第百二十八話 居酒屋ハルト
晴翔は借りている涼太の部屋で、机に向かい参考書を眺める。就寝前の勉強は、彼にとっての習慣である。
彼は暫く集中して問題を解いていたが、ふとペンを動かす手を止め、なんとなしに視線を天井に向ける。
そんな彼の脳裏には、今日1日で何度も見ることが出来た綾香の笑顔が浮かんでいた。
「可愛いよなぁ……」
今日のデートの事を思い返して、彼は小さく呟く。
綾香と付き合い出してからは、本当に幸せな日々が続いている。そう実感する晴翔。
彼女の笑顔を見るたびに、晴翔は自分の心が弾み幸福感で満たされるのを感じていた。
さらに、晴翔に幸福感を与えてくれるのは綾香だけではない。
東條家の人達の賑やかで温かい雰囲気は、晴翔を優しく包み込む。
小さな頃から祖父母と暮らし、祖父が亡くなってからは清子との二人暮らしをしていた晴翔にとって、
笑いが絶えず優しさに包まれている東條家での日常は、自然と笑みが溢れるような温かさがあった。
「もし夏休みにバイトしてなかったらって考えると、ちょっと怖くなるな……」
そんなことを呟きながら、晴翔は綾香の部屋がある方の壁に視線を向ける。
今日は朝早くから起きていたため、すでに彼女は寝ているだろう。
「これからも沢山、一緒の思い出をか……」
イルカたちが舞う幻想的な雰囲気の中で言われた綾香の言葉は、晴翔の心の中に強く印象に残るものだった。
その後も、幸せの余韻に浸りながら勉強を進める晴翔。
綾香とデートした効果なのか、いつもより集中して取り組むことが出来ている。
そのため、当初の予定よりも長く机と向き合っていて、気が付けばかなり遅い時間になっていた。
「もうこんな時間か、ちょっとやり過ぎたな」
晴翔は机の上を整理すると、一杯だけ水を飲んでから寝ようと、部屋から出てキッチンに向かう。
晴翔以外の人たちは既に寝ているため、彼は静まり返った東條家の中を静かに歩き、食器棚からコップを取り出して水道水を一気飲みする。
「ふぅ……寝るか」
軽くコップをすすぎ、部屋に戻ろうとした時、玄関の方から物音がした。そして、その後すぐに修一がリビングに入ってくる。
「あ、修一さんお帰りなさい」
「おや? 晴翔君? まだ起きていたのかい?」
スーツ姿の修一が、少し驚いたような顔で晴翔を見る。
「はい。寝る前に勉強をしていたのですが、思ったよりも長くしてしまって」
「おぉ、さすが晴翔君だ。感心感心」
晴翔の事を褒めながら、修一はネクタイを緩める。
「あの、修一さんは今仕事帰りですか?」
「そうなんだよ。思ったよりも仕事が長引いてしまってね」
そこで晴翔は、今朝修一が仕事で遅くなるから夕飯は要らないと言っていた事を思い出す。
「こんな時間まで、お仕事お疲れ様です」
「いやぁ、今日は流石に疲れたよ。でもね晴翔君、そのおかげで、大きな案件が上手くいきそうだよ」
そう言う修一の様子は、疲れが滲んでいるものの、それ以上に達成感のような清々しさが滲み出ていた。
「だからね。ちょっと自分へのご褒美で、少し飲もうかなと思っているんだ」
修一は「仕事終わりの一杯は最高だからね」と、ホクホク顔で冷蔵庫へと足を向ける。
と、その途中で『グゥ〜』と彼のお腹が大きく鳴った。
「あれ? 修一さん、もしかしてご飯を食べていないんですか?」
「あはは……実は外で食べてくるつもりだったんだがね」
修一は、少し恥ずかしそうに片手で頭を掻きながら晴翔の方を向く。
「思った以上に遅い時間になってしまって、お店に入ってご飯を食べるのが面倒になってしまってね。早く家に帰って、呑みながら適当に何かつまもうと思ったんだよ」
「そうだったんですね……なら、俺が何か作りますよ」
「いやいや! それは晴翔君に悪いよ! もうこんな時間だし」
晴翔の提案を修一は両手を振って断る。
しかし、晴翔はにこやかな笑みを浮かべて「構わないですよ」と返す。
「むしろ修一さん達には日頃からとても感謝をしているので、そのお礼という意味も込めて、自分に作らせて下さい」
仕事を失った祖母を雇ってくれ、そして晴翔自身の事もまるで本物の家族の一員のように迎え入れてくれている修一達に、晴翔は常日頃から恩返しをしたいと考えていた。
彼は、今回はその恩返しの絶好のチャンスだと考える。
「いやいや、そんな恩を感じる必要はないよ」
「ありがとうございます。ですが、修一さん達はいつも、俺の料理を美味しいって食べてくれるので、料理するのが凄く楽しいんです」
晴翔は和やかな笑みを修一に向ける。
「なのでぜひ、俺に作らせて下さい」
そう言って頭を下げる晴翔に、修一は少し悩んだ様子を見せたあとに「じゃあ」と口を開く。
「お願いしちゃっても、いいかな?」
「はい、ありがとうございます。では、支度をしておきますので、修一さんは着替えてきてください」
晴翔のその言葉に、修一は「すまないね」と言って着替えのために一旦リビングから去る。
「さてと」
晴翔はキッチンに立つとまず初めに、修一がビールを飲むときに使っているグラスを冷凍庫に入れる。
そして、冷蔵庫の中を見て、つまみメニューを考える。
「ん〜、まずは簡単にすぐに出せるものを作って、修一さんの空腹を少し満たした方が良いかな? その後にガッツリ系も作るか……」
晴翔は冷蔵庫の中にある食材を確認しつつ、脳内でメニューの候補を上げていく。
「取り敢えず、豆腐とキムチ、それと……キャベツとネギでいいかな。お! そういえば砂肝があるんだった。後でこれも使おう」
晴翔は食材を取り出すと、鍋に水を入れて加熱する。
次にキャベツをざく切りにした後に、キムチを適当な大きさに刻み、ついでにネギも小口切りにする。
食材を切り終えると、シンク下の引き出しからボウルを二つ取り出す。
片方のボウルにはキャベツを入れ、ラップを掛けて電子レンジで加熱する。その間に、晴翔はもう片方のボウルに刻んだキムチとネギを入れると、そこに胡麻油を投入して掻き混ぜる。そして、その混ぜたものを小鉢に移した豆腐の上にかける。
ちょうどそこで、キャベツの加熱が終了したので、彼は電子レンジからボウルを取り出す。
「あちち……」
晴翔は熱々になっているボウルからラップを外し、しんなりとしたキャベツを冷水で冷やし、しっかり水気を切ってから韓国のりをちぎり入れる。
軽くボウルの中を混ぜると、続いて彼は胡麻油、醤油、塩コショウを加えてさらに和える。
最後に、少し味見をして塩コショウを追加した晴翔は、小皿に盛り付けて上から白煎り胡麻を散らす。
胡麻油のキムチ冷奴と韓国のりのキャベツ和えが完成したところで、ちょうど着替えを終えた修一がリビングに戻ってきた。
「修一さん、最初はビールで良いんですよね?」
「うむ! ありがとう晴翔君!」
晴翔の言葉に修一は満面の笑みで頷くと、カウンター席に腰を下ろす。
ウキウキとした修一の笑顔に晴翔も笑みを浮かべながら、冷凍庫に入れていたグラスを取り出し、冷蔵庫の缶ビールを手に取る。
「修一さん、どうぞ」
「ありがとう!」
修一は晴翔からグラスを受け取り、キンキンに冷えているグラスに相好を崩す。
「では、おつぎしますね」
晴翔はそう言うと、傾けられている修一のグラスにビールを注ぐ。
冷えて白くなっているグラスに、琥珀色の液体が勢いよく流れ込み、その対流はきめ細かくクリーミーな泡を作り出す。
十分な泡ができると、今度は静かにゆっくりと注ぐ晴翔。
こんもりと泡を被り、金色の輝きを放つグラスを手に持ち、修一は感心して晴翔を褒める。
「いやぁ素晴らしい! 完璧だよ晴翔君!」
「ありがとうございます」
「ではいただくとするよ」
修一は待ちきれないといった様子でグラスに口をつけグイッと傾けた。
喉を鳴らしてビールを飲む修一。
彼は半分程を一気に飲んだ後、歓びの境地に至ったかのような表情でグラスをカウンターにドンと置く。
「くぅ〜! この瞬間がたまらん!」
とても美味しそうにビールを飲む修一の姿に、晴翔も釣られて幸せな気分になってくる。
「胡麻油のキムチ冷奴と、韓国のりのキャベツ和えです。どうぞ」
晴翔はキッチンに立ちながら、腕を伸ばして先程作ったつまみをカウンターテーブルに置く。
「おぉ、この短時間で作ったのかい? 相変わらず晴翔君は手際がいいね」
「祖母なら、この時間で三品作っちゃいますよ」
「それは凄い。いつか清子さんのおつまみも、食べてみたいね」
そう言いながら、修一は「いただきます」と手を合わせてから、まずはキャベツ和えの方に箸を伸ばす。
韓国のりとキャベツを一緒に食べた彼は、パッと目を見開いたあと、すかさずビールを喉に流し込む。
「晴翔君! これはビールが止まらなくなるやつだよ!」
そう言うや否や、修一はもう一口キャベツ和えを口に放り込み、ビールを煽る。
「ぷはぁ! 美味いっ! こっちの冷奴も……うんうん! これも美味しいよ晴翔君!」
「お口に合って良かったです」
キャベツ和えの方は、ビールに合うように少し濃い味付けにしている。それに対して、冷奴の方はキムチのピリ辛とネギの風味で、食が進むようしてある。
晴翔は「うまいうまい!」と言いながら食事をする修一の姿に、内心でガッツポーズをする。
そんな彼は、更に修一に満足してもらう為に冷蔵庫から砂肝を取り出す。
「修一さん、どれくらいお腹空いてますか? 結構食べられます?」
「晴翔君の料理なら、延々と食べられるくらいには空腹だよ」
「わかりました。じゃあ、色々と作っていきますね」
修一の返答に微笑みながら、晴翔は砂肝をさっと茹でて臭みを取ると、筋を切って油をひいたフライパンで炒める。
「いやぁ、まるで居酒屋にいる気分だよ」
「お店のクオリティに近付けるよう、精一杯作らせていただきます」
「あはは! 晴翔君の料理はもう既に居酒屋の料理と同等か、それ以上だよ」
控えめな事を言う晴翔に、修一は笑い声を上げながら彼の料理に太鼓判を押す。
晴翔は「ありがとうございます」と笑みを返しながら、焼き色の付いた砂肝に料理酒を振りかけると、蓋をして蒸し焼きにする。
そこで、ちょうど修一のグラスがほぼ空になったのに気が付いた晴翔は、冷蔵庫から新しい缶ビール取り出す。
「修一さん、どうぞ」
「どうもどうも! いやすまないね!」
修一は上機嫌でグラスを差し出し、注がれるビールにニコニコと口角を上げる。
再び美味しそうにビールを飲み、つまみに箸を伸ばす修一。
晴翔はつまみの減り具合を確認しながら、今度はナスを取り出し半月切りにする。そして、砂肝を蒸し焼きにしているフライパンの隣に、もう一つフライパンを並べ、そこでナスを油で炒める。
ナスに塩コショウを振った晴翔は、今度は白ネギをみじん切りにすると、蒸し焼きにしていたフライパンの蓋を取って、その中に加える。
白ネギがしんなりしたところで、顆粒の鶏ガラスープ、胡麻油、レモン汁、おろしにんにくを混ぜ合わせた調味料を砂肝に絡め炒めて、最後に塩コショウで味を調える。
「砂肝のネギ塩レモンです」
晴翔は器に盛り付けた砂肝を修一の目の前に差し出す。
「おほほぉ! 待ってました!」
カウンターに置かれた料理からは、香ばしいニンニクと胡麻油の香りが広がり、修一の食欲を大いに刺激する。
「いただきますッ!」
修一は瞳を輝かせながら、ネギダレが絡んだ砂肝を箸でつまんで口に運ぶ。
「はふっ熱ッ、うん、うん! 美味い! 最高だよ晴翔君ッ!」
修一は晴翔に親指をグッと立てると、急いでビールを飲む。
「胡麻油とニンニクの食欲をそそる香り、ビールにあう塩辛い味付け、しかしレモンの酸味がコッテリを軽減してくれて幾らでも食べられる気がする……晴翔君! ありがとう!」
修一は上機嫌に手を指し伸ばし、晴翔と握手をする。
「喜んで頂けてなによりです」
晴翔は修一の握手に応えると、次にベーコンを冷蔵庫から取り出して1㎝程度の幅にカットし、フライパンで炒めてしんなりとしているナスに加えてさらに炒める。
ナスがベーコンの油を吸っていい匂いがしてきたところで、晴翔はそれを耐熱皿に移し替えると、その上からチーズをたっぷりとかける。
そして、手にバーナーを持ったところで、晴翔の調理風景を眺めていた修一が、満面の笑みを浮かべながら口を開く。
「あぁ、晴翔君。君はなんてものを作ろうとしているのだ……」
そんな言葉に、晴翔はニコッと笑みを浮かべると、バーナーに火を付け、チーズを炙る。
焼け目を作りながらとろけていくチーズに、修一にもまたとろけたように「あぁ……」と声を漏らしている。
「ナスとベーコンの炙りチーズ焼きです。食べてみてください」
先程の砂肝のネギ塩レモンの隣に置かれる魅力的な料理に、修一はゆっくりと首を振る。
「晴翔君。ダメだよ……これはダメだ。こんなことをされたら、私は居酒屋ハルトの虜になってしまうよ」
「ふふふ、いつでも来店お待ちしていますよ」
「常連になってしまうよ」
そんな事を言いながら修一は、伸びるチーズの糸を引きながら、ナスとベーコンを食べる。
「ビールが止まらん!」
居酒屋ハルトの魅力にはまった修一は、ビールを飲む手が止まらなくなるのであった。
お読み下さり有難うございます。
朝にビールの描写はどうなのかと思い、夜に投稿。




