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ファマールの戦い 中

 グレゴリオ暦 1793年 5月28日





 フランスの軽歩兵たちも、イギリス軽歩兵中隊の存在を認識したのか。

 少し手前に風切り音を残して着弾したそれを口火に、前哨戦の幕が上がった。

 背筋に冷や汗が伝うのを感じながら、応戦しようと銃を構えた部下を制す。


「まだ撃つな!」


 間を置かず、表面上は動じることなく指示を下した。


「姿勢を低くするか、近くの物陰に隠れていろ!」


 そのことに憤りを抱いたのか、クロネリー中尉が焦った顔で訴えた。


「中隊長!なぜ応戦しないのですか!」

「昨夜言い含めていただろう!濃霧の中でやみくもに応戦すれば、その発砲音でこちらの居場所が特定される。損害を出さないためにはむしろ応戦しない方がいい、と」


 威圧するような双眸に、思わずクロネリーはたじろいだ。


「濃霧の中で撃ち合いとなれば、有利なのは濃密な弾幕を展開できる射撃間隔が短いマスケット銃のフランス側だ!」

「ですが、このままでは……」

「安心しろ、いつまでも無抵抗なつもりはない」


 そう返して、分厚い霧の向こう側で燦然と輝く朝日を仰ぐ。


「この霧の発生条件からして、日の出とともに霧散するはずだ」


 昨夜は風が弱くよく晴れた夜だった――つまり、この霧は昨日降った雨が夜の間に地面から大気中へと放射されて発生したものだ。

 それらは放射霧と呼ばれ、日の出とともに霧散する霧である。


「反撃に出るのは、ライフル銃の射程を活かせる霧が晴れたときだ」


 とはいえ、霧が晴れても不利な状況には変わりない。

 新たな展開を見据えたレイは、冷静な口調で部下に命じる。


「――ハーネス中尉に伝令を送れ」


 まもなく、駆け付けてきたハーネス中尉にレイは言う。


「ハーネス中尉は、第二小隊をまとめて敵側面に回り込め」

「敵側面ですか? たしかに、敵さんがこれだけ大音量を響かせているおかげで、ある程度の位置は把握できますし、この霧に紛れて多少の移動ならできないこともないでしょうが……」


 困惑に眉を顰めて、少し言いよどんだ。


「その分、正確な位置取りも期待できませんよ?」

「かまわん。何も正確な位置取りをする必要はない」


 表情を変えず、戦場を見据えて淡々と説明する。


「霧が晴れた際に、側面に回り込んでいる事実が重要なのだ」


 視界が晴れ、第二小隊が側面から現れれば、それだけでフランス軍は僅かなりとも動揺し、どちらを撃てばいいのか迷い混乱する。


 そこで片方に集中すれば側面から一方的に打たれる以上、部隊を二手に別けるだろう――。


 そうなれば、弾幕は薄くなりフランス側の脅威は半減するのに対し、イギリス軽歩兵はライフル銃による遠距離狙撃を基本とするため、部隊を別けても問題はなかった。


「敵の有効射程に入ったら、反撃することより距離をとることを優先しろ」

「敵が銃剣突撃に移行した場合は?」


 レイは迷わずに即答した。


「――後方の本隊まで後退しろ」

「よろしいので?」

「我々の役割は威力偵察だ。餌のフリはしても本当の餌ではない」


 敵情の地形や戦力の探索及び偵察が任務にも拘らず、各個撃破されてしまえば元も子もない。


「追撃してくれば無理せず本隊に任せて、あとは支援に徹すればいい」


 軽歩兵中隊としては戦力劣勢だとしても、総戦力で逆転するのだ。


 ――まあ、敵の目的が本隊に対する遅延戦闘であれば、その目論見は阻止できないが、ここはまだ無理をする場面でもない。


「これから、この場に残る兵には小競り合い程度の銃撃戦を行わせる。そうして此方が敵の注意を引き付けている間にハーネス中尉は行動を開始せよ」

「はい。大尉殿」


 じりじりと精神が焼かれたような時間が流れ、戦闘開始から30分は経過しただろうか。

 遮蔽物を利用した打ち合いで、銃撃による負傷者は未だに少数。

 しかし、殆ど防戦一方という戦況が、重圧として兵たちの両肩に重くのしかかっていた。


 それから、さらに30分後。


 いよいよイギリス軽歩兵中隊の顔に焦りが募り始めた、そのとき――。


 高く昇った太陽によって濃霧が晴れ、兵士たちの眼下に視界が広がった。

 フランスの軽歩兵たちはそこで初めて、右側面に200ヤードほど離れた位置に存在する敵部隊の存在に気が付いたようだ。


 それを見たレイが、ライフル銃を高く掲げる。


「今だ、撃てぇぇ!」


 号令のもと、発砲音の合唱が戦場に響き渡った。

 正面と側面の二つの方向から、降り注ぐ弾雨の洗礼。

 アウトレンジから十字砲火を浴び、前衛が何人か血を流して転がり落ちたフランス軍は、さらなる混乱に陥る。


 が、所詮は少数であり、立ち直るのにさほど時間はかからない。

 案の定、射程では劣るものの、こちらが想像以上の寡兵であった事を理解したフランスの軽歩兵は、一挙に距離を詰める行動に打って出る。

 怒声を上げて、斜面を駆け下り始めたフランス軍。


「き、来たぞ!」

「ひぃ」

「うああぁ」


 押し寄せる敵の勢いに呑まれ、部下たちは浮き足立つ。

 そんな部下たちの背中に、レイの声が激しくかぶさった。


「怯むな!警戒態勢でそのまま後退せよ!」


 怒鳴りつけられた兵士たちが、慌てて小銃を構え直す。

 戦列歩兵であれば、突撃でも小銃と銃剣を構えて整然と並び、陣形を維持したまま行進する。

 なぜなら、敵軍が密集陣形を組んでいる上での接近戦ならば、一人が複数の兵を相手にするという数的劣勢が形作られるからだ。


 しかし、敵も味方も軽歩兵しか存在しない最前線の戦場では、陣形を維持した突撃など機動力を殺すだけの愚策でしかない。

 だからこそ、彼らも同じく散開線をしいて、密集陣形より足早に接近してきた。


 イギリス軍の軽歩兵中隊としては、初めて経験する散兵戦。


「短距離の移動を繰り返し、相手を勢いに乗らせるな!」


 どこか尻込みする部下たちを見て、レイは口角泡を飛ばして叫んだ。

 こういった場合、少数が生き残る道の一つに機動力が挙げられる。


「本隊の応戦準備が整うまで時間が稼げればいい! 撃つことよりも移動を優先させろ!」


 その言葉で、無理に相手をする必要がないことと本隊の存在を思い出したのだろう。

 顔をこわばらせていた部下たちの瞳に再び戦意の炎が舞い上がる。


 こうして薄い霧の中、マスケット銃の射程に入る前に移動を繰り返したイギリス軽歩兵中隊は、損害を最小限に抑えながら本隊後方まで後退。

 それに対してフランスの各軽歩兵中隊は、連合軍本隊の全貌を目視すると斉射で大きな被害を及ぼさないギリギリ距離で戦闘を開始し、役目を終えると無理をせずに撤退していった。


 その光景に連合軍本隊から、幾つか喜びの声が上がる。

 気の早い兵は、先ずは前哨戦に勝利したとでも思ったのだろう。


「―――ッ」


 だが、それに水を差すような砲撃音が戦場に鳴り響いた。

 フランスの各軽歩兵中隊が撤退し、誤射する危険が無くなったからだ。

 連合軍の各指揮官が叱咤激励し、慌てて連隊ごとで隊列を縦隊に組みなおす。

 そうして、再び各軽歩兵中隊が散兵戦を前線に敷くと、本隊も勢いそのままに尾根の敵陣に向けて前進が再開された。


 それとほぼ同時に、連合軍本隊の後方からも砲撃が始まる。

 遂に連合軍の砲兵部隊も、フランス軍陣地を射程に捉えたのだ。

 一方的な攻撃ではなくなったとはいえ、砲撃戦の形勢は劣勢である。高低差もそうだが、射撃間隔が圧倒的に違うからだ。


 上空に砲撃が飛び交う中、それでも何千もの連合軍兵士たちは、太鼓のリズムに従い一定の間隔で山腹を踏み鳴らす。

 彼らの視線の先には、山の地形を利用して作られたフランス陣地。


 もうすぐ半マイルの距離まで近づいたとき、頭上の砲弾が甲高い音に変わった。


「なんでしょうか?」


 第一大隊第八中隊が最前線を行く中、レイの隣でクロネリー中尉が口にした。


「……――ッ、まさか!?」


 刹那、彼らの背後で爆発音が轟いた。


 この時代、野戦砲の砲弾とは鉄砲玉ソリッド・ショットを指すのが主であり、着弾しても爆発せず地面に弾をバウンドさせて敵兵をなぎ倒すのが一般的である。


 なのに爆発音がするならば、考えられる可能性は――。


「な、なんですか!爆発しましたよ!?」

「……炸裂弾だ。砲弾を爆発させることで破片が飛び散り、それで人間を殺傷するんだ」


 これも、グリボバール・システムで改良された物の一つであった。


「昨日は雨が降って地面が緩い。通常の砲弾をバウンドさせるより、炸裂弾の方が効果的と考えたわけだ」


 若き中尉の顔色がみるみるうちに悪くなる。

 それを無視して後方を窺えば、炸裂弾で崩れかけた隊列を各指揮官が叱咤して、どうにかまとめていた。

 そうして味方の屍を踏み越えながら、連合軍本隊がフランス陣地の500ヤード手前まで接近した。


 ちょうどそのとき――。


 ふと砲撃音がやんだ。


 フランス軍はこれまで根尾に設置した大砲で味方陣地を飛び越えて砲撃していたが、ここまで接近されると、砲角を下げても敵より先に味方陣地に当たってしまうからだ。


「やっとここまで来ましたね。本隊の被害も予想より小さそうです」

「もし濃霧の中で接近できなければ、ぞっとするような被害を出していただろう」


 戦端が開かれた当初より、心なしか小さくなった軍楽隊の演奏。しかし、高低差や野砲の性能差を考慮すれば、少ないといえる被害。

 その大きな要因に、昨日の雨や濃霧という気象条件があったのは疑いようのない事実だ。


 砲撃がやみ、戦場に僅かな静寂が戻る。


 本隊を山頂付近まで連れてきたことで、役目を果たした軽歩兵中隊が各自の連隊に戻った。


 その矢先――。


 レイの耳のもとに、風に紛れた馬の嘶きが聞こえた気がした。

 まさか、との思いでアンザン山の稜線を見やる。


「な――ッ!」


 視線の先には、尾根に沿って重騎兵が並んでいた。

 その数は400ほどだろうか。

 尾根の裏から、忽然と姿を見せた重騎兵部隊に連合軍の中で動揺が広がる。


「「「うおぉぉぉぉ」」」


 怒声と馬蹄が折り重なり、重騎兵部隊が斜面を駆け下りてきた。

 途中で二手に別れ、こちらにはおよそ200の騎馬の群れが向かってくる。


「――重騎兵だぞ、襲撃に備えろ!方陣を組め!」


 連隊長の声で、連隊の兵たちは目が覚めたように動き出す。

 が、虚を突かれたことと縦隊で戦線が伸び切っていたことで、方陣を組むのに大きく手間取っていた。


 これでは間に合わない――。


 それを悟った連隊長は堪え切れず、不完全な方陣のまま号令をかけた。


「う、撃て!」


 一斉射撃というには、あまりにお粗末な射撃。

 ほとんど損害を受けなかったフランス重騎兵は、ためらわず全力疾走を選択し手綱を引いた。


「銃剣だ!銃剣を掲げろ!」


 その号令に遅れること数秒――。


 歪んだ三角形を形つくった連隊にフランス重騎兵が激突する。

 腰が引けていた前衛の兵士は蹴散らされ、その綻びから騎馬が方陣の中に飛び込んできた。

 サーベルが振り下ろされ、辺りに鮮血が舞う。

 土煙を上げながら縦横無尽に疾走する騎馬の群れ。

 彼らは文字通り道を切り開くと、崩れかけた方陣の間から抜け出した。


 そうして、安全圏まで離れると反転し、第53歩兵連隊にとっての地獄が再び始まろうとしていた。



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