風のなかに冷たい水のにおいがして――
風のなかに冷たい水のにおいがして、装甲列車が山岳地帯を走っていることに気がついた。
人気のない夜闇のなかには川と針葉樹林があり、滝壺を掘る冷水の音が谷じゅうに響いていた。
線路は山と山のあいだを縫うように敷かれていた。ときどき大胆な建築思想のもとでつくられた橋で落差二百メートルの渓谷を渡ることもあった。まともな建築家が見れば分かるのだが、その橋はアルテマ風モダンの外見のために相当の安全性を犠牲にした、遠くから見ただけでも震えが止まらなくなる橋だった。
――が、今回は無事に渡り切った。帰りはどうなるか分からないが。
装甲列車は機関銃と大砲を装備していて、厚さ四センチの装甲板で守られていた。
ざっと見る限り、この渓谷には敵と言われるものはせいぜいずるいキツネくらいしかいなかった。
「ふわあ」と、ソウヘイは長椅子に寝転がってあくびした。「先生たちを置いてきたけど、大丈夫かな」
「いないほうがはかどる。あんたの先生は引き金が軽すぎる」
「お前、そういうけどな、敵に銃三十丁突きつけられて囲まれたときには、あの引き金の軽さが心強くなる」
ソウヘイも列車に忍び込むことができた。
ガードが固く、酢漬けキャベツの樽に隠れることも真剣に考えたが、アルテマ兵たちはあの謎の暴走自動車相手にドンパチすることに気を取られ、うまく列車砲塔の非常出口から入り込むことができた。
遠慮がちな月夜が東からめくり上げられ、砂糖を散らしたような星たちが夜空を上る。
谷、森、川、滝の音を発掘係のドリルの音やボタ石を運ぶトラックの唸り声が押しのけ始めた。
エミーリオが西側の窓を開けた。ソウヘイも別の銃眼用窓を開けた。
谷の向こう、巨大な岩山から鳥人間の像を削り出していた。高さは百メートル。戦艦などを照らすのに使う強いライトの柱のなかで、鳥人間はくちばしを空へ上げていて、大きなひし形の羽根を生やした翼を伸ばし、模様のあるローブのようなものをまとっている。
「あれがアルテマどもにとって大事なものなのは、なんとなく分かった。ぶっ壊したら、すっきりするだろうな」
「リミテッドは任務遂行の際、考古学的価値に対しても一定の配慮をすることになっている」
「あのな、この二日、おれたちはその考古学的ナントカどもに何度も殺されかけてるんだぞ。しかも、考古学的ナントカはおれたちの目の前で少女を誘拐し、その婚約者が撃たれた。たぶん、助かっても一生車椅子だ。何事にも帳尻合わせってやつがあってだな、そのために必要なのはダイナマイトの一束だ」
「だが、あれだけの大きさの石像は世界的に見ても希少だ」
「なら、ますますぶっ壊すべきだな。精神攻撃ってやつだ。いいか、おれがはるばるこんなところまで来たのはさらわれた女の子を取り戻し、犯人どもに鉄拳制裁をお見舞いするためであって、やつらの文化財を誉めてやるためじゃないんだ。ところでよ、アルテマが鳥人間の文明だってんなら、ひとつ疑問がある」
「なんだ?」
「なんで、やつらはフライドチキンを禁止しなかったんだろう?」
「真面目なこたえを期待した僕が馬鹿だったよ」
「くそったれリミテッド。おれに考古学的ナントカを期待したのか?」
ガタン! 列車がふるえて停止した。
「あ」
――と、どちらともなく言ってから、ふたり、壁に耳をつけて、外から何かきこえないか、集中した。
その結果、列車司令官が部下たちに各車両を調べろと叫んでいるのがきこえた。
ゼイゼイと疲れた豚みたいな声から判断すると、大量のぜい肉が発声器官を圧迫しているようだ。
そして、そこにそれほどの肉がつく過程で、相当のステーキを食い、フライドチキンを食い、心臓やら血管やら腹やら肺やらを脂肪まみれにしたことだろう。
もって三か月の命とみた。
「まあ、おれたちよりはマシだ。余命三分」
それを伸ばせるか否かは工夫次第だ。ふたりはがらんとした車両を探したが、複数砲塔重戦車もなければ、五十ミリ対空機関砲もないし、待機中の榴弾砲部隊に支援砲撃を要請できる通信機もない。ぶつかれば反応が起きて小さな県くらいなら楽勝でクレーターにできる謎の物質Aと謎の物質Bもない。
スパイシーになり過ぎて、どす黒くなった干し肉の箱が数箱見つかっただけだった。
「ぶつけて倒すくらいしか選択肢がない」
ソウヘイは干し肉を少しかじった。
「ぺっ! 辛ッ! でも、これが口に入れば、司令官を血圧で殺せる。だが、まあ、ひとつ手はある」
「どんな?」
「マヌケなやつ。失敗すれば、末代までの恥。成功したら、ご愛敬」
「わかった。ソウヘイ。僕にはこの難局を乗り切る手が浮かばない。あんたに一任する」
「じゃあ、おれの言う通りにしろ。いいか? ――」
列車司令官はビリヤードボールのように丸かった。
歩く健康リスクの塊であり、アルテマ保険の健康診断結果は命が惜しいなら食生活を改善しろと通告しているのに、いまも豚の背脂をフライにした菓子をムシャムシャ食べながら、列車の検査を指揮している。
カーキ色の軍服にカービン銃を持った兵士たちは、列車から降りて、外からドアを景気よく開けて、強力なライトで貨物車両を隅々まで照らした。兵士たちには少しでも違和感を覚えたら手榴弾を放り込んでもいいという許可が与えられていた。つい今さっき、補給品係の曹長が手榴弾を配っていた。
手榴弾はゴツゴツした鋼鉄の卵みたいな代物で、爆発ではなく爆発によって飛び散る金属片で敵を倒すことを念頭にデザインされていた。
兵士たちのなかには破砕手榴弾を人に投げてみたくて志願兵になったものもいた。まどろっこしくなって懐中電灯を捨てた。彼らは車両のドアを開けると、手榴弾を放り込み、爆発したら、腰だめに構えた機関銃を乱射しながら突撃するという、ギャング映画みたいな手を通常手段の検査だといけしゃあしゃあ言うようになった。
補給品係の曹長は司令官に文句を言った。
「あいつら、この検査を遊びか何かと勘違いしているんです」
「それが、どうした。装甲列車ってのは外からの攻撃に強いのと同様、内からの攻撃に強い」
「なかから爆発すれば、リベットが外に抜けて飛んでいきますよ」
「だから? いまの列車が壊れたら、また新しい列車をもらうまでだ。いいか、曹長。おれたちはアルテマ軍のなかでも最も重要なものを守るためにここにいる。なら、政府はおれたちのために何でもくれないとおかしい。だろう? そもそもだ。おれのポークチョップはどこだ? おい、コック!」
カーキ色のコック帽をかぶった男があらわれた。
顔はどこか、あの老司令官ジョージを思わせるつくりをしていた。神経質にぴくつく眉やら、薄すぎて前歯が隠れない口元。実際、ふたりは遠い親戚だったし、ふたりとも妻を寝取られていた。
ただ、このコックは自分の妻が自分の店のマネージャーとベッドで浮気している現場に、ショットガン持参で踏み込んで、ふたりをベッドごと吹き飛ばして終身刑を食らっていたのだが、列車司令官のために毎日、がっつりしていたり、こってりしていたりするものを作ることを条件に釈放してもらっていた。
健康のアリバイに申し訳程度のインゲンを添えた巨大ポークチョップがこの世から消滅するのに五秒もかからなかった。
血管が軋んでいた。心臓が悲鳴を上げていた。肋骨はこれ以上脂肪をよこすなら折れるぞと脅してきた。そして、どの音も司令官の耳には届かなかった。
脂でてらてらした口のまわりと舌でなめながら、兵士たちの検査を見ていると、兵士たちがある車両のドアを開き、手榴弾のかわりに「ゾンビだ!」という叫び声をあげ、慌ただしく逃げ出した。
曹長が逃げてきた兵士のひとりの襟首をつかんで引きずり戻すと、兵士は動く死体が人間を食っているといい、口から泡をふいて倒れた。
曹長がカービン銃に初弾を装填すると、問題の車両へ踏み込もうとしたが、その前にふたりの影が肉に噛みついたまま、外へと逃れた。
曹長は二発ぶっ放したが、小さなコケモモの枝が裂けただけで、ゾンビ?は斜面を滑り降りて逃げていった。
そのあいだ、司令官は食べ物に卑しい人間らしく鼻をひくつかせ、兵士たちが人肉と間違えたズタズタの肉片からかなりきつい胡椒のにおいをかぎ取った。
「馬鹿どもが。これは干し肉だ。はやく警報を鳴らせ! 侵入者だ!」
やかましく鳴り響く電気式ベルを後に残して、ソウヘイとエミーリオは山の斜面を走って下っていた。
部下たちが手榴弾を転がし山肌を吹き飛ばすなか、司令官は箱から落ちていた紙包装の干し肉をひとつひろった。薄く伸びた肉は胡椒液に漬け込まれ過ぎて、どす黒くなっていたが、司令官にとっては、それこそ望むところで、大きな口を上げて、かぶりついた。
その途端、脳みそを這う、絶対に切れてはいけない細い血管の網がぶちぶちぶちぶちと切れまくった。




