第63話
「……飛野、落ち着いたか?」
「……は、はい。ありがとうございます」
何度か深呼吸をした後、咲はくっと顔をあげた。
「……それじゃあ、そろそろ帰りますね」
「……俺も、マンションまで見送るよ。万が一、ってこともあるからな」
「……ありがとうございます。やっぱり、お優しいですね」
「そんなことはないって……ほら、行こうか」
「……はい」
治は咲とともにマンションへと歩いていった。
その時、右手に柔らかな感触が包んだ。
「え?」
「あっ、そその……少し、不安で……手を繋いでも……よろしいでしょうか?」
「あ、ああ……」
咲は嬉しそうに微笑んでいる。そんな彼女の横顔を見ながら、治は気づかれない程度の嘆息をついた。
(……今は興味ない、かぁ。俺と一緒にいてくれるのも、小説の続きが読みたいとかそういうことなんだろうな。……あんまり露骨に、俺の気持ちを前面に出さないほうがいいのかもなぁ。……下手に俺が『男』とみられると拒絶されちゃうかもだよな)
横顔を眺めていた治は繋がれている手を見る。
(勘違い……しちゃだめだよな。今はまだ……でも、いつかは興味を持ってもらえるようにもしないとだ)
それが難しいことであるのを理解しながらも、治は強く決意を固めた。
「飛野は……やっぱりモテるのか?」
「……そうだと思いますね。結構告白されることは多いですね」
「……そうなんだな」
彼女の言葉に心中穏やかではいられなかったが、治はそれを誤魔化すように笑った。
「まあ、生徒会長で頭良くて、それで容姿も整っているってなれば、人気も出るよな」
「……そ、それほどではありませんよ。……それよりも……島崎さんは大丈夫でしたか?」
「何がだ?」
「学校、ですよ。髪を切ったあとですから……そ、その周りに注目されたのではありませんか?」
「それなりに注目されたな……結構クラスメートや他クラスの人から声をかけられたよ」
「そ、そうなんですね……それって女子、ですか?」
「ああ」
「そうなんですね……っ」
むすっとした顔をした咲に、治は首を傾げる。
咲がみるからに不機嫌そうになった理由について考えた治だったが、結論は出なかった。
諦めた治は、別の話題を振った。
「さっきさ、彼氏っていうのはさすがに言い過ぎたよな、悪かったよ」
「……いえ、そんなことありません! むしろ、嬉しかったですよ!」
咲は一度大きく声をあげ、それからぶんぶんと首を横に振った。
「へ、変な意味はありませんからね!? 助けてくれようとしてああいってくださったのは理解しているということですから!」
「……ああ」
羞恥で熱された脳はあまり機能せず、咲の言葉の答えにまではたどり着けなかった。
そのまま、治はぽつりと漏らすように咲の名前を呼んだ。
「それについてなんだが、さっきは咲っていきなり呼びつけて悪かったな」
「そ、それも……付き合っているという嘘を信じ込ませるのに、良い手段だと思いました」
「……そういってもらえるのなら助かったよ。それで、もしよかったら――」
その後に治は続ける言葉を、飲みこんだ。
「もしよかったら……なんですか?」
咲は無邪気に首を傾げていた。
治はどくどくと早鐘を打つ心臓を抑えるように、右手を胸元に当てた。
それでも何も変わることはない。鼓動が手から腕へと伝わり、さらに自覚させられるだけだった。
伝えるか迷った言葉――治は、勇気を振り絞り口を開いた。
「その……名前で……呼んだらダメか?」




