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ダンケルク攻囲戦 一

 

 グレゴリオ暦 1793年 9月1日







 11世紀に毛織物業の勃興とともに海外貿易が発展し、数多の諸都市が栄えたフランドル地方。

 港湾都市ダンケルクも、その一例である。

 ドーバー海峡にのぞむ最狭部という地理的関係上、イギリスとフランスの中心都市を繋ぐ玄関口として大いに繁栄し、その豊かさから各列強が対立と紛争を繰り返した戦場ともなった。


 近年では17世紀半ばにダンケルクを領有したフランスの手により、ルイ14世の領土拡張戦争に際して要塞化が進められたものの、18世紀初めに行われたスペイン継承戦の講和条件の一つに、優勢な戦況を維持したイギリスからダンケルクの無力化が要求される。


 これまでの英仏戦争で堅固な防塞と大型ドックを保有するダンケルクの存在に苦しめられてきたイギリスからすれば要塞の解体は国防上の至上命題だったからだ。


 ユトレヒト条約(1712年)以後の粘り強いイギリスの交渉により、一時は完全な港と防塞の破壊に成功するも、オーストリア継承戦争の勃発に伴い再び要塞化が行われた。


 現在では拡張された市街地の中に巨大な運河が整備され、囲む分厚い城壁と何重にも存在する堡塁が縦深性を高めていく堅牢な構造。


 17世紀に各地の要塞築城を手がけたフランスの技術将校ヴォーバンの築城法をもとに改修されたダンケルクの要塞は、既に旧式でありながら未だに難攻不落の呼び声にふさわしい効果を発揮し続けている。


「包囲を初めて二週間も経ってないが、これほど要塞攻略が難しいとは……」


 コンデとヴァランシエンヌを攻略し、オーストリア軍との約束を果たしたイギリス・ハノーヴァー連合軍は8月22日からダンケルクの包囲に取り掛かっていた。


「何より、堅牢な防塞以上に厄介なのは――」


 眼下で威容を放つダンケルクから、レイは視線を外し振り向いた。


「――この水だ」


 視線の先には、水浸しで使い物にならなくなった無数の塹壕。


 当初ヨーク公は、要塞に対して平行な塹壕を構築し、これを起点としてジグザグに塹壕を掘りつつ接近するという伝統的な攻城戦を命じた。

 しかし、ダンケルク守備隊長ジョセフ・ソハムが数日かけて浸水させた街の水路をあけ放ち、連合の塹壕を水没させてしまったのだ。


 こうして、毎日のように洪水が続いたため、ダンケルク周辺が完全な沼地と化し、強攻策が難しくなったため、ヨーク公は包囲戦へと方針変更を強いられていた。


「……それに包囲したとは言うものの、あれでは効果があるはずもない」


 海上に漂っている無数の巨大な帆船が、レイの目に映る。

 それらはフランス海軍の艦隊であり、それが意味するところは、すなわち。


「海上封鎖が不十分どころか、連合軍の右翼がフランス海軍の砲撃に絶えずさらされている有様ではな……」


 レイがため息交じりに独り言ちると、予想に反して返事が返ってくる。


「――無理もないでしょうね、本国の目と鼻の先にも関わらず、うちの海軍は到着してないのですから」


 見れば、顔を顰めたハバード軍曹が、背後から歩み寄ってきていた。


「本国では海軍の戦力が整ってないらしいな」

「……船はあるみたいですがね」


 イギリスには、フランス革命戦争当初ですら総数100隻を超える膨大な数の軍艦が存在していた。

 けれども、直ぐに必要なだけの食糧と乗組員を揃えられたのは、その半分以下の50隻ほどに過ぎない。


 これはアメリカ独立戦争の終結以来10年続いた緊縮財政で海軍予算が削減されていたからだ。


「それでも、本国がダンケルクを優先してくれれば艦隊を捻出できるはずなのですが……」

「……政府はあまりにも小さな戦力で多くのことをしようとしている」


 彼らは、フランドル遠征や西インド諸島の植民地奪還、地中海の東部への遠征、延いては、パリでの政争に敗北し各地方で反乱を起こした穏健共和ジロンド派に対する支援など、戦略の原則を無視して同時にこれら全てをしようとしていた。


(このままでは、いくつかの戦線で惨敗を喫することになるだろう)


 ――例えば、中途半端な援軍故に隙をつかれ、ナポレオンの活躍を許したトゥーロン攻囲戦のように。


 彼の英傑に思いを馳せていると、ハバード軍曹が不満げにこぼした。


「それができないなら、せめて薬品だけでも一刻も早く送って欲しいもんです」


 フランダース遠征軍にとって最大の敵は、要塞でもなければフランス海軍でもない。


「疫病の流行を止めなければ、我々はまともに戦うことすら出来ないのですから――」






 夏の熱気が身体を火照らせる、9月6日の早朝。

 大規模なフランス軍が接近してきたとの報告を受けたイギリス・ハノーヴァー連合軍30000名は、ダンケルクに6000名の部隊を残し、野戦司令部として設置したオンショット(ダンケルクから南東に約16キロ)の街から周辺の村に部隊を配置させた。


 農業の多角化によって耕地の囲い込みが進んだ近世以降では、数多くの柵囲いや生け垣、溝があるダンケルク周辺で万単位の軍隊が一度に全て展開することなど不可能であり、占領したいくつかの村に小さな前哨基地として分割せざるを得なかったのだ。


 レイが所属する第53歩兵連隊も、前線の中央に位置するある一つの村を拠点としていた。

 村の外周には、大人の背丈ほどの柵と簡易的な防塁が巡らされている。


 その東側を担当する防御構築物の内側には、レイたち軽歩兵中隊が集まっていた。


「――中隊長、何日もつでしょうか?」


 クロネリー中尉は乾いた声で問うた。

 勝てるかではなく何日もたせられるのか、と。

 そのことが何よりも、上層部の失策を物語っていた。


「下手すれば一日ももつまい」

「……やはり、それほど厳しいですか」

「戦線が広がりすぎだ、連携など望むべくもない」


 司令部からダンケルクの部隊を最右翼として半円状に広がった戦線は、最左翼である森林地帯の出入り口に配置された部隊までおよそ30キロに及ぶ。


「ですがフランス軍は、ほとんど素人同然で練度も酷いものでしょう。兵数で負けていても拠点防衛なら、大尉殿の予想より優勢に進められることも――」

「自分でも信じていない言葉を吐くな、クロネリー中尉」


 反射的に希望的観測じみた言葉を漏らした中尉を、レイの冷徹な声が一喝する。


「今の我々に、素人とどれだけの違いがあるというのだッ!」


 言い捨てて隣に視線をやれば、定数を大幅に下回っている擲弾兵中隊。


 レイたちと同じ側面を担当する彼らが、これほどまでに損耗しているのは沼地と化した不衛生すぎる戦場で疫病が流行したからである。


 尤も、疫病で戦闘不能と判断された者は、すでに全体で一万人に迫っている――つまり、イギリス・ハノーヴァー連合軍の三分の一が、戦う前から戦闘不能という惨状だった。


「それに急造した防衛拠点を攻略するのに大した練度など必要ない。必要なのは防衛側を上回る兵力と味方の屍を踏み越えていけるだけの士気だ」

「……まさしく奴らのために、あつらえたような戦場ですね」


 祖国の危機で戦意に燃えているフランス軍は、練度はなくとも士気と数だけは保たれている。


「これなら、軍を展開できるだけの開けた土地まで後退して、決戦でもしかける方がまだマシだ」

「では、なぜ上層部はそのような失策を犯してしまったのでしょうか?」

「疫病の負傷者で身動きが取れなかったのもあるが――」


 そこで言葉を詰まらせると、レイは悲痛な表情で告げた。


「我々は曲がりなりにも勝ってきたのだ。一戦もせずに後退し戦線を縮小させるなど本国が許すはずがない」

「……要塞を攻める臼砲も疫病を止める薬品も送ってこなかったのにですかッ!」

「――ただ、救いがないわけではないようだ」


 怒りを押し殺せなかった部下を尻目に、柵の隙間から敵の陣容を眺めていたレイがそう言った。


「見ろ、奴らの包囲はあまりにもぞんざい過ぎる」


 遠巻きにこちらを包囲しているフランス軍には、不自然な間隙が至る所に存在している。


「あれは、罠ではないので?」

「しっかりと包囲を完成させればそれだけで我々を殲滅できるのだぞ?ここに来てわざわざ罠などしかける必要性はない。あれは本当にただの間隙なのだろう」

「ではどうして、あんな目に見える形の間隙をそのままにしているのでしょうか?」


 問われて、思案顔を浮かべていたレイが、ふと口にした。


「……もしかすると、我々が本国ロンドンに振り回されているように、相手も中央パリに振り回されているのかもしれん」

「それはいったい?」

「……きっちりと包囲して間隙を埋める時間が許されないほど、北方軍司令官は派遣された議員に攻撃を急かされているのだろう」


 デュムーリエの裏切り以降、中央から派遣される派遣議員の権限は強まり、軍に対する介入はますます酷くなっていた。


(司令官も彼らの心情次第で物理的に首が飛ぶことになるんだ。軍事的に間違った指示を出されたとしても拒否はできない、か)


 革命政府のやり方を思い出して、レイは僅かに目を伏せる。


「これまでの敗戦で処刑された歴代の北方軍司令官を見れば、革命政府がすぐにでも軍に結果を求めているのは間違いない。包囲が不完全で隙だらけなのも、一刻も早い戦果を欲したからだとすれば説明もつく」

「なるほど、確かにその可能性はありますね」

「だとすれば撤退命令が出された際は、あの間隙から逃走するぞ。クロネリー中尉もいつでも撤退できる準備をしておけ」


 レイは表情を消した瞳で伝えると、眼下の戦場を見下ろした。


「――例え戦場で戦死するにしても、この戦いで死ぬには、あまりにもバカバカしすぎる」





 フランス北方軍40000名のうち、レイたちが拠点とした前哨基地の攻撃を担当するフランス軍は約4500名。これは連戦と疫病で600名足らずにまで損耗している第53歩兵連隊のおよそ七倍の兵力差。そして、長期の遠征で厭戦気分が蔓延しつつある連合軍に対し、革命と祖国の危機を前に戦意が高揚しているフランス軍。


 形勢はもはや、火を見るよりも明らかである。


 午前中から開始された戦闘に、決着がついたのは日暮れ前であった。


「――た、大尉殿! 西側の防衛線が突破されました!」


 怒涛の如く押し寄せるフランス兵を前に、部下の一人がそう叫んだ。


「……っ戦線の維持は限界だな」

「はい。もうすぐここにも敵兵が雪崩れ込んでくるでしょう!」


 だからはやく撤退の指示を、と目で懇願してくる部下を無視して、レイは声を張り上げた。


「――クーパー大尉!」


 その呼びかけで振り向いたのは、擲弾兵中隊の中隊長であるルーク・クーパーであった。


「どうした!?アルフォード大尉」

「我々がこの場にとどまり支援しますので、我が中隊の負傷者を回収して先に撤退してほしいのです」

「かまわないのか?」


 目を丸くしたクーパー大尉が、思わず確認する。

 彼は自分より一回り年下の大尉自ら、殿を提案されるとは予想だにしなかったのだ。


「ええ、軽歩兵と擲弾兵ではどちらが撤退の支援に適しているのかは明らかでしょう」

「……了解した。負傷者に関しては任してくれ」


 その言葉に背中を押され、彼はすぐさま部下たちに負傷者の回収を命じた。


 大急ぎで負傷者に肩を貸す擲弾兵中隊から視線を外し、レイは正面に向き直る。


 視線の先では、塹壕を乗り越えようとするフランス兵と軽歩兵中隊の部下たちが死闘を繰り広げていた。


『――国民万歳!』

「くたばれ!カエル野郎!」


 塹壕を乗り越え柵を登ろうとするフランス兵に銃弾と銃剣を食らわせながら、軽歩兵中隊は少しずつ追い込まれていた。

 午前中からの一方的な攻撃でも、勢いが落ちないフランス軍。

 そのせいで、塹壕がフランス兵の死体で埋まり始めており、柵に取り付く敵兵が目に見えて増えてきているのだ。


「……一時的にでもこの勢いを殺さなければ、撤退は難しいぞ」


 何か使えるものはないかと、レイは周囲に視線を配らせる。

 ふと目に付いたのは、擲弾兵中隊が置いていった擲弾の箱だった。


「――ッ、手の空いている者は、擲弾を持て!」


 その命令に応じて予備戦力として控えていた兵士たちが各々擲弾を装備し始める。

 瞬く間に、指揮に合わせて投擲体勢を取った後列の軽歩兵たち。


 ――戦闘が始まる前に擲弾兵中隊から投擲の手ほどきを受けていたが、だとしても馴れない武器なことに変わりはない。


 それでも、萎縮せずこれほどの対応を見せたのは、遠征以来の実戦経験が活かされたからか。


 目覚ましい動きを一瞥して、レイは前線に視線を戻す。


「前列、10歩後退!」


 指示通り後退した軽歩兵中隊に、フランス兵は怯んだとでも勘違いしたのか今が好機とばかりに進軍の足を速める。


 眼下に差し迫ったフランス軍を見据え、レイは続く号令を下した。


「いまだ、投擲しろ!」


 投擲準備を終えた部下たちの手から、一斉に擲弾が投げ込まれる。


 放たれてから数秒後――。


 敵中で殆ど同時に擲弾が爆発すると、押し寄せていたフランス兵が一瞬だけ動きを鈍らせた。


「ライフル銃兵、膝撃ちの構え!」


 その好機を逃さずに、後退して装填済みのライフル銃を構えさせる。


「中央にいる先頭の敵兵を中心に狙え! ――ッ、撃て!」


 再び突撃を敢行した敵軍に、これまでの狙撃とは異なる斉射の洗礼。


 フランス軍の中でも勇敢で士気の高い切り込み隊長がやられたことで、目に見えてフランス兵の足が竦む。


 それからも繰り返される、残弾と擲弾の備蓄を無視した投擲と斉射の数々――。


 これには流石のフランス軍もたまらず、混乱に陥り気圧され始めた。



「よし、撤退を開始しろ!村を焼き払うことで追撃を遅らせる手筈になっている!遅れるなよ!」



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