88 対面
ワインを一本空けて眠り、目を覚ましたのは夜明け前だった。
午前四時。もうじき日の出だ。耳を澄ませたが何の音もせず、屋敷の中は静かだった。
さてどうなったのか。
パソコンを開きダークウェブを覗くと、午後三時半ごろに最後の写真がアップされていた。ボロ雑巾のような姿で惚けた表情の零。これはもう壊れてしまったかも知れない。
私はパソコンを鞄にしまうと、様子を伺いつつ部屋を出た。
もうここに用はない。夜陰に乗じてさっさと帰ろうと、私は足音を忍ばせて歩いた。零の寝室へと伸びる廊下の途中に一階へ降りる階段がある。そこを降り、裏口へ回って出て行けば誰かに見られる心配はないだろう。
「ひっ……」
だけど、私は階段を降りることができなかった。
あの男がいた。空っぽの、中年の男。虚ろな目で私を見上げ、ぺたり、ぺたりと階段を上り始めた。
「な、なんで……なんで、こんなときに……」
私は隠れていた部屋へ逃げようとして、息を呑んだ。
部屋の入口を塞ぐように、別の男が立っていた。さっきまではいなかった。いつ現れたのかさっぱりわからない。
階段の下から、そして背後から。
二人の空っぽの男がペタリペタリと近づいてくる。どちらへ行くこともできず、私は追い詰められるままに零の寝室へと向かって後ずさりし、くるりと踵を返して走り出した。
まずい、まずい。
今ここにミトはいない。あいつらを追い払える男は、私の密告により警察に拘置されている。
「ひっ!?」
空っぽの男が速度を上げて追いかけてきた。うそ、走れるの、と思ったところで、開いたままの零の寝室の扉が見えた。
私は空っぽの男が伸ばした手をギリギリでかわし、零の寝室に飛び込んで扉を閉めた。
「いや、いや……」
ドン、ドン、と外側から扉が叩かれた。私はとっさに扉の鍵を閉め、目の前に転がっていたソファーを扉の前に置いてバリケードを築いた。
「いいの? 部屋、出られなくなるよ?」
笑いを含んだ美しい声が、私の背中に投げかけられた。
息が止まるかと思うほど驚き、うそ、どうして、と思いながらゆっくりと振り返った。
零が、いた。
窓際のソファーに座り、膝の上に乗せたノートパソコンを見ていた。モニターの明かりに照らされた零は、ボロ雑巾でもなければ惚けてもいない。七分袖のゆったりとしたシャツにGパンと、これまで見たことのないボーイッシュな格好をしていた。
「おもしろいねえ、ダークウェブ、ていうんだ」
ククッ、と笑いながら零がタッチパッドをなぞる。
「もっと早く知りたかったよ。これ知ってたら、枯れた怨霊を食べに、あちこち出歩く必要なんてなかったよ」
まあ、そうしたら祐一さんに会えなかったけどね。
そんな言葉の後で、ククッ、と零が笑う。バリケードで塞がれた扉の前で、私は立ち竦み身動きすらできない。どうすればいい、と空回りする頭で必死に考えたが、考えがまとまらない。
「さてと……久々にたらふく食べたよ。差し入れ、ごちそうさま」
ぱたり、と零がパソコンを閉じて私に視線を向けた。
これ、誰?
私は零を見てゾッとした。私の知らない零だった。男に媚び、何もできない、ただ綺麗なだけの女の子なんかではない。
そう、あの、雨の夜に会った零。
その前は、月夜に会った零。
そして今年の初め、空港ですれ違った零。
「こうして、きちんと会うのは初めてだね」
立ち竦み、震える私に零が微笑む。
「改めまして、僕が零だよ。以後お見知り置きを。神崎直美様」




