85 悪夢 - 刺殺
──返せ、返せ、と空っぽの男がうめく。
逃げようとして闇に捕らえられ、その場に押さえつけられる。
空っぽの男が吐き出した闇に絡みつかれる。
苦しくて、痛くて、逃れようと必死でもがくが、闇は離れてくれない。
やがて闇に引きずり込まれ、海の底へ沈んでいく。
苦しい。
息ができない。
離せ、離せ、離せ。
あがいてもがいて、それでも暗い海の底へ沈んでいく──
「ぐはっ」
肺の中に満ちていたドロドロの闇を吐き出しながら飛び起きた。
ゼエハアと肩で息をし、肺胞にこびりついていた闇を咳とともに吐き出す。
全身が猛烈にだるい。
ただ夢を見ているだけなのに、身も心も削り取られている。
このままだと、本当に命を落としかねないと感じる。
──返せ、と声が聞こえた。
闇の中、空っぽの男が浮かんでいた。
……許して。
空っぽの男に許しを請う。
痛めつけられ、削り取られ、気がふれてしまう一歩手前の声音で、空っぽの男に許しを請う。
落ちていく。
沈んでいく。
またあの闇に引きずり込まれる。
暗い海の底、冷たい水の中、闇にまとわりつかれて沈んでいく。
──返せ、と空っぽの男がうめく。
私の中へ入り込もうと、全身を包み込み、穴という穴から入ってくる。
嫌だ、嫌だ、嫌だ!
入ってくるな、私の中に入ってくるな!
海に落ちる。また海の中へ引きずり込まれる。空っぽの男に食われながら、光の届かない暗い海の底へ沈んでいく。
もう……もういやだ……。
苦しい。
息ができない。
もう死なせて。お願いだからもう死なせて。
許して……もう許して……
──ごぼり、と息を吐く。
意識が遠のき、これで終わったとほっとしたところで……また最初からやり直す。
また同じ夢。
永遠に苦しみ続ける悪夢。
何回も、何十回も、何百回も、何千回も、何万回も。
許して。私が悪かったから。もう許して、お願い。
「なる……ほど……ね」
永遠に続く責め苦の中、不意に声が聞こえた。
「これが……そうか……ふふ……すごい……ね」
途切れ途切れの声に続き、海の底、果てしなく続く闇の中から腕が伸びてきた。
窒息し、死にかけた私の首を掴むと渾身の力で握り締め、美しく響く声で「ククッ」と笑う。
「ご苦労……さん……もう……いいよ」
ぐしゃり、と喉が潰された。
首を引きちぎられ、開いた穴から手を突っ込まれ、頭の中身を引きずり出された。
脳。
私の全てが詰まったそれを、美しい声の主はムシャムシャと食べる。
「死なせてあげる。お供もつけてあげるよ」
食べ終えた声の主が、これまでとは打って変わった、なめらかな口調でそう告げた。
そして。
コォンッ、と高らかに響く音とともに、私の心臓に大きな釘が突き立てられた。
死ね。
若い女の声が聞こえる。コォンッ、コォンッ、と軽やかな音を立てて、釘が私の心臓に食い込む。
死んでしまえ。
あんな女、死んでしまえ。
歪んだ愛と怨念が込められた釘が、私の残りカスにとどめをさす。美しい声がククッと笑い、「義理は果たしたかな」とつぶやいた。
ああ──死ねる──。
苦しくて、痛くて、永遠に続くと思われた絶望の果てに。
私は死を与えられ、空っぽの男と絡み合いながら闇の底へ沈んでいった。




