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ファマールの戦い 上

 グレゴリオ歴 1793年 5月27日





 先程まで降っていた雨が止み、日差しが弱まってきた夕刻。

 連合軍本隊の集合場所であるアルトレの地にたどり着いた英国陸軍第53歩兵連隊は、ロンネル川にそそぐ小川の岸で停止した。


 レイは、不満を漏らし野営の準備に取り掛かる兵士たちから離れ、ひとり小高い丘へと向かう。

 東南に目をやれば、十数キロにわたり連なる山地。

 望遠鏡を手に目を凝らすと、尾根の上では無数の煙が立ち昇っている。


(あれが、フランス軍左翼の野営地か)


 ヴァランシエンヌから3マイル南に位置するファマールのアンザン山。


 山とは呼んでも標高は100メートルほどで、どちらかといえば丘に近いか――。


 その北から東にかけて尾根に沿うように流れているロンネル川に背を任せる形で、フランス北方軍は布陣していた。


 じっと見つめていると、背後で泥を踏む足音。


「――大尉殿、ここにいましたか」


 後をつけてきたのか、クロネリー中尉がレイの背後から現れる。

 そして、つられるようにアンザン山の尾根へと視線を向けた。


「……いよいよ明日ですね」

「ああ」


 連合軍53000は5月28日未明、ファマールに陣を敷いたフランス北方軍27000に奇襲を仕掛ける計画を立てていた。


「大尉殿は、今回の作戦をどう思いますか?」


 今計画を立案した参謀将校であるマック大佐の作戦内容は、連合軍をコーブルク公率いる本隊とヨーク公を長とした分隊に別れ、夜明け前に本隊である2個縦隊がロンネル川を背にしたフランス軍左翼を襲撃し、同時刻に分隊を率いるヨーク公がスヘルデ川(ロンネル川からさらに2マイル南にある川)の対岸に陣を敷いたフランス軍右翼の軍営を攻撃する、というものであった。


「……まあ、妥当なところだろう」


 ヨーク公とコーブルク公は基本的に対等な立場であり、数多くの国家が合同している連合軍に密接な連携が必要とされる作戦など望むべくもない。


 そうである以上、どちらかがもう片方に属するような指揮系統でないのは当然の政治的配慮といえるか――。


 レイは静かな口調で、言葉を紡ぐ。


「大きな不安要素であるヨーク公閣下の経験不足は、オーストリアの参謀たちで補うようだ」


 ヨーク公には、作戦を立案したマック大佐と参謀長であるホーエンローエ大佐が抑え役として派遣されていた。


「こうしてみると、何ら問題がないように見えるから不思議だな」


 その呟きに、クロネリーは眉をしかめる。


「……その言い方ですと、先行きへの不安があるので?」

「最終的な勝敗で語れば、勝てるだろう」


 レイは険相を作り、さらに続けた。


「ただし、予想外の苦戦には直面するかもしれないがな」

「……?苦戦とは?」


 クロネリー中尉は困惑しつつ、そう尋ねる。


「――風も吹いていないようだし、もうすぐ6月という季節と河川の多い山間地に、早朝という時間帯まで重なれば新たな問題が生じてもおかしくはないだろう?」


 気づかないか、とレイが目線で問いかける。

 瞬間、クロネリーはそれを察して、目を見開いた。


「そうか――霧ですね」


 寒暖差の激しい5月末であり、ロンネル川にスヘルデ川という豊富な水源、アンザン山という高所。

 ――霧の発生する条件は一通り揃っている。


「ただでさえ難しい夜間の行軍に、霧という条件まで加わって予定通りに作戦が遂行できるはずもない」

「たとえ経験豊富な補佐役が存在していても、ですか」


 そう言って少しだけ不安な顔で、クロネリー中尉はレイを見つめる。


「まあ、先ほども言ったように最終的には勝てるだろう。戦略的優勢であるのは間違いなく連合側なのだからな」


 このところ連戦連敗であり本国の孤立無援と政情不安から補給も不足しがちなフランス北方軍。


(その統制と士気の低下は察するに余りある)


 連合軍の不安要素である連携も満足なレベルとはお世辞にも言えないが、現時点でフランス軍の将校と兵卒――貴族と平民ほど深刻な対立までには発展していない。

 それこそ、戦場の霧でヨーク公やコーブルク公が戦死でもしない限り、敗戦するという事態は考えにくかった。


 レイの言葉に、消沈していたクロネリー中尉が顔を上げる。


「……そう、ですよね。奴らはもう死に損こないで、これまでも我々は勝ってきたのだから、明日、勝てない理由はない」


 後半は、自分に言い聞かせるように紡がれた、その一言。

 レイは無言で、クロネリーから目線を逸らす。


 ――勝てると、戦略的優位にあると述べたのは事実だ。


 アンザン山から立ち昇る、おびただしい数の白煙。


「――とはいえ、それは中隊の勝利まで約束してくれる意味ではないがな」


 その呟きは、隣にいたクロネリーの耳に入ることはなかった。





 日付が変わり未明。空には陽の光が見えず、代わりに星が明るく輝いている。

 夜明けまで、まだ三時間はあるだろうか。

 耳に届くのは、ガタガタと夕立で湿った土を踏みしめる車輪の音。

 振り返れば、オーストリアの野戦砲を引いている複数の御者と隣で欠伸をかみ殺した砲兵が並んで進軍していた。

 月光に照らされ、ぼんやりしているその影を眺めていると、


「中隊長、何か気になることでも?」


 馬上のレイより、低い位置から声をかけられる。


「いや、相変わらず砲兵たちは野戦砲を御者に預けっぱなしなのかと思ってな」

「ん?改めてどうしたので?」


 徒歩のハーネス中尉が、意図を図りかねた顔で見上げてくる。


「これから、我々中隊が属する第二縦隊は、アンザン山に引きこもっているフランス北方軍に襲撃を仕掛けるわけだが――」


 レイが所属する第53歩兵連隊は、第14歩兵連隊とともにラルフ・アンバークロンビー将軍を旅団長とした旅団を構成しており、今作戦では連合軍本隊の第2縦隊を率いるオーストリア軍砲兵大将フェラーリの元に配属されていた。


「奴らフランスは野戦砲を砲兵の将兵に引かせていたはずだ」


 18世紀の軍隊では、慣例として大砲の運搬を民間の請負業者に任せていた。

 しかし、グリボーヴァル・システムを取り入れたフランスでは改革の一環として、大砲を撃つ当の将兵の任務とされている。


「ですが、それも仕方ないのでは?」


 ハーネス中尉が困惑した顔で応じる。


「我々の野戦砲は重すぎ砲兵当人に運ばせても、戦場につく頃には疲れ果てて役立ちはしないでしょう」


 従来の野戦砲では、少し早いだけの行軍にすら着いていけないありさまで、牽引する者の負担も馬鹿にならない。


「フランスにそれが可能だったのは、例の軽量化された野砲あってのことのはず」

「確かに、その通りだ」


 一度、うなずくことで肯定を示す。


「だが何も、自らが扱う武器である野砲の整備まで、他人任せにする必要もないだろう」


 グリボーヴァルの改革は、技術革新によって設計された大砲だけを指すのではない。

 運搬や整備、さらには砲の前車を外し、発射位置につけ、照準し、砲撃するという一見当たり前のような砲兵教練のルーティン動作を導入した組織改革まで含めて、フランス軍の砲兵部隊を脅威至らしめているのだ。


 それは、中世の遺制を色濃く残し、請負業者の手に野砲の一切を任せている連合軍のような組織では会得できないものであった。


(大砲の性能に純然たる埋めがたい差がある以上、せめて組織面では一刻も早く追従しなければならない)


 そうでなければ――。


 レイは近い未来に思いを馳せて、ゆっくりと嘆息した。


 破滅的な末路をたどるのは、前世と違い歴史上の人物ではないのだから――。






 朝日が昇り、灰青色の光がアンザン山の斜面に射し始めたころ。

 ヴァランシエンヌ一帯は、白く濁った霧に覆われていた。

 なかば霧に隠れたフランス野営地に目を細めていると、ラッパの音が聞こえてくる。


 ――そう簡単に奇襲とはいかないか。


 レイが心の声を仕舞い込んでいたところで、隣に立っていた軍曹がおもむろに口を開く。


「この霧では、ライフル銃の射程を活かしきれませんか」

「……予想していたことではあるがな」


 頷きを返しながらハバードが、周囲を見回す。

 軽歩兵中隊にとって悪条件にも関わらず、大きな動揺は見られない。


「中隊長が言い含めていた効果があったようで」


 昨夜、この状況を想定していたレイは、中隊に視界不良下での戦闘における対応を言い聞かせていた。


「それに霧という条件なのは相手も同じだ」

「ええ。むしろ戦場全体で陣地にこもっているフランス野郎より、攻め手の我ら連合側に有利に働くでしょうよ」


 フランス軍は連合軍を探りながら戦うのに対し、連合軍はフランス軍の大まかな居場所は掴んでいる。


「とはいえ、そのことは奴らも理解しているだろう」


 陣地にこもったままではじり貧であることは明白。


「どこかで必ず打って出るはずだ」


 レイが呟くと同時に、甲高い信号ラッパが鳴り響いた。


 ――開戦の合図だ。


 即座に手を振るい、レイは第1大隊第8中隊を前進させる。

 そして見る見るうちにほかの軽歩兵中隊と散兵線(散兵で形成する戦闘線)を展開し、山の屋根に向かって斜面を一定速度で駆け上がった。


 数分ほどで中腹にたどり着いた――刹那。


 アンザン山の頂上付近から、空気を震わせる咆哮。

 放たれた砲弾は中隊のはるか頭上を越え、後方の本隊からも離れた場所に着弾する。

 ――それが、ほかの砲兵陣地への合図であったのだと気づいたのは、直後に何十門もの大砲が轟渡るのを聞いた時のことだった。


「――……ッ」

「……耳が壊れそうですな」


 古参であってもこれほどの衝撃音は初めてなのか、ハバード軍曹が眉をしかめる。


「ヴァランシエンヌでは、鉄の雹が降るようで」

「――これなら祖国の天気の方がマシだ」


 笑えないユーモアに、レイは苛立ったように吐き捨てる。


 こちらの応戦はまだか、まだなのか――。


 戦端が開かれてから、絶え間なく放たれるフランス軍の砲撃。

 それとは対照的に、静寂を保っている連合軍の砲門。


 一方的な攻撃に、思わず不安が口を突いた。


「……このままでは今度は血の雨を浴びることになるぞ」


 だが、内心では応戦するのにもう少し時間が必要だと自覚していた。

 たしかに両軍の(6ポンド)砲に命中精度や機動性という性能差はあれど、有効射程1100ヤード前後という点についてはほぼ互角である。

 もっとも、高所に陣取っているフランス軍に対して、連合軍はアンザン山の麓。

 当然、高台から打ち下ろす場合は射程が伸び、逆に低地から高台の上への砲撃は射程が短くなる。

 尾根の上に届かせるには、まだまだ前進する必要があった。


(それでも、霧が出ているだけまだマシか) 


 耳をすませば衝撃音にまじり、連隊付である軍楽隊の演奏が聞き取れる。

 18世紀の軍楽隊といえば情報伝達や士気高揚などが主な任務だが、今回のような視界が遮られた戦場では、部隊の損耗をはかる物差しとしての側面もあった。

 開戦以降ほとんど変わらない演奏の音量から、深い霧のおかげで深刻な被害ではないのだろう。


 だが、レイの安心はすぐに冷水を浴びせられた。


「……――ぉぉ」


 向かいから、微かに吶喊の声。


 ――気のせい?いや違う!


 食い入るように見つめると、おぼろげな人影が浮かび上がる。


 数百、いや、千には届いているだろうか――。


 この時代、ほとんどの大軍同士の戦線において、最初に中間地帯でぶつかり合うのは両軍の軽歩兵だ。

 その軽歩兵中隊がわざわざ防御陣地から出てくるとするなら、漸減や威力偵察、もしくは本隊の隊形を崩しておくという遅延戦闘が目的か。


 ――見る限り敵戦力は、10個中隊約1000名というところ。


 対して第2縦隊の軽歩兵は、オーストリアとイギリスの両軍含め5個中隊、約500名。

 本隊はフランス軍の二倍を数えるにかかわらず、軽歩兵の戦力は半分ほどでしかない。



 かくして、レイの初陣といえる会戦は、局地的劣勢の散兵戦という形で始まるのだった。


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