89 二人の神崎
零が立ち上がり、ギラギラした目で私を見つめた。
その視線に押されて後ずさろうとしたところで、自分が作ったバリケードに阻まれた。
まずい、と思ったがもう遅い。
私の焦りを見て取ったのだろう、零はニヤニヤとした笑みを浮かべた。
「いやいや、苦労した。大したものだよ、ホモ・サピエンスの脳ってやつは」
「脳?」
「生贄としてその身を僕に捧げてくれた人がいてね。その脳をもらったんだよ」
「……は?」
「ホント驚いた。容量は大して変わらないのに、思考力は桁違い。なるほど、神様すら生み出すはずだ。甘く見てたおかげで、残留思念に乗っ取られかけたよ」
零はおかしそうに笑った。
何を言ってるかわからない。脳? 生贄? 神様? 残留思念? そんなオカルト用語を使って、零は何を言おうとしているのか。
「飼い慣らすのに半年もかかった。特に、君を見ると暴れるんだよね、この脳」
「あなた……一体、なんなの?」
「悪霊だよ」
ククッと笑いながら、零が私に近づいてくる。
「いったい何したのさ? 心の底から君を恨んでるよ?」
壁際に追い詰められた私の目の前で、零が自分の頭をコンコンと叩く。
「さ……さあ、覚えがないわ……ね」
「それにしても、手の込んだことをしてくれたね」
ミトのことを警察に密告したことか、それともダークウェブに零を襲うよう書き込んだことか。
あるいはその両方か。
「で、バックにいるのは、どんな神様?」
「……は?」
そのどちらでもなかった。
バックにいる神様? なんのこと? 意味がわからない。
眉をひそめ首を傾げた私に、零が「ふうん」と笑いかける。
「すっとぼけているのか、それともただの駒か。さて、どっちかな」
「な……なんなの、あなた、なんなの!」
「さっき言ったじゃない。悪霊だよ」
零の人差し指が、私の唇に当てられた。
冷たい。以前と同じ、氷のような冷たい指。私の体が、凍りついたように動かなくなる。
「生贄からの依頼だ。君を殺してくれってさ」
「だ……誰よ、その、生贄って……」
「神崎詩織」
あっ、と私は声をあげそうになった。
詩織……詩織!? あの子が!
「そ、君の従妹さ」
ククッと笑う零に、詩織の姿が重なる。
「僕、似てるでしょ?」
零の指が、ついっ……と私の体を降りていく。
「ま、当然だね。神崎詩織の体をもらったからね」
空港で見かけたとき、初めて会ったはずなのに知っている気がした。
それはそうだ、零は、あの子のお気に入りの服を着ていたのだから。
お屋敷で再開したとき……あの子が嫉妬する様子にそっくりだった。勝ち誇って浮かべる笑顔なんて詩織そのものだった。
「はっきり言って、クソみたいな女だけどね」
詩織。神崎詩織、私の従妹。
見てくれだけの、中身のない空っぽの女。私が必死の努力で手に入れたものを、媚びた笑顔を浮かべて、両足を開くだけで手に入れてきた女。
私が必死の努力で得たものを、親からもらった美貌だけで手に入れた女。
死ぬほど嫌いだった。死んでも構わないと思った。
だからあの男に言われたとき、私は躊躇なく詩織を紹介した。案の定、詩織はあの男に入れ上げ、弄ばれるだけ弄ばれた挙句、全てを奪われて海に身を投げた。
その詩織が……生贄として、悪霊に身を捧げたというのか。
「生贄として受けとった以上、義理は果たさせてもらうよ」
何の感情もない、零の言葉が終わるとともに。
私の体をなぞっていた零の指が、私の胸にめり込み、心臓に突き立てられた。
「が……あ……」
「さあて、試運転兼ねて、全力出してみるか」
零の背後から、ゴボリ、と音を立てて闇が溢れた。
お腹に開けられた穴から闇が流れ込んでくる。闇は私の中身を食らい、満たしていく。
──いやだ。
私の中身が食われていく。何もかもを食い尽くされ──代わりに、私の中にあの子が入り込んでくる。
──いやだ、いやだ。死にたくない。
私の心の奥底から、強い思いが湧き出てくる。
死にたくない、死にたくない。
死にたくない、死にたくない──こいつに──二度も──殺されてたまる──か──
「死ね」
零の指先から闇があふれ、私の心臓が破裂し、私はその場に崩れ落ちた。




