六十一、月の向こう側
窓から満月が見える。
あれから幾日か過ぎた。母は相変わらず病院のベッドで眠っている。
そして、僕もまだ入院をしていた。
長い眠りによって体力が低下し、歩くことも困難になってしまったため、リハビリをしているのだ。もちろん毎日夜は眠っているが、現実世界に戻ってから一度も夢を見ていない。しるこから解放されたのだろう。
病院は夕食の時間が早く、夜遅くになると腹が減る。
僕の友人を名乗る人物は要領が悪いのか見舞いの度に羊羹を持ってきていたようだ。おかげで山のように羊羹がある。
僕はそのうちの一つを手に取り、包装を剥いて食べようとした。
その時、羊羹から音が聞こえてきた。
(……ジ……ジジ…………こちら『黒猫』……しるこの神親衛隊による、こるし屋殲滅作戦が決行されるという情報を得た。みんな、おたまを持て! 全面対決だ…………ジジ……)
しるこ町からの通信だ。まだ夢は終わっていない。戦っている人達がいる。
僕は、隣で眠る母の顔を見た。
母は今も夢の中でしるこの神と一緒に殺戮を繰り返しているに違いない。きっとこのまま待っていても母が現実の世界に帰ってくることはないだろう。迎えに行こう。でも、どうやって。
少し考え、僕は洋服に着替えて病院を抜け出した。
毒の混入経緯が不明とされているということは、あのビンは見つかっていないということだ。
僕は自動販売機でしるこの缶詰めを購入し、ふらつきながら自宅へと向かった。
町の様子はしるこ町と全く違った。しかし、家の中は夢と同じだった。台所に向かい、戸棚を探る。思った通り隠し扉の内側にドクロマークのビンはあった。
僕はその中身をしるこに入れ、覚悟を決めて一気に飲み干した。
ザブンッ。飛び込む音が聞こえる。
全ては暗闇に包まれている。
しるこの海。夢の狭間。
ここに来るのは既に三回目だ。まどろんだ感じにも慣れた気がする。しかし、どうやったらしるこ町に行けるのか分からない。深く沈めば良いのだろうか。目を閉じて念じれば良いのだろうか。
長い時間が経過する。
気が付くと、いつの間にか頭上に満月があった。揺らめく光が仄かに差し込んでいる。
あっちに海面があるのだと考え、僕は、月へ向けて泳いだ。すると、月が近付いてきた。月が近付くなんてことが有り得るのだろうか。そう疑問に思いながらも泳ぎ続ける。更に月が近付く。
良く見ると、月の中に何かが見えた。木目のようだ。たまに動く影もある。
いよいよ月は目の前に迫ってきて、僕は思い切って片手を伸ばした。
腕が、月を突き抜ける。そして、月の縁を掴むことが出来た。僕はもう片方の手も月の縁に掛け、力を込めて一気に自分の体を引っ張り上げた。
上半身が月を越える。
さっき見えた月の中の木目は民家の天井だった。ゆっくりと視線を落とし、状況を確認する。
僕の上半身はしるこまみれだ。腰より下は大きな鍋に浸かっている。
目の前で老婆がおたまを握ったまま尻餅をついていた。驚くのも無理はない。鍋から人が出てきたのだ。
彼女はしばらく口をパクパクさせ、それから僕に質問をした。
「あ、あ、あなたは何者ですか?」
僕はどう説明したら良いのか分からず、とりあえず名前を名乗ることにした。
「僕は…………小太郎……志瑠小太郎です」




