは言ってないのだがなッ!)
甘い狙いでは企みが暴かれる恐れがあり、当てるつもりで撃てと、レイはよくよく部下たちに言い含めていた。
(いや、ここ最近の無茶ばかりで部下に見限られた可能性もある)
これが誤射なのか意図的なものかはあずかり知れないが、すでに賽は投げられたのだ。
――だったら、やることは変わらない。
意を決したレイは、血眼となって大きく叫んだ。
『た、助けてくれ! 追われてるんだ!』
『――ッ! 大丈夫か!』
見張りたちの一人が、彼のもとへ慌てて駆け寄る。
災い転じて福となったというべきか。
撃たれたことが効を奏したらしく、フランス軍はレイたちを味方だと認識したようだ。
『負傷者だ!陣地後方に下げるぞ!』
『――こいつのことは俺たちに任せろ』
言いながら、隣にいたセリニー中尉がレイに肩を貸して支える。
『それより、お前たちは敵に応戦してくれ!』
言われて、彼らは視線を周囲に這わせる。
丘の外周に沿って並んでいた見張りの兵士たちが、軽歩兵、擲弾兵中隊の総攻撃を皮切りに戦闘を開始していたのだ。
『さあ、急げ!』
『は、はい!』
本物のフランス軍将校ということもあり、彼らは敬礼すると直ぐにその場から立ち去った。
彼らの背中を見送り、レイは安堵しながら仲間に促す。
「我々も行こう」
「ああ」
数分後、忙しなく行き来する者で溢れてきた砲兵陣地。
その喧騒に紛れる形で、レイたち潜入部隊も足を踏み出す。
「――っく」
歩くたびに傷口がひときわ激しく痛んで、レイの口から呻きが漏れる。
想像より酷く抉られた左の脇腹は、時を追うごとに痛みを増してきた。
それでも歩みを止めず丘の中腹まで到着した時、風下から灰色の煙が立ち込めてくる。
「……上手くやったか」
「ええ。敵からすれば、砲撃の精度を低下させる嫌がらせとしか考えていないでしょう」
一見大砲の照準を狂わせる煙幕のようにも思えるが、その実これはレイたちに向けた援護射撃。
煙に紛れることで破壊工作がやり易くなると考えたレイは、森林の一部を燃やし急造の煙幕とするように指示していたのだ。
空気の煙たさで息を切らしながら、セリニー中尉の肩を借りて歩き続ける。
頂上が目前に迫ったところで、レイがふと足を止めた。
「……ここで二手に別れるぞ」
「作戦を考慮すれば、それほど人手は要りませんか」
ハバード軍曹は背負っている背嚢を、ちらりと見やりそう言った。
(ここまでくれば集団行動などリスクでしかない)
この作戦はどちらか一方でも、野砲陣地の真ん中に擲弾を投げ込み混乱させ、日没までの時間を稼げれば充分に成功と呼べるからだ。
「陣中の構造は頭に叩き込んでいるから、私とセリニー中尉は別れよう」
言いながら、肩を支えてくれた中尉から体を離す。
「俺の監視が一人だけになるが構わないのか?」
「ええ、あなたはもう裏切らない。今更フランスに寝返ったところで手遅れなのだ。一度、疑念を持たれてしまえば、貴族将校であるあなたがフランスで生き残る道はない。だからこそ、捕虜になった際にも、私との取引に大人しく応じたのでしょう?」
毅然とした返しに、口元をひくつかせたセリニー中尉。
それをしり目に、レイは組み合わせの指示を済ませる。
そうして、遠ざかるセリニー中尉とハバード軍曹の背中から、レイも視線を外して踵を返す。
残された部下の肩を借りつつ頂きに到着すれば、煙幕と人ごみの向こうに10門を超える数の6ポンド砲が並んでいた。
レイは目的地を確認し、疲労が蓄積した両足に力を込める。
『――おい、お前たち』
直後、いきなり横から声をかけられ、レイは背筋を凍らせる。
振り向けば、端的な顔立ちと、茶髪にブラウンの瞳。
歳のほどは20代前半の青年だが、少佐の階級章からして彼こそが第2大隊の隊長なのか。
青く煌びやかな砲兵将校の軍服を纏うその軍人は、上流階級特有の洗礼させた仕草を窺わせつつ、飢えた獣と見紛うばかりの眼光を、こちらに向けている。
『どうして歩兵が前線ではなくここにいる?』
『はい、少佐殿。負傷した仲間を連れて野戦病院に下がれと命じられたためです』
『命じた上官はだれだ?』
『セリニー中尉です』
四人の兵士を控えさせた青年少佐の詰問とも思える質問。
それでも隣で肩を支えてくれた部下は、焦った様子を見せず間髪入れずに答えた。
不自然さを感じさせないその対応は、称賛に値する見事なものだ。
しかし、疑念が晴れない少佐の双眸が、今度はギロリとレイに向けられる。
『どこを負傷したのだ?』
『……ここです。左の脇腹です』
そう言って、長らく傷口を押えたことで血に染まった軍服を見せた。
眉を顰めた少佐は、じっとレイの傷口を凝視する。
一瞬の沈黙。
ややあって緊迫した空気の中、彼は溜め息まじりに口を開く。
『そうか、引き留めて悪かったな。もう行っていいぞ』
『はい』
表面上は安堵したのを隠しつつ、敬礼して彼らの横を通り過ぎた。
刹那、背後から隠し切れない強い殺気。
ついでゾクッと戦慄が背筋を通り過ぎた瞬間、考えるより先に部下を突き飛ばして転がった。
「――な!?」
前転して振り返れば、あの青年少佐が腰のサーベルを振り抜いている。
『一人はこちらの応援と、砲兵以外で野砲陣地に近づく者がいれば容赦なく拘束しろ、と伝令に走れ!残りはこいつらを逃がさぬよう距離をとって包囲しろ!』
その指示から察せられるのは、こちらの企みが暴かれたという現実。
(馬鹿な、なぜ見破られた!)
何処で失態を犯したのかも分からず動揺を隠せないレイを無視して、彼は続けざまに指示を下した。
『この距離だ、下手に小銃を使うな!』
同士討ちを恐れてか、敵はサーベルを抜いて構える。
『こいつらは生け捕りにして情報を吐かせねばならん。私が行くから、お前たちは手を出すな!』
『な!?少佐殿、ここは我々にお任せを!』
『いや、栄達の邪魔をしてくれたこいつらは、直々に手を下さねば我慢ならん!』
頭は切れるだが、気性は荒く血が上りやすいタイプなのか。
部下たちを差し置いて、佐官自らじりじりと近寄ってくる。
それを静かに見据えながら、レイも背後に控える部下に告げた。
「私が相手をしよう」
「しかし、大尉は怪我を負っているではありませんか!?」
「だからこそ、すぐに動ける貴官が、残り三人の方を警戒していてくれ」
言い残して周囲を一瞥したあと、レイも一歩前に進み出す。
そうして、鋭い眼光を向けたままの青年に対し、改めて向き直った。
暗い茶色から移り変わり、赤血に染まった双眸。
「――ッ」
思わず、レイはわずかにたじろぐ。
対峙した途端に、その小柄な躯体からは想像できないほどの威圧感に襲われたのだ。
二人の間に満ちる重苦しい沈黙。
『……どうやって、我々の企みに気が付いた?』
ふいに放たれたレイの言葉が、静寂を破る。
それは相手の返答を期待したものではなく、呼吸を整える時間稼ぎを目的とした質問。
『――全体的に中途半端だったからだ』
『……何?』
だが、予想に反して相手はレイの疑問に答えた。
『このタイミングでの襲撃は、こちらの砲撃を阻止するためというのは誰の目にも明らかだ。そして、広げていた斥候の網を潜り抜けてきた事実と、対応の早さからして組織的な対応ではなく現場判断の小規模な部隊であることも推測できる』
『――それで?』
『だが、自ら攻撃を仕掛けておきながら、お前たちはどちらかといえば消極的だった。苛烈な銃撃戦は繰り広げるが、森林から飛び出して全軍で突撃するということもない。護衛部隊といくら交戦したところで、丘の上にある野砲を無力化しなければ意味がないのに、だ。こちらの砲撃を妨害する動きといえば、森林を燃やし煙幕を焚いたぐらい』
彼は毅然とした態度で、淡々と説明を続ける。
『即席の煙幕など大した効果を期待できるはずがない。にも拘らず、どうしてお前たちはそんな中途半端な対応で満足しているのか?一刻の猶予もないお前たちが、いつ来るか分からない援軍を待っているとは思えない。ここにきて臆す者ならば、そもそも攻撃してこなかったはず』
「……」
『となれば、残る可能性など潜入工作ぐらいしかない。それならば時間稼ぎとも思える中途半端な一連の行動にも説明はつく』
ひそかに、レイは息を呑んだ。
(確かに、言われてみれば気付いてもおかしくないように思える)
尤も、それは言われてみればであり、後から振り返ってみればの話。
『混乱の中でこちらに紛れ込み、戦闘中に違和感なく後方へと下がる手段など限られる。だからこそ、俺は伝令もしくは物資、負傷者の運搬を行っている者を中心に警戒の網を敷いた』
真に恐ろしいのは敵と交戦中に、この仮説に辿り着き、対応までしてきたという事実。
『……ッ、俺たちが敵だと特定できたのは?』
『貴様の軍服に付着した血の乾き具合からだ』
思わず聞き返したレイの問いに、青年は間髪入れずに返答した。
『血の色合いからして、どちらの血も最近付着したものであるのは明白。少なくとも何日も時間差はない。しかし、血の乾き具合からして、背中の傷は塞がっている様子だ。傷の個所を確認した際にも貴様が言及したのは脇腹のみ』
「――ッ!」
『いや、それどころか多量の血が付着しているにも拘らず、背中の傷に関しては痛がっている素振りすら見せなかった』
見下ろす冷徹な眼差し。
そのこちらの行動を全て見透かしたような瞳に、レイの顔が微かにこわばる。
『つまり、貴様は最初から傷など負ってなかった。それではなぜ、傷も負っていない箇所に、多量の新しい血が付着しているのか?』
『……本人の血ではなく、本来の持ち主が付着させた血であるから、か』
唸るように返して、背中を一瞥する。
――斥候を刺殺した際にできた穴は背嚢で隠せているも、軍服に染みこんだ血の全てを覆い隠すことは出来ていなかった。
(甘すぎたッ!徹底さが足りなかった)
レイは内心で自分の迂闊さを呪う。
時間がないこともあったが、刺突の痕さえ隠せていれば、どうにか誤魔化せるなど、と。
同時に思い知らされた、恐るべき敵の観察眼と洞察力。
誰もが、戦場の混乱で見逃してきた、些細なミスをも見逃さなかったのだ。





